『聖☆おにいさん』って王道スピリチュアル的にはどうなのか? – ①

ポール・ランソン

読者から、「『聖☆おにいさん』はどうなんでしょう?」という質問をいただきました(笑)ので、この機会に考えてみました。

このマンガはうちにほぼ全巻あると思うんですが、全部うちの奥さんが買ってきたもので、私はちろっとしか読んだことがないんですけどね。

ただこれは、天界・菩薩界でも賛否両論の本(漫画)かなぁ…とは思いました。

良いところは、ひとことで言えば、

  • イエスと仏陀は仲良し。仏界で喧嘩しているわけではない

ということで、日本人からすると、「ふーん」ってところですけど、世界的に見れば、まだけっこうびっくりする価値観なのかなって思います。

良くない(まあ私はふつうに楽しみますけど)ところは、

  • 聖人の言動を茶化している

と、これまた一点に尽きますかね。まあ、コミックですしね、ごく普通の感想でしょう。

しかし、後者のほうは、これがキリスト教圏などで発表されたのであれば、けっこう物議をかもしだすところでしょうね。

以前、イエスの生涯を映画化した作品がありましたよね?今、タイトルを思い出せないのですが、

十字架にかかって最期のときを迎えんとしたイエスが、マグダラのマリアとの平凡で幸福な生活に思いを馳せる…みたいな内容だったかと思います。

これは、欧米では上映反対運動がけっこう起きたと記憶しています。

まあ、諸外国、とくに一神教的風土では当然、そうなりますね。

こうした、「聖なるものを引きずり下ろす」という発想は、やはり、天界のものではなく、地獄的なものだな、と思いますし、上記の映画はやはり超えてはいけない一線を超えていると思います。

もちろん、「ナグ・ハマディ文書」が発掘されて、まあ映画では『ダ・ヴィンチ・コード』ですかね、それで有名になりましたが、

実は、イエスには妻が居た。それはマグダラのマリアであった、ということを示唆する福音書(正式には認められていない福音書)もありまして。

では、それが問題か?というと、私はそうは思いませんけどね。

要は、結婚生活をしていたかどうか?妻が居たかどうか?というのは聖性とは関係がないもので(ソクラテスにも妻はいました)、

問題になるのは、仏界(如来界)から降臨してきたような存在が、その使命感よりも、1個の肉体的人生観を選んでしまうのかどうか?

そして、人間の側がそのような疑惑を抱き、作品として発表し、そして世間に影響力を発揮して良いのかどうか?というところですね。

要は、信仰の対象を世俗的な位置に引きずり下ろして、数億人のキリスト教信者の心を傷つけて良いものかどうか?という問題です。

こういう発想はマルクス主義と軌を一にしているもので、ひとことで言えば、「権威あるものを自分の位置まで引きずり下ろして自己満足を得たい」という発想(欲求)から来ているものだと思います。

そして、こうした発想は、まず絶対に幸福論には結びつくことはないです。

したがって、それを作品化し、世間に影響を与える行為は、当然バツである、という結論になります。

ただ、『聖☆おにいさん』についてはですねぇ…まあいろいろ茶化してはいますが、はなからギャグ漫画であるってこともありますし、

まあ、「茶化し」の方向性が「親しみやすさ」のほうへ向いていると思いますのでね。個人的にはアリだと思っていますけどね。

読んでいるうちに、

  • 聖書や仏典のエピソードが頭に入ってくる
  • 「福音書や仏典を読んでみようか」という真理への誘(いざない)いの役割を果たしている

という側面はプラスに評価されて良いと思います。

そして、冒頭でも申し上げた、

  • 仏界(少なくとも地球の霊域としは最高領域)では、イエスや仏陀など、「聖人」と呼ばれる存在は、お互いに一致協力している

という価値観ですね。

ポール・ランソン
Christ et Buddha by Paul Ranson

これは今後の「地球単位で物事を考える」文明を迎えるにあたり、すごく大事な観点ですからね。この影響力は、大きくプラスに評価できるものではないか、と、個人的には思いますけどね。

「個人的には思いますけどね」と限定付きで申し上げているのは、理由がありまして。

実際は、天界以上の世界、つまり菩薩界であっても、価値観・価値判断は一通りではないんですよ。

これを聞くとがっかりする方もいるかな?と思って、言うべきかどうか?悩むところではあるのですが。

たとえば、ルネサンス期のイタリアに「マキャベリ」という人がいましたね。

「マキャベリズム」ということで、まあ、「権謀術数(けんぼうじゅっすう)」ですね、これを正当化している理論ではあるのですが、

マキャベリおよびマキャベリズムに対しても、「とにかく権謀術数は良くない」っていう意見も(菩薩界であっても)多いと思いますよ。

儒教系の天使たちはだいたいそう判断していると思います。

儒教的には、「君子でなければいけない」「徳でもって治めなければいけない」ということですね。

ただ、理想ばかり言っていると、現実には、理想からかえって遠ざかることもある、ということも歴史がわれわれに教えるところで。

マキャベリとしては、「イタリアの統一こそがイタリアの人民にとって、なにより幸福なことである」という価値観が先にあると思うんです。

なので、理想(綺麗事)よりも「現実に効果があるかどうか?人民の幸福に資するのか?」を優先させるということですね。

実は私なんかはこちらの意見に賛成するタイプです(まあ私のタイプなんかどうでもいいんですが・笑)。

まあしかし、この儒教で言うところの徳治主義ですね。あるいは、プラトンも「哲人王による理想政治」を説きました。

これが実現すればたしかに理想的ではあるのですが、

これがめったに実現しないから、民主主義が要請されるようになった、という歴史的経緯がありますよね(笑)。

まあ話がそれましたけど、天界・菩薩界であっても、価値判断は一通りではない、ということですね。

また、だからこそ、現実世界(文字通り、実在世界の現れ、の世界です)では、いろいろな価値観が展開している、という事実があります。

ただ、そうではあっても、

多元的な価値観が互いに争うのではなく、より上位のグローバルな価値観のもとに、「互いの個性・多様性を尊重しながら、かつ一つにまとまる」という方向性ですね。

これが、今後の文明のベースになるべきだと思いますし、そうしたベースを提供するのが、日本および日本人の使命であって、

そういう意味では、『聖☆おにいさん』という作品はじつに日本的なんですよね。

ギャグマンガではあっても、いや、だからこそ、日本以外の国にも、「まあベースとしては、こういうふうに考えたらどうでしょう?」と気楽に感化力を発揮しやすい側面は高く評価されて良いと思います。

まあ、いちいち内容に踏み込んだ記事にはなっていませんが、『聖☆おにいさん』という作品の価値判断として、どう考えるべきか?というヒントになれれば、と思います。

こうした、『聖☆おにいさん』的、つまり、神と仏が仲良しである日本的風土ですね、このあたりをまた別の機会に掘り下げてみたいな、と思います。

続き→「『聖☆おにいさん』って王道スピリチュアル的にはどうなのか?- ②日本および日本人の使命

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