仏教における”識”の意味 – 合理的知性と神秘的知性

識 般若
目次

仏法は合理主義と神秘主義が両立している

スピリチュアルと「頭の良さ」というと、一見、あまり関係のないことだと思われるかもしれません。

アニミズム的なイタコさんや、戦前・戦後の新宗教の教組は、頭が良いというわけではないのに、「神がかってくる」ということで、仕事が成立していたわけです。

また、経験的にも、左脳面(合理主義的思考)をあまりに鍛えすぎると、右脳面(直感的思考)がおろそかになってくることは否めませんね。

逆に、右脳面が強い人は、左脳面を軽視する傾向もあります。

ただ、仏教の開祖である釈尊を見ていると、明らかに、左脳面・右脳面の両方に強かったということがわかります。

「法を見るものは縁起を見る」という言葉がありますが、仏法には「縁起の理」という背骨ががっしりと貫いていて、そこから派生した教学、たとえば、

「四諦八正道」にしても「十二因縁」にしてもきわめて論理的な構造になっています。

*参考記事:
八正道の意味と覚え方のコツ – 一発で覚えられる語呂合わせ
十二縁起(十二因縁/十二支縁起)の分かりやすい覚え方と現代的意義

それから、五蘊(ごうん)」や「六根・六境・十八界」など、人間や事物を構成要素に分解して観察する方法にも、きわめて分析的な知性が働いていることが分かります。

*参考記事:
無常・苦・無我(三相)とは?仏教学通説の誤りを正する
六根、十二処、十八界 ー 仏教の認識論 ー

ただし、論理的であった、というだけなら、世界宗教になるわけがありませんので、さまざまな仏典に書かれている神秘的・霊的な側面も単なる「たとえ話」や「比喩」ではなく、多くは事実を反映していたことだと思います。

つまりは、仏法においては、本来、合理主義と神秘主義が両立していた、ということですね。

識(しき)と般若(はんにゃ)

仏法では、智慧の働きを2種類に分けて考えています。

ひとつは、「識」と呼ばれるものです。

「識」はサンスクリット語で、ヴィジュニャーナと言いまして、

  • ヴィ=分析する
  • ジュニャーナ=知

ということで、文字通り、分析的な知性のことですね。

これに対して、「般若」はサンスクリット語で、プラジュニャーと言いまして、

  • プラ=全体的な、総合的な
  • ジュニャー=知

ということで、分析を超えた総合的・宗教的な知性ですね。

ヨーガ寄りの仏教書などを読んでいると(唯識派とか)、

「分析的な西洋的知性が、自と他の対立を生み、それが自然破壊などにつながっていった。従って、分析を超えた智慧を得ることが大事…云々」と書かれていたりします。

「それはその通りだな」とは思うのですが、こういう分析ができること自体、それこそ「分析的な知性」だなって思うわけですよ。

そういうわけで、「識」を否定して一直線に「般若」へ行くのも無理があるな、と私は考えています。

縁起の理を観察するためには、やはりまずは、対象を観察する必要があるわけですね。

原因と結果の連なり(時間論的縁起)、それから、物事Aと物事Bの関わり(存在論的縁起)にしても、観察です。

*参考記事:縁起の理とは何か – 「存在と時間」に分けて解釈してみる

こうした、「識」としての知性(分析的な知性)が足腰になって、それを禅定などで腑に落としていくうちに、「般若」の知性(総合的な知性)を開花させていくのが、本筋だと思います。

まとめておきますと、

  • 仏法は、本来、合理的(分析的)知性と神秘的(総合的)知性を両立させている
  • 分析的知性(識)を足腰にして、総合的知性(=般若)を得るのが順序

ということです。

「頭の良さ」とは、原因と結果の連鎖(縁起の理)を見破る力のこと

「識」というのが現実世界でどのように現れるかというと、超訳的に言えば、「頭が良い人」と言われることが多いですね。

それでは、どうやったら「頭が良くなるのか?」という話になります。

これは、般若の知にも通じている話でもありますが、

結局のところ、頭の良さ」とは、「原因と結果の連鎖を見破る力」ということになるかと思います。

これは仏法的に言えば、「縁起の理」のことですね。

この「原因と結果の連載」を実相世界(霊的世界)まで含めて見破ることができれば、「般若の智慧」に近づいていくわけですが、

現実世界に限った話でいけば、いわゆる一般的な「頭の良さ」になってくるわけです。

それでは、どうしたら、原因と結果の連鎖を見破ることができるようになるのか?

いくつか、思いつく限りの訓練法を挙げてみますと、

PDCAサイクルを検証する

PDCAサイクルは有名なビジネス用語ですが、

PLAN(計画)→DO(行動)→CHECK(評価)→ACT(改善)

ということですね。

これはビジネスに限らず、日常生活においても有効です。

ポイントは、

  • DO(行動)=こうしたら
  • CHECK(評価)=こうなった

のところにあります。

自分自身の行動とその結果の検証です。

ほとんどの人は、ある行動をとって、ある結果が出ても、その因果関係を検証していないんです。

その因果関係を深く検証していくことによって、原因と結果の法則(縁起の理)が腑に落ちてくることになります。

他人に学ぶ

上記のPDCAサイクルが、自分自身のことだとすれば、今回のケースでは、他人のDO(行動)→CGECK(結果・評価)を検証していく、ということになります。

自分は自分ひとりの人生を生きることしか出来ませんが、他人から学ぶ、という姿勢であれば、さらに学びが加速しますね。

この「他人に学ぶ」ということについては、文学作品などから学ぶ、ということも含まれると思います。

歴史に学ぶ

スピリチュアル(仏法)を除いて、あえてもうひとつ学ぶべき一種類の書物を挙げるとすれば、歴史書になるかと思います。

歴史は、原因と結果の宝庫ですからね。

ただ、歴史書と言っても、おカタイ教科書的なものではなくて、歴史小説のほうが良いと思います。

あるいは、「歴史館」「史観」が入っている書物(論書)ですね。

教科書的なものでは、単なる知識の羅列になってしまいますので、やはり、その著者独自の見解(原因と結果の法則)が入っているもののほうが学びになると思います。

歴史を学んでいると、現代の諸問題についても、相当に洞察が深まります。

まとめ

そういうわけで、今回のお話は、

知性には、宗教的知性(般若の智慧)と合理的知性(識)があって、仏教書などでは「般若の智慧」が強調されるけれど、「識」も足腰として大事であること

「識」はいわゆる、「頭の良さ」として言われるが、「頭が良い」とは原因と結果の連鎖を見破る力、すなわち、縁起の理を腑に落としていくことであること

原因と結果の法則を学ぶには、

  1. 自分自身のPDCAを検証すること
  2. 他人のPDCAを検証すること(文学作品など含む)
  3. 歴史に学ぶこと

が大事、という内容でした。

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