現象界(この世)と実在界(あの世)は同時存在する !?

とりあえずは、現象界(この世)/実在界(あの世)という理解が大事

ネオ仏法では、現象界(=この世)/実在界(あの世)と、とりあえず区分しています。

これは、多くのスピリチュアルや宗教でもこういう二分法を使いますね。

また、「あの世」ということには限定されませんが、ギリシャ哲学のプラトンのイデア論も、現象の背後にイデア(実像)の世界がある、ということで、構図としては同じことを述べています。

二分法は聞いていても理解しやすいですし、また方便とまではいかないのですが、現象界/実在界と、とりあえずは二分法で理解したほうが実践面でも便利です。

むしろ、現代社会では、この部分が忘れられていますので、積極的に現象界/実在界と分けて語ることが大事だな、とも思います。

しかしこの、現象と実在というものは、ネオ仏法の記事をずっと読んでいる方であれば、どうも単純に二分法で済む話ではないのでは?とお気づきかもしれません。

実際に、現象/実在の関係については、「ネオ仏法は、小乗も大乗もはるかに超えてゆく」というシリーズでもっと突き詰めて論じ、ひとつの「回答」を出すつもりです。

「今ここ」で、実は霊界にいる!?

上記の二分法で行けば、人間は、肉体の死後、霊界に赴く。まあ用語としての整合性を保てば、死後、実在界に赴く、ということになります。

これはもちろん、その理解で真理ですし、また上述したとおり、現代社会ではむしろ、この「古臭い」考えを再度、浸透させることが必要と思います。

もっとも、「仏陀・釈尊は、いかなる意味でも永遠不滅の魂の存在を認めなかった」とか、「形而上学的な論議を避けた」と書いてある仏教書は山のようにあります。

前者については、「生まれてくる意味と目的って何だろう? – ①」の「断常の中道」の解説で、本質的なところを反駁しておきました。
*無我説も関わってきますが、ここのところは別稿で反駁していきます

また、後者についても、これはですね、当時のインドの思想状況を考える必要がありまして、

インド人はものすごく形而上学的議論が好きなんですよ。

なので、仏陀・釈尊としては、そうしたインドの思想状況へのアンチテーゼとして、「もっと己れ自身について、深掘りをして考えたほう悟りに資するのではないか?」

という実践論的な見地から、(対機説法として)形而上学的議論を避けたこともあった、ということなんです。

逆に、前者の「霊界の存在」については、当時のインドでも一部の新進思想家を除いては、一般論として、ベースとして受け入れられていた思想ですので、あえて、強調する必要もなかった、ということです。

この部分は、もっと詳しく別の機会に論じてみるつもりです。少し話が逸れました。

話は戻りまして、私たちは「今ここで」霊界に存在するか?ということですね。

これは驚く人も多いかと思いますが、YES!なんです。

なぜか?

肉体は物質てすので、この物質界(=現象界)に存在するのは分かりますね。

ところが、心はどうでしょうか?

ここで、「脳の作用である」という脳科学を持ち出されると実は困るところでもあるのですが(笑)。

デカルトは、精神と物体の特質を以下のように定義しました。

  • 物体:延長
  • 精神:思惟(しい/しゆい)

物体:延長、ということはつまり、縮小とか破壊とか…ひとことで言えば、「形態の変化がある」ということです。

一方、精神(心も含めます)については、延長・縮小…という特質はないですよね。

デカルトは、「思惟」と定義しましたが、まあこれは感覚・感情なども含めたほうが良いでしょう。

そうなんです。

心(精神)は、物体(=3次元)の「形状」という形態をとらないですよね?

なので、とりあえずは「別物」として考える必要があるということです。

ということは、

肉体は物質界(=現象界)に存在しても、心(精神)については、物質界には存在しない、と言えると、

そういうことになります。

「認識するもの/されるもの」「内部/外部」

ここでもう少し単純に考えてみましょう。

今、あなたの目の前に何がありますか??

ネオ仏法では、よくコップの例えを使いますので、今回もコップで考えてみます。

眼の前にあるコップを私たちは認識できます。カント的な難しい意味ではなく、とりあえず、「コップ、ありますね」「お茶、入ってませんが」という事実認識です。

ところが…、

コップの方は私たちを認識できません。物体ですので。

なので、心>物体 という図式が成り立ちます。

言い換えれば、物体はこころに含まれる、ということ。さらにいえば、物体は心の内部にある、ということです。

「私たちの内部に(心の中に)物体はある」ということです。

ここで仏教に詳しい方であれば、唯識説(ゆいしきせつ)を思い出す方もいらっしゃるでしょう。

唯識では、私たちは対象そのものを見ているのではなく、対象が心(識)のなかに生じさせるところの影像を認識している、という考え方をとります。

まあここまでは、なんとか分かります。

あくまでも、感覚器官を通じて対象を把握しますのでね。対象そのものを見ているとは言えない。

しかし、少し理解が難しいのは、「そうは言っても、外界の事物は事物として客観的に存在するのではないか?」ということですよね。

これについては、深層意識である「阿頼耶識(あらやしき)」のなかに「器世間(きせけん)」として存在しているのだ、という説明の仕方をします。

そうすると、「なになに??」と、とたんに分からなくなりますね(笑)。

で、たいていの(唯識派を解説している本の)著者も、「唯識ではそうなっている」「阿頼耶識についての考えはそうなっている」、

あるいは、「唯識は、瑜伽(ゆが/ヨーガ)の行を通して実際に会得できるものなので、会得者はそういうふうに捉えらことができるのだ」というふうに展開していきます。

そうすると結局、「悟らにゃ分からん!ってこと??」ってなりますよね。笑

しかし、

上記の、認識する側/認識される側→心>物体、という図式であれば、物体は最初から「心の内部にある」と言えるわけです。

そうすると、深層意識(阿頼耶識)を含めたところの心(識)のなかに物体(器世間)はある、という理論には整合性があるのではないか、ということになります。

仏教以前の、バラモン教とその哲学である「ウパニシャッド」では、イメージ的に心を身体全体とするならば、肉体はかさぶたのような小さなもの、という捉え方をしています。

つまり、私たちは身体の内部に心があると思いがちですが、ウパニシャッドでは、「こころの一部に、かさぶたのごとき小さな肉体がある」という不思議な捉え方をするんです。

これは上述の、心>物体 の図式とピタリと一致します。

では、なぜ私たちは、心の外部に物体があると思ってしまうのか?

また、たとえ話をします。

私たちが展望室にいて、望遠鏡で外界を眺めているとしますね。

ところが、目が(顔が)望遠鏡にくっついたまま数十年…という状態を思い浮かべてください(かなり無理のあるたとえですかね・笑)。

そうすると、実際は身体は展望室の中にあるにも関わらず、ずーっと数十年、外界しか見ていない状態だと、自分自身が展望室の外にある(外界にある)錯覚に陥ります。

ところが、本当は身体は展望室のなかにあります。

それと同じように、生まれてこのかた、目や耳や鼻…などの感覚器官を通してずっと外界を見ていると、自分の身体/こころすべてが物質界にある錯覚に陥ることになります。

そう、これは「錯覚」なんです。

たしかに身体は物質界(現象界)に存在していますが、心の部分は本当は実在界にあるのです。

なので、仏典などで、「ダイバダッタは生きながらにして地獄に堕ちた」とかありますが、これは事実そのとおりで(まあ、ダイバダッタがどうだったかはさておき)、

心の部分は、物質界(現象界)ではなく、「今ここ」で実在界にあります

なので、十界論でいうところの、まあ一念三千論ですね、心の針が三千の世界に通じている、というのはもちろん真理ですが、

もっと突き詰めて言うと、「通じていると言うより、そこにいる」と言ったほうがむしろ正確である、という側面があります。

なので、「この身このままであなたは今、浄土に/地獄にいます」というのは、たとえではなくて、「事実」なんですね。

空海が瞑想中に、「明け方、明星が口に飛び込んできた」という話が残っていますが、

これは上記の真理を、理屈だけではなく、実感として掴んだときに、

霊体が拡大して肉体を覆い、さらに家を覆い、都(みやこ)を覆い、日本を覆い、地球を覆い…という順で、とうとう明星(金星)までも取り込んでしまったと。

そういう経験だと思います。

つまり、地球も金星も物体ですので(もちろん霊体部分は別途あります)、それら極大とも思える存在も、自らの心のうちに、内部に存在することが実感できる。

そういう体験がありうる、ということになります。

話がぶっとんでいるようですが、ある程度、論理的に順を追っていけば、このように考察していくことも可能、ということですね。

まあ、で、これをどう活かすの?肉体離脱を目指すの?ということではないのですが(笑)、

心、というものを、文字通り、「よりリアルに考える/感じられるようにする」ということですね。

そして、こう考えていくと、また、「なにゆえに、現象界(この世)に生まれてくるのか?」という問の答えにもなっていることに気づきます。

肉体を持つことによって、この世では自分とは異質な心の持ち主(趣味・志向が違う/優れている・発展途上である…など)との接点ができます。

そして、通常では、五感を通じて相手や物事を観察しますので、実在界だけでは接点の持ちようがない人とも接点を持つきっかけができる、と。

それが、魂の向上、智慧の獲得、あるいは慈悲の実践の機会になる、ということですね。

いつもの原点に戻る結論になっていますが、

まずは、目の前にあるコップ(?)を眺めてみてください。

これは、本当に外にあるのか??」と。笑

こういう誰もが当たり前と思っていることを、「そもそも論」として掘り起こしていくのが哲学です。

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