十界論 ー スピリチュアルな出世の段階 – ②地獄篇 – 修羅界

実在界(あの世)での出世の段階論として、「天台智顗(てんだいちぎ)の十界 ー スピリチュアルな出世の段階一覧」をご紹介しております。

十界論は、いろいろな記事でも引用することが多いのですが、そのわりに、「どういう人生を生きたら、どこの世界に還ることになるのか?」をまとまったかたちで書いたことがなかったので、今回、書いてみようと思いました。

今回は、「地獄篇」として、まあ一般に「地獄」と呼ばれる世界ですね、ここのところに焦点を当ててみます。

十界論で言うと、下記の4つの世界に相当します。

  • 修羅界(しゅらかい)・・・喧嘩上等の境地

  • 畜生界(ちくしょうかい)・・・欲望のままの境地

  • 餓鬼界(がきかい)・・・貪り(むさぼり)多い境地

  • 地獄界(じごくかい)・・・上記以下の地獄すべて、八大地獄などがある。最下層は無間地獄(むけんじごく)

仏法(真理)を学んでいて、「自分は菩薩(天使)を目指せるかな?」とか「大きな使命がある!」と思っている人であっても、意外に、蓋を開けてみれば「残念でした…」というケースがあります。

それは、「結果、地獄でした」という判定に愕然とするということなのですが。

なぜこういう勘違いが起きるかと言うと、「人々を救う」とか社会改革に夢中になっていると、「自分もずいぶん心境が上がった」と思いがちなのですが、実際はつい身近なことを忘れてしまうことがあります。

身近というのは、まず、自分自身ですね。

「自分自身の心を修められること」が、まずすべての出発点になります。これなくして、これ以降の世界は絶対にありえません。

当サイトでよく申し上げている「主体性の原理」です。

縁起(原因結果の法則)によって、まずは、「今の自分の心境や環境・立場は、過去から現在に至るまでの、自分自身の選択の結果、生じている」ということを認めることです。

これが意外に難しいんですよね。

主体性というのは、言い換えれば「自己責任論」ということになります。

自己責任を認めるのは誰にとってもキツイことで、それよりかは、「〇〇のせいでこうなった」と思うほうが、自己変革をする必要がなくなり、ラクな気がするわけです。

それから、「主体性の原理を認めなたくない」隠れ蓑として、「社会正義」を訴える方向へ行くケースもあります。

「国が/社会が/会社が/資本主義が/…悪い。だから変革の必要がある!」というふうに、社会正義を訴えていれば、それは、「自分のために怒っているのではなく、公のために怒っているのだ」と自分自身を正当化することができるからです。

もちろん、本物の正当な「公的な怒り」というのは別途あります。

見分けるのは一見、難しいですが、ひとつの目安として、やはり、自分自身を修めているということ、ですね。

感覚的には、日々の生活の中で、「穏やかでさわやかな心」が維持できているかどうか?というチェックポイントです。

もちろん、ある一定の期間をとってみれば、「全然、さわやかじゃない」というときもあるでしょうけど、

内省すべきところは内省したら、心の状態をすぐに復元できることが大事です。そういうリバウンド力があれば大丈夫です。

いずれにせよ、孔子が「修身斉家治国平天下(しゅうしんせいかちこくへいてんか)」と言ったように、

「修身」なくして、また途中をすっ飛ばして、「平天下(=社会改革)」はありえないということです。

物事はすべて、基礎があって応用があります。これは経験的に誰にでも分かることですが、スピリチュアルな出世段階においても、やはり同じ順序になるということです。

前置きが長くなりましたが、今回は、「修羅界」に絞ってご説明いたします。

修羅界

修羅は「阿修羅(アシュラ)」とも言われます。

この世界は、怒りや憎しみを心の癖として一生を過ごしてしまった人が赴く世界です。

行為としては、喧嘩、罵り、DV、モラハラ、パワハラ、諍(いさか)い…などがありますが、戦争の結果、赴く人も多いです。

修羅界についての解釈は、仏教においても多少、混乱があるところです。

修羅界と言えば、有名なアシュラがいらっしゃいますが…、

興福寺阿修羅像

超訳的に言えば、「アシュラは善玉なの?悪玉なの?」という議論です。

阿修羅像を見る限りは、仏法の外護役と言うんですかね、これは善玉的に把握されているようです。

ところが、初期仏教での定義ではけっこう揺らぎがありまして。

修羅界そのものを、かんたんに言えば、地獄的領域/天国的領域のどちらに含めるか?解釈が分かれるところなんですね。

なぜ、こういう見解の違いが生じるかと言うと、それは、上述した、「公的な怒り」か「私的な怒り」か?という論点に集約されます。

要は、

  • 悪玉修羅界:自己保存のための怒り=私的な怒り
  • 善玉修羅界:自己を修めた上で、正義を実現するための怒り=公的な怒り

という違いになって現れてきます。

後者(善玉修羅界)は、毘沙門天とか、そういう存在も有名ですよね。

まあ、そうすると、善玉修羅界は天界とか、あるいは霊格によっては菩薩界の住人も含まれてきます。

実際に、現象界(この世)においては、悪の勢力もあるわけで、それをそのまま放置しておくと、善の領域まで食われていくことになります。

なので、「悪を食い止める」という意味で、ときに政治・軍事方面で、毘沙門天的な働きが要請されてくるわけです。

ここで、「一切の争いは良くない!」といいうことで、絶対平和主義ですね、これで押し通そうとすると、国ごと滅ぼされるケースも出てきます。

なので、善を実現するための悪への抑止力として、善玉修羅(アシュラ、毘沙門天、不動明王…など)の存在が大事になってくるわけです。

あるいは、言論戦でもそうです。

言論戦、ということで言うと、実は、現代のマスコミ人はわりあい修羅界(悪玉修羅界)に還る人も多いです。

ブログなんかもそうなんですけど、活字というのは、1対多で影響を与えることのできるメディアですので、言っている内容が間違っていた場合、読者の量が多ければ多いほど、毒水を大量に流しました、という結果になります。

まあそういう意味では、動画なんかも含まれますね。

言論というのは、ときに「社会正義」という建前をとりますが、そういう建前でありつつ、実際には個人のルサンチマンを撒き散らしているだけだったり、

あるいは、知力の不足により、信奉している価値観そのものにミスがあるケースがあります。

人智学のルドルフ・シュタイナーも「現代の悪魔は活字を通して入ってくる」と述べていますが、悪魔から見ても活字というのは非常にマーケティング効果が高いツール、ということなのでしょうね。

そういうわけで、

「戦ったら、イコール、修羅界(悪玉修羅界)行きか?というと、一概には言えないという結論になります。

怒りが、私的な怒りなのか、公的な怒りなのか?というチェックが必要、ということですね。

十界論で分類しているところの修羅界は、「悪玉修羅界」を意味しています。

続き→「十界論 ー スピリチュアルな出世の段階 – ③地獄篇 – 餓鬼界

 

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