仏法・真理の探求と、神経症的ジレンマ

貧・病・争

むかしからよく「貧病争」と言いますが、宗教やスピリチュアルを探求するきっかけですね、これが、

  • 貧=経済的苦境
  • 病=病気・体調不良
  • 争=人間関係の不調和

この3つであることが多い、と言われています。

自分自身、振り返ってみても、家族の病気や自分自身の体調不良、進路の不安など当時はいろいろなものがありまして、それが、この世(現象界)を超えた価値とは何であるのか?を考えるキッカケになっていきました。

やはりここも、「禍福あざなえる縄のごとし」でありまして、

この世(現象界)で恵まれすぎている、成功しすぎている、いま現に幸福感を味わっている状態では、なかなかこのような形而上の問題に関心を寄せる、ということが、逆に難しくなります。

そうすると、不幸であったことが(魂にとって)最大の幸福である真理への入口になっていて、幸福であることが、かえって真理への道を阻んでしまう、という逆説が起きてしまうのですね。

そういう意味では、「貧病争」というのは、宗教やスピリチュアルな世界に行く人を揶揄するのにも使われる言葉ですが、一概に否定できるものではない、むしろ普遍的な前提条件かもしれない、と思います。

実際、釈尊も、「生老病死」を始めとする四苦八苦の問題への回答を求めて出家しておりますしね。

真理探求者に意外に多い神経症

神経症と一言で言っても、色々ありますが、たとえば、不安障害とか対人恐怖症とか、鬱とか、ですね。

医学的には、「鬱は精神病に分類」とかあるようですが、スピリチュアル的にはあまり細かく分類しても意味がないと思っています。

ただ、不安障害や〇〇恐怖症の場合は、自覚的と言いますか、「自分という存在があって、その自分が〇〇と感じてしまう」という自覚症状があるわけです。

一方、鬱でも軽度でないもの、あるいは、解離性障害とか、

自らの自意識そのものがハッキリしなくなっている状態というのは、霊的な影響がけっこう入っていると思われます。

多重人格で、「犯罪を犯したときのことを覚えていない」とか、こういうのは、やはり自分ではない外部の霊存在、

ハッキリ言えば「悪霊」ということになりますが、こうした存在の憑依がかなり進んでいて、「身体の乗っ取り」の段階に来ているのだと思います。

今回のトピックは、そこまでは行っていない心理状態について述べていきますが、たとえば、

「真理を探求しているのに、飲み会で騒いで楽しんでいるだけの人たちよりも心の安定がないなんて…」と悩んでしまう、というのは、実際「あるある!」な悩みだと思います。

ここで立ち止まって考えるべきなのは、「心が安定していればそれがベストなのか?」という根本価値を疑ってみることです。

私たちの魂(心・精神)の進化のきっかけは、「矛盾→解決」という弁証法(中道的発展)の過程にあると述べたことがあります。

参考記事:ヘーゲルの弁証法を中学生にもわかるように説明したい

つまり、

現象世界(この世)で生きていく過程において、さまざまな問題にぶち当たります。

問題と取り組んでいる間は大いに悩むわけで、その時に、ぷち鬱になったり、あるいはそれ以上の症状になることもあるかもしれません。

しかし、長い目で見ていくと、そうした神経症的症状を経験したこと自体が魂の資産になっていきますし(経験していないと、そうした渦中にいる他者の気持ちが分からなくなってしまいますので)、

また、問題を克服したあかつきには、自分自身も進化することができます。

そしてさらに、問題を克服したということは、

  自分  ⇔  問題

と相対(矛盾)の状態にあったものが

       解決!
       ↑↑
かつての自分 ⇔ かつての問題

このように克服(相対→絶対へ)されたということなので、ここで進化だけではなく、心の安定もゲットすることが出来ます。しかも、より上位の心の安定です。

進化と調和は、同じものを別の断面から眺めたものである」というのは、こういうところからも分かります。

なので、そもそも矛盾→悩み・苦しみの過程を経ないと、より上位の精神へ進めませんので、いちがいに「心さえ安定していれば良い」というわけではないことが分かります。

心の安定だけが目的なら、現象界(この世)にわざわざ生まれてこなければ良いわけですからね。

天界中段階では、神経症に引っかかりやすい

それから、

魂が本格的に「進化」を望むようになる天界中段階は、切磋琢磨つつ進歩を目指す意識が先鋭化してきますので、副作用として、相対観特有の<矛盾>→苦しみ→神経症的ジレンマに陥りやすい傾向があります。

そうすると、人界(善人だが進化はそれほど望まない世界)が牧歌的に見えて羨ましくなってしまって、場合によっては、コンプレックスさえ抱いてしまうこともあります。

*実在界の構造についてはコチラの記事を参照ください。

相対観というのは、ざっくり言えば、「我 – 他者」という二元論である、ということですが、それがどういう現れになるかと言うと、

  • 優秀でない私 – 優秀であるライバル
  • 現実の私 – 理想の私
  • 目標に到達できない私 – 目標に到達している私(という観念)
  • 怠け者の私 – 努力精進している私
  • 神経症の私 – 神経症でない他人

と、いろいろなバリエーションがありますね。

しかし、二元論は進化のために必要な段階でもありますので、それに付随する「神経のすり減らし」状態は必要悪であるとも言えます。

それもほぼ現象界(この世)限定の状況です。

実在界(あの世)では、自分と似たような波動をもった人としか一緒にいませんので、そうした苦しみは基本的にありません。

なので、そういう意味では、どうしても辛いときは、「あと、◯十年の辛抱だな」と自分に言い聞かせるのもひとつです。

「他力本願」も大事

そうは言っても、「辛いものはつらいんだから、今なんとかしたい」というときはありますね。

そういうときは、上記の逆の心理状態に行く、すなわち、相対観から離れてみることです。

つまり、

  • 私があり、他者があり
  • 私の現実があり、私の理想があり

…云々、という「相対観=現象としての自分」という意識から離れて、「真実在エネルギーの一部である自分」という絶対観に回帰していくことです。

実は、地上で宗教が(あるいはある種の哲学が)必要とされている理由のひとつはココにあります。

信仰というのは、「絶対の存在に<私という現象>を投げ入れてしまうこと」だと思っています。

それも、難解な哲学的な認識は要らず、ただひたすら信じる、という心理状態でOKです。

もっとも、ここでカルト的な宗教にひっかかってしまう危険性もあるのですが、

そうしたカルト的(あるいは覇道的)スピリチュアルと王道スピリチュアルの見分け方、峻別の仕方は当サイトのあちこちで述べています。

近代以降の人間は非常に疑り深くなっていますので、そうした近代人でも信じられるように哲学が強化されてきた経緯もあるのですが、

今度はその哲学が唯物論への入り口になってしまったうケースもあり、そういう意味ではなかなか難しいところはありますね…。

話は戻りまして、先の図式、

 私という現象を真実在に投げ入れる意識=信仰

ですね、これは宗教的には一般に「他力本願」と言われますが、

よく考えてみれば、「自我意識としての我を去って根源的な意識につながる」というのは、まさに無我修行そのものですよね。

そうすると、絶対他力という姿勢は、(一般に矛盾すると思われているところの)本格的な自力修行に一致してくるという逆説がある、ということになります。

そうすると、

親鸞的な絶対他力と道元的な自力修行は矛盾しない、もしくは、より上位の概念で総合できる、ということで、ここでもやはり、弁証法(中道的発展)を見出すことができるわけです。

また話が難しくなっているかもしれませんが、

仏法の学びを深める過程が「信」を深める過程と一致してくるとベストなのかな、と私は思っています。

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