”ピアノ協奏曲第20番 ”で検証するモーツァルトとベートーヴェンの悟り

ピアノ協奏曲第20番

悟りの階梯というものは宗教家にかぎらず、すべての魂に門戸が開かれています。むろん、芸樹家にも。

というか、芸術家はわりあいに霊格が高い人が多いのです
霊的な直感に優れ、また、同時代の人々のみならず、後世の人々をも幸せにすることができるからでしょうね。

今回は音楽家ですが、有名なモーツァルトとベートーヴェンですね。
このお二人は間違いなく菩薩界の方でしょう。

そして、この二人の作曲をひとつの曲で聴けてしまう優れものがタイトルに挙げた”ピアノ協奏曲第20番 k.466(モーツァルト)”です。

第一楽章の途中で、カデンツアという、本来は演奏者に自由に弾いていいですよ、という即興演奏を許容するパートがあるんですね。ここに、ベートーヴェンが作曲したカデンツアが残っているんです。

というか、ピアノ協奏曲第20番のカデンツアというと、ベートーヴェン作曲のものが使用される頻度が高いです。というわけで、

ピアノ協奏曲第20番の第一楽章は、モーツァルトとベートヴェンのコラボが聴けるんです。そして、当サイトとしては、やはりお二人の悟りはどのようなものであったか、というところまで言及したいです。

 

この動画でいうと、11:50-14:15までが、ベートーヴェンのカデンツアになっています

モーツァルトの動機を使っているものの、やはりベートヴェンここにあり!という曲調に変わりますね。

そして、カデンツアが終わり、再びモーツァルトに還ってくるところ、すごく興奮します。笑

私の世代ですと、まだ小林秀雄の『モオツアルト』に書かれてある言葉、「かなしみは疾走する。涙は追いつかない」に、じーーんとしていたものです。笑

いまモーツァルトを聴くと、モーツァルトのかなしみは疾走するというより、「高貴なるかなしみ」と言ったほうが近いかなあ、と思いますね。

むしろ、小林秀雄ご自身が疾走していたのかもしれない。笑

ただ、映画『アマデウス』冒頭でも使われていた交響曲第25番は、モーツァルトの若書き(18歳の頃だったと記憶しています)もあって、「かなしみは疾走する」という感じは受けますね。

高貴なるかなしみ、というイメッジでは、私はむしろ、若山牧水の歌、

 白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

に近いものを感じます。染まらないかなしみ。

モーツァルトは長調の曲が多いのですが、たまに短調の曲が出てくるとなおさらそう感じるのかもしれません。

一方、ベートーヴェンの、苦悩を克服して歓喜へ至る、というのは、つまり二元論ですよね。

たしか、渡部昇一さんのご家庭のお話だったか、お子さんが小さいころに情操教育の一環としてクラシックを聴かせていたのだけど、ベートーヴェンになると夕食の雰囲気が殺伐としてきたので、モーツァルトに変えた、なんてエピソードがあったと記憶しています。

殺伐、といっても、もちろん地獄的なわけではないんですが、子どもには「苦悩を克服して〜」というのは荷が重すぎるというか、そもそもBGMにはなりませんね。笑

ただ、ベートーヴェンも曲によっては、ひたすら甘美なロマンチシズムに浸る、というものもあって、具体的には、”ロマンス第2番へ長調”なんかがそうです。
*実は、ベートーヴェンの”ロマンス第2番へ長調”は、私が小学校4年生の時、生まれて初めて自分で買ったレコードでもあります。

ただやはり、

ベートーヴェンは、全体的には、「苦悩を突き抜けて(克服して)歓喜に至る」といった悟りかなあと思います。やはり、二元論

一方、

モーツァルトは、神の領域に一躍飛び込んでいく、といったイメッジです。まさしく、アマデウス(=神に愛されし者)! 光がこぼれんばかりの旋律に、ときおり、「染まずただよふ」の高貴なかなしみがあるように思えます。

そういうわけで、

悟りとしては、モーツァルトのほうが若干、高いかなあ、という印象です。

音楽をはなれた個人としての人間力はベートーヴェンのほうが一枚二枚上手(うわて)かもしれませんけどね。

たまーに、こうして音楽を聴きながら、作曲者・演奏者の悟りを想像してみるのも面白いです。

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