ネオ仏法は、小乗も大乗もはるかに超えてゆく-③実在は「現象する」ことによって本質を開示する

目的論的世界観を認める

「小乗 – 大乗」に続く「ネオ仏法」シリーズ第3弾です。

こちらの記事の続きになります。
ネオ仏法は、小乗も大乗もはるかに超えてゆく- ①実在性にも段階がある
ネオ仏法は、小乗も大乗もはるかに超えてゆく- ② 現象即実在、実在即現象

今回の記事が、ネオ仏法が大乗仏教を超えていくための中心論点のひとつになります。ここが非常に重要なところです。

前回の記事で、

  1. 現象と実在は異なるものではなく、実在は現象と異なるものではない
  2. 現象はそのまま実在であり、実在はそのまま現象として顕現することによって実在で有り続けることができる

というお話をいたしました。

今回は、「そもそも論」として、

なにゆえに、「実在と現象」という形態が存在しているのか?そこに何か合目的的なものがあるのか?

ということをお話していきたいと思います。

「合目的的」であること、まあ目的論ですね。世界はなにゆえに存在しているか?実在と現象はなにゆえに在るのか?

こうした「目的論」というのは、本来、仏教に馴染まないものである、といろいろな仏教書に書かれています。

根拠としてよく挙げられれているのが、

  1. 仏教の「仏」は、セム型一神教(ユダヤ・キリスト教など)の神と違って、世界創造を行わない
  2. 釈尊は、苦からの脱却とその実践を説いたのであって、世界の成り立ちとか個の実存に関わらないところには興味を示さなかった

といった論点でしょうか。

しかし、「釈尊が語らなかった」ということと、「仏が世界創造を行わない」というのは別問題だと思います。

もっともこう言うと、「師に握りこぶしはない」という仏典の言葉を引用して、「釈尊はすべてを包み隠さず語った」という反論も一見、成立するように思えます。
*「師に握りこぶしはない」=握って隠しているものはない、すべてを語ったという意味

ただこれはですね…いくら仏陀・釈尊と言えども、ほぼ45年間、インドのガンジス川流域を中心にした布教活動という制約があったわけで。

「師に握りこぶしはない」というのは、「当時のインドの時代性と地域性を考慮した上で、必要な教えは全部説いた」という意味なんです。

そもそも、仏教では、因果の理法を認めておりますが、これは時間軸における原因 – 結果の連なりのことですね。

ということは、原因と結果の連鎖をさかのぼっていけば、「世界」の存在に関しても第一原因というのはあったはず、というのは論理的に導き出せることです。

なので、釈尊が語らなかった、というのはあくまで「当時の状況を鑑みて、力点を置かなかった」ということであって、釈尊が知らなかった、という意味ではないんですよ。

まあ今回はここにはこれ以上、深く立ち入らないようにします。

あくまで、「ネオ仏法」としては、セム型一神教が唱えるような目的論的世界観というのも認める立場を取る、ということです。
*もっとも、「天地創造」「最後の審判」の内容をそのまま受け取っている、という意味ではありません。

そして、そうした立場をとること自体が、キリスト教・イスラム教を宗教哲学的に総合していくひとつの契機になっていくと思います。

「実在 – 現象 」の目的論の解明

以下、「神」と言った場合、宗教で言うところの「根本神」「全知全能の神」という意味で使います。哲学的には、実体(=それ自体で存在するもの、真実在)という意味に使います。

「神とは何か?」「実体(本当に存在するもの)とは何か?」といった究極の存在について考える時、私たちは、

自分 → 神(実体)

といったふうに、神(実体)を対象化して捉えようとします。

しかし実は、そもそも、真実在を考えるときに、「対象化」という思考方法自体がすでに矛盾をはらむことになります。

何故というに…、(漫画かイラストで書くと分かりやすいのですが)、

「私」(あるいは「あなた」)が、「根本神とは!」と指さして考えるとしますね。
*ここのとこ、頭の中でも良いので、指さしているところを想像してみてください。

すると、その「神」は全知全能であり、一者であるはずなのに、指さした部分(=神)以外の領域は除外されてしまいますよね?

まず、指を指しているところの「私」が神の領域ではなくなってしまいます(イラストであれば、空や草木などの背景も神の領域ではない、ということになります)。

そうすると、これは少なくとも、「私」を除いたところの神、という図式になってしまって、「根本神」としての全知全能性がその時点で失われることになります。

*「神」という表現でなくて、「実体」とか「真実在」、といった言葉でも良いです。

したがって、神は、

私 – 神

という、主体 – 客体 の二元論的な図式で思考する対象ではなくて、指さしている自分(背景・自然物なども)をも包含する存在と考えなくてはならない、ということになります。

神は、私という「主体」をも含んでいなければならない。

一言でいうと、

神は全体である

あるいは、

真理は全体である

というテーゼが導き出されることになります。

つまり、神(真理)は私たちの外にある存在ではなく、私たち個別の存在を包含する全体である、と考えなくてはなりません。

これは一般に汎神論(はんしんろん)と言いまして、西洋哲学ではスピノザがこうした神概念を提示しました。そして、ヘーゲルに影響を与えています。

しかし、「神(真理)は全体である」として、それでは、次に全体と個別の構図はどうなっているのか?という問題が思い浮かびますね。

そこのところは大乗仏教の哲学で説かれているように、

  • 個別的な存在はそれ自体では存在することができず、縁起によって「現象」として仮に在ることができる
  • この「現象」は、無常であり、無我であるのだから、「無い」とも言える
  • 縁起の無限の連なりの”総体”が根本仏である

ということになるでしょう。

ちなみに、無常・無我をともに縁起として整理・把握し直したのが、

  • 無常…時間論的縁起
  • 無我…存在論的縁起

というネオ仏法の考え方です。

参考記事:縁起の理とは何か – 「存在と時間」

ここの大乗仏教の哲理は相当に高度な真理で、実在と現象の構造が解明されてはいますね。

しかし、

「なにゆえに、実在と現象があるのか?」あるいは、「なにゆえに、実在は現象しているのか?」という目的論にいまだ答えることができておりません

「神(真理)の内部に、人間やら動物やら植物やら…さまざまな個別的な存在がなぜ在るのか?しかも、意思を持って…?」、「現象しなくても、実在は実在のまま、静かに一者でいれば良いのでは?」という問いです。

先ほどのスピノザ的な汎神論の世界図をもう一度、思い起こしてみましょう。

神が全体である、という、非常に静謐(せいひつ)なイメージです。

ここで、神(全体)の総量を仮に数値で100としましょう。

もし、神が神のままで、実体は実体のままで、静かに一者であり続けるのであれば、100は永遠に100のままです。動きがないですからね。

ところがもし、その神が「発展」を望んだら?どうする?

どうやって、100を101、102…と増やしていくことが出来るでしょうか?

実はここのところ、ひらたく言えば、神が神自身を増量(発展)するためにはどうしたら良いか?という問いが、「現象」の意義を解明する鍵になるんです。

結論から言ってしまえば、神は中道、あるいは弁証法を発明した、ということです。

弁証法の図式を思い浮かべてください。

正 – 反 

から、

 合

 正 -反

という道筋をたどるのでした。

参考記事:ヘーゲルの弁証法を中学生にもわかるように説明したい

そして、合というのは、正と反を足して二で割ったようなものではなく、生と反の本質部分を保存しつつ(つまり、矛盾は矛盾のままでありつつ)、より高次な概念で総合されたもの、ということでしたよね。

矛盾を包含しつつ統合する、ということで、このことを京都学派の哲学者、西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」と言いました。

正 – 反 の数値を仮にそれぞれ1としますと、合計は、1+1=2になります。

ところが、正- 反が総合されて合に至ると、合計の数値は2以上のものになります。

なぜなら、合は正と反を依然として含んだ上でさらに上位の概念を生み出しているからです。付加価値といっても良いです。

これは、この世では男女のありかたに象徴的に現れています。

男性と女性が2人でそれぞれいるだけだと、合計は2人です。当たり前ですね。

ところが、男女が結婚すると、子どもが生まれる(ときもあります)。

すると、なぜか合計は3人になりますね。

ここのところが、まさに今、私やあなたが存在している理由になるのです。

神、至高神は、お一人様でいらっしゃると100は100のままで増量していくことができない。したがって、神は自己の内部に現象を起こすことにした(つまり、個別的な、個性ある存在をあらしめた)。その図式が弁証法であり、弁証法とは中道のことである。

神は自らを現象させることによって、弁証法的発展を意図した。

ということです。

たとえば、

神=100の図式でいうと、

100がまるっと100であるのではなく、個別的な1を100個創造して100に置換した。

そうすると、各部分で弁証法的なダイナミズムが惹起され、1+1=2ではなく、1+1=3となる構造ができる。

各部分において、増量が起きるということは、それは同時に、全体も増量されるということですよね?

もう少し分かりやすいたとえ話をしてみます。

あなたという存在が100としましょう。

あなたの身体の「内部」で細胞分裂が起きて、細胞が1個増えるとします。すると、あなたという「全体」も100から101に増量しますよね?

これと同じことです。

現象というダイナミクスを引き起こすことにより、実在そのものが拡大(増量)していくことができる

これが、実在がわざわざ現象していることの意味、目的論です。

…おわかりになりましたでしょうか?

これでもたぶん、一般の哲学書に比べれば相当わかりやすくご説明していると思うのですが…。

今回の記事のポイントで、大乗仏教の哲学を超え得た、ということになると自負しています。

やはりどうしても、哲学的になってしまい、読むのもしんどいところがあるかとは思いますが、今申し上げている内容は、地球の歴史時代を通じて、「かつてここまで説かれたものはない」という領域に踏み込んでいます。

次回はさらに、

実在が現象することによって発展した、その「発展」の内実を考えてみたいと思います。

続き→→「ネオ仏法は、小乗も大乗もはるかに超えてゆく-④ワンネス、宇宙そして空(くう)

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