虫や動植物を殺したらスピリチュアル的に罪になるのか?

不殺生

殺生(せっしょう)については、メジャーな宗教では必ず「殺生戒」という戒律があって、戒められていますね。

ただ、殺生すなわち「殺す」というのが、どこからどこまでの範囲であるのか?

各宗教によっても定義が違いますし、あるいは「無宗教である」という方にとっても気になるところであると思います。

インド起源の宗教で、ジャイナ教というのがありますが、ここはほんとに徹底していまして、歩くときにも箒(ほうき)で掃きながら歩くのです。

これは、不用意に虫などを踏み殺してしまわないように、という配慮からなされているわけです。

ただ、箒で掃きながら歩けば、不殺生(ふせっしょう)を徹底できるのか?というと、現代人から見れば、「そんなことはないだろう」と反論できますね。

呼吸をしているだけでも、微生物を体内に取り込んでしまいますし、体内に異物が侵入すれば、それらを撃退する機能が生命体として備わっているわけです。

微生物や細菌くらいいいじゃないか…という話であれば、「じゃあ、生命にどうやって軽重をつけられるわけですか?その基準は?」という疑問が出てきますね。

生命の軽重といえば、「肉は食べてはいけないけど、植物なら良い」というベジタリアンの考え方もあります。

が、ハッキリ申し上げると、植物にも魂はありますし、生命の本能として、「殺されずに地上の命を全うしたい」という願いはしっかり持っています。

植物

このように考えていくと、私たちは生きているというそれだけで、殺生を完全に避けることは不可能だということが分かります。

それでは、「動植物や虫を殺してしまうこと」「虫を殺せない」「虫を踏んでしまった」といったことが気になる方のために、真理スピリチュアルの観点からどのように考えていけば良いのか、以下、探ってみましょう。

目次

エネルギー循環の理論(空の論理)で考える

生命エネルギーを一瞬で差し出すか?一生涯で差し出すか?

そこでもっと根本に立ち返って、「生きること」「食べること」の意味について考えてみましょう。ここから、動植物、虫などを殺すことがスピリチュアル的に罪であるかどうか?が視えてきます。

結局のところ、私たち人間にしても、何かしら食べていかないと生きていけないわけです。

ということは、間接的であるにせよ、殺生を媒介にしなければ自らの生命を維持することもできない、ということになります。

食べるということはそもそも何であるか?というと、これは結局、エネルギーを補給する、ということですよね。

たとえば、鮭を食べるのであれば、鮭の生命エネルギーを頂いて、私たちはそれを自らの生命維持に使っているということになります。

そして、生命維持の結果、私たち人間は何かしら、仕事をして「新たな価値=付加価値」を生み出しています。

その付加価値のひとつの現れとして、”お金”などが報酬として与えられるわけです。

お金、金銭的対価というものは、付加価値をこの世(現象界)的に翻訳したものなのです。

そのように考えていくと、

鮭は、自らの肉体生命そのものをエネルギーとして人間に差し出している(鮭の意思であるかどうかはひとまず置いておきます)わけで、

一方、人間はそのエネルギーを元に、仕事をすることによって”付加価値”という新しいエネルギーを他者に与えている、という構図になっています。

付加価値

つまり、

鮭は自らの肉体の死ということで一瞬にしてエネルギーを与え尽くし、地上生命を終えていくわけですが、人間は、70年、80年…という長い期間をもってエネルギーを他者に与えている、という考え方が成り立つと思います。

そして、その人間もいずれは地上の命を終えていきますので、鮭との違いは何であるのか?というと、

「エネルギーを他者に与えるという行為において、一瞬で成すのか、数十年をかけて成すのか」の違いに過ぎない、ということになります。

空の論理とは?エネルギー循環の論理で考える

ネオ仏法では、仏教で言うところの”空(くう)”を「実在界(あの世)までも視野に入れたエネルギーの循環のさまを指している」と理解しています。

”空”について勉強したことがない方は、たとえば「水の循環」というものを思い浮かべてください。

水はあるときは、液体という形態をとっていますが、またあるときは、氷という固体のかたちをとります。そして、蒸発すれば、水蒸気という気体かたちをとりますよね。

仮に”氷”という側面を中心に考えてみましょう。

氷は確固とした永遠不滅の存在ではなく、たまたま”今ここ”に様々な条件のもとに仮に氷という形態をとっているだけなのです。これを仏教では”無我”と言います。

そして、氷は今この一瞬一瞬においても、少しずつではあっても液体化しているか、もしくはさらに固まっていくか…といったふうに、常に変転変化の途上にあります。これを仏教では”無常”と言います。

氷

存在というものは、この時間軸における無常と、存在軸における無我の交差する一点に、たまたま今ここに、仮に”在る”ように視えているだけなのです。

こうした考えを仏教では”空”と表現しておりますし、また、先に述べたように、エネルギーがさまざまに形態を変えつつ循環しているさまを指すこともあります(少なくともネオ仏法ではそのように考えます)。

”空”についてさらに理解を深めたい方は、下記の記事をご参照ください。

*参考記事:色即是空 空即是色 の意味と違いは?-『般若心経』の悟りを超える新解釈

話を鮭などの食べ物に戻しましょう。

この世(現象界)だけの現象だけを見て、「生きた、死んだ」と言っていると、「なぜ、食べないと生きていけないのか?」「なぜ、そのような構造になっているのか?」がサッパリ分からないのですが、

上記のように”空の論理”で考えてみると、肉体的・生物的な生と死というものも、エネルギーの存在形態が変わっているだけ、とも考えられます。

このように、実在界(あの世)までも含めた「エネルギー循環の理論」で考えると、ほんとうの意味での”死”は存在しない、ということが分かるのです。

なんのためにエネルギーは循環するのか?(付加価値論)

それでは次に、「なんのためにエネルギーが循環しなければいけないのか?」「そのたびに、殺されていたりしたら無駄に痛いだけじゃないか?」という疑問が出てきますね。

これはとても深いふかい話につながっていくのですが、

結局、エネルギーというものは、全体の総量が常に一定で、ぐるぐる回っているだけでは、文字通り回り損になってしまいます。

わざわざ回らなくても、静止していればいいじゃないか?ということですね。

でも実はそうではなくて、

生命エネルギーは循環することによって、特に付加価値を生産することができる人間の活動によって、エネルギー総量は増え続けているはずなのです。

その理由をご説明いたしましょう。

先ほど、仕事における”付加価値”という言葉を使いました。

この「付加価値論」が今回のテーマはもちろんのこと、「実在界を含めた大宇宙はなにゆえに存在しているのか?人間を初め、さまざまな個性ある生命体が存在している理由は何であるのか?」という問いに対するひとつの答えになっているのです。

付加価値とは、文字通り、「(新たに)付け加えられた価値」です。

つまり、人間のような”思考する生命体・高等生物”は、「智慧のちから」を使うことによって、価値を増量させていくことができるのです。

そして、個々の人間が付加価値を生産し続けているということは、すなわち、全体で見ても付加価値が増え続けているということになります。

お分かりでしょうか?

”部分”が増えているということは”全体”が増えているのと同じことなのです。

たとえば、”私の肉体”というひとつの”全体”を考えてみますと、肉体細胞という”部分”が増えていけば、身体という”全体”も増えることになりますよね。

部分と全体

スピリチュアル的に話のパースペクティブを変えてみますと、

究極の神的存在が”全体”です。人間を始めとする動植物はその神的存在の一部、神的存在という”ボディ”の肉体細胞に相当するのです。

そして、”部分”である人間ががんばって付加価値を創造していくことにより、”全体”である神ご自身も増量・発展していくことができる、という構造になっているのです。

そのために、生命エネルギーは循環しているのです。これが、宇宙創造の意図です。

このように、付加価値論こそが、「大宇宙が作られ、個性をもった生命体が創造された秘密」にあたるわけです。

話しをもう一度、鮭と人間に戻してみましょう。

鮭はみずからの生命エネルギーを人間に与えることによって(この世の肉体の死)、人間のエネルギー源となります。

そして人間はそのエネルギーをもとに、仕事などを通じて、毎日毎日、”付加価値”を生産しつづけているのです。

このように考えていくと、やはり上述したように、人間という存在は、自己のエネルギーを全生涯を通じて他者へ与え続けている存在なのです。

鮭は一瞬にして生命エネルギーを人間へ与えておりますが(ここのところが殺生です)、人間は一生をかけて、付加価値を産出しつつ、その生命エネルギーを他者へ、宇宙へ与え続けているのです。

鮭と人間の違いは、

  • 生命エネルギーを与える時間の長さの違い
  • 付加価値を産出しているかどうかの違い

ということです。

そういうわけで、結論に行きましょう。

この世(現象界)の観点だけで考えると、食べるために動植物・虫などを殺生するのは罪であるかのように思えますが、この場合の殺生というのは肉体の生命エネルギーを食用のエネルギーに変えることなのです。

そして人間は、彼らの生命エネルギーを無駄にせず、感謝しつつ、一生を通じて付加価値を産出しつつ、自らの生命エネルギーを他者へ与え続けている。

少なくともそのような生き方をしていけば、動植物・虫などの生命を無駄にしているわけではなく、大宇宙の発展のために有効に役立てているということになります。

かんたんに申し上げれば、「彼らの死を無駄にしないという限りにおいて、この世では限定的に、肉体的な殺生を伴うことも許容されている」ということですね。

人間も動植物・虫たちも、「生命エネルギーを他者へ与える」。仏教的に言えば、布施するという修行を積んでいるわけです。

したがって、感謝しつつ彼らの死を無駄にしないで、正当に生きていく限りは、この世での殺生も一概に罪であるとは言えない、ということになります。これが結論です。

もちろん、上記のように考えるならば、無益な殺生は慎むべきですし、罪であると言えるでしょう。

より有益な目的のため、「感謝をしつつ」という条件が必須となります。

感謝はエネルギー循環における、いわば潤滑油の役割を果たしております。それゆえに、ご飯を食べるときは、「いただきます」と言うのですね。

「いただきます」は、「あなたがた(動植物)の生命を無駄にせず、私たちは世界をさらに良くするためにがんばります、ありがとう」ということなのです。

感謝

害虫の駆除についてスピリチュアル的にどう考えるか?

上述した内容では、「動植物・虫のエネルギーを頂き、付加価値をつけてエネルギーの循環を為していく、それが人間の使命でもあるのだ」というお話でした。

それでは、害虫のように「特にエネルギーを頂いているわけではないんですけど?」「駆除でエネルギーを消耗しているような…」という場合はどのように考えたらよいのでしょうか?

この場合でも、やはり「エネルギー」をより広い定義で考えていきます。

どういう定義の広がりかと申しますと、一言でいえば「智慧」なのです。

具体例を挙げてみましょう。

たとえば、「蚊に食われてやだな」と思ったとします。なぜ、嫌だと思うのか?

それは、「血がもったいないから」という以上に、「こっそりと盗まれるのが嫌だ」「こそこそして盗もうとしている姿勢そのものに嫌悪感を感じる」というところでしょう。

そこで、人は体感として、「こそこそと盗むのはみっともないことだ」ということを学ぶことができるわけです。美意識に基づいた倫理観と言ってもいいですかね。「かっこわるいことはするな」みたいな倫理観です。

個人や大宇宙が展開している理由が「智慧と慈悲の増量」にあるのであれば、害虫と対峙して何らかの(感覚的なものであれ)学びを得たのであれば、それは”智慧”という立派な付加価値/エネルギーなのです。

そして、その学びを自己に活かし、活かした自己でもってまた他者や世界に向き合っていくことができます。そこにやはり、空なるエネルギーの循環があるのです。

害虫たちは自然界においてはもちろん分解作用を行ったり、鳥の餌になったりで、プラスの仕事もしておりますが、対人間的にはそうした「反面教師役」を担ってくれていると見ることができるでしょう。

害虫

釣りなど、趣味における動植物・虫の殺生はどのように考えるか?

殺生のトピックから、やたらとスケールの大きい話になってしまいましたので、最後にひとつ一般的な話を付け加えておきます。

たとえば、「趣味の釣りで魚を釣るのはダメなんじゃないか?」という疑問がでてきそうです。

でもですね、

釣りで釣られた魚はある意味、単純に食べられる(殺される)よりも、大きな仕事をしている可能性があります。

それは、釣りを趣味にしている人に、「自然の美しさ、癒やし、生命のありがたみ」という価値を思い起こさせているからです。

そして、その癒やしのエネルギーを受け取った釣り人は、平日にリフレッシュして仕事に取り組み、また付加価値を生産していくことができるわけです。

釣り

ここでもやはり、エネルギーの循環(空の論理)、そして、付加価値論が成立するのですね。

以上、食べ物の話から大宇宙創生の秘密まで行ってしまいまして、少し分かりづらいところもあったかもしれませんが、

主題である「動植物や虫を殺したらスピリチュアル的に罪になるのか?」について、最終的な回答を出せたのではないか、と自負しております。

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