「マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)の効果と限界 – ①」の続きです。
全体性の回復
繰り返しになりますが、マインドフルネスを一概に否定したいわけではなく、それどころか、個人的にはマインドフルネスはとても優れた瞑想法だと思っています。
前回の補足を少ししておきますが、マインドフルネスの効果をひとことで言うならば、「全体性の回復」ということになるかな、と思います。
「全体性」とはなにか?なにやら、哲学的な響きではありますが、
これは実際、哲学的でもありますが、きわめて実践的な概念で、かつ、私たちがふつうに幸せに、ストレスレスに暮らしていくのに役立つ考え方でもあります。
私たちはともすれば、自分や他人、あるいは「世界」というものを個別的に考え、かつ実感してしまう傾向があります。
これは近現代の個人主義の影響も強いでしょうし、あとは、実際に「肉体をまとって生きている」という事実からくる影響ですね。これが一番、大きい。
肉体をまとって生きていると、快楽・痛み…など、まあひとことで言うと、「感受」ですね。
この、「感受」については、自分ひとり分しか実感することができません。まあ当たり前のことですね。
他人がどう感受しているか、どういう快楽であるのか?あるいは苦痛であるのか?というのは、特別な霊能者でもないかぎりは、せいぜい想像の域を超えていくことはできません。
要は、自分一人分しか「自分ごと」と認識することができない、ということですね。
こうした個々バラバラであるという意識が、「疎外感」「不安」「恐怖」「(自己防衛のための)批判」といった感情の原因になっているわけです。
ところが、世界の成り立ち、構成を考えてみると、個人個人、あるいは個々の存在がてんでバラバラに存在しているということはありえないのです。
これは倫理的に、「みんなが関わって、助け合い、影響を与えあっているんだね!それが地球!」という…、
まあキレイだけど、文字通り、キレイ事に聞こえてしまう…というものよりも、もっともっと深いものが実際にはあるんです。*まあ結論的には、同じことになるんですけどね。
そして、高次の真理としては、私たちひとりひとりも、空飛ぶ鳥も「全体の中の個」であり、「個と個が無限に関わり合い、響き合っている」世界であるのですが、
それがなかなか実感として腑に落とすことができないのが問題になっているわけです。
ハイデガーの『存在と時間』を手がかりに
そこで、マインドフルネスとはちょっとトピックがずれるようですが、「全体性の回復」「全体性への回帰」ということなので、そもそも存在とはなにか?ということを少し考えてみましょう。
存在とはなにか?「在る」ということはどういうことなのか?
この、「在る」とはそもそも何なのか?という問いをあらためて立てた人に、ハイデガーという哲学者がいます。「20世紀最大の哲学者」と言われています。
ハイデガーの著作は用語が独特で、文体が難解なので(まあ西洋哲学全般にそういう傾向がありますが)、一読して、「分かった!」というふうにはなかなかなりません。
正直言って、私がまともにハイデガーの主著『存在と時間』を読んでも、さっぱり分かりません。笑
*今回はハイデガーそのものがテーマではないので、トピックに絞った範囲で書きますが、いつか、稿を改めて、「ハイデガー哲学の効能と限界」というのも書きます。
身近なたとえ話から入ってみましょう。そのほうが分かりやすいと思います。
たとえば、「空を飛んでいる鳥」を今、見ているとします(あるいは、「走っている猫」でもなんでも構わないです)。
そして、「あの鳥の「存在」」とは何なのだろう?と考え始めた自分がいます(いるとします)。
ここで、「鳥が空を飛んでいる」という言葉を分解してみると、
- 鳥が:主語
- 空を飛んでいる:述語
という構造になっていますね、ざっくりと。
まず、主語の方から考えてみると…、
「鳥が」(目の前の個別的な鳥ですね)と思った瞬間に、実は、その「鳥」の存在を見逃している、という側面があるんです。
なぜか??
「鳥が…」という言葉がなぜ出てくるかというと、それは私たちは先天的に(哲学では、「先験的(せんけんてき)」=経験に先立つもの、という言い方をします)、鳥と鳥以外の「違い」というものを感じているからでしょう。
もし世界が、「鳥だらけ」(今、目の前にいる鳥と同じ鳥です)であるならば、そもそも、「鳥が…」という言葉は出てこないはずですよね?
*だって、鳥しかいないんだから。「鳥」という言葉がそもそも生まれてくる余地もありませんね。このように、言語の起源は「区別」にあります。
*「区別」が究極の真理ではないので、仏教的に言うならば、区別=分別を超えた智を「無分別智」として最上の智慧・悟りとし、その状態では言語が消滅するとします、これを「戯論寂滅(けろんじゃくめつ)」と言います。
つまり、「鳥が…」と思ったまさにその瞬間に、じつは私たちは、その「鳥」を「鳥以外の様々な存在」との関係性において認識しているわけです。
また、鳥にもいろいろ種類がありますので、実際は「鳥が…」という言葉であったとしても、「あのスズメは…」といった言葉にも置き換えられますね。
この場合であっても、むろん、「スズメとスズメ以外の鳥」という「関係」においてスズメを認識しています。
さらにさらに。
今、見ているのは、まさに他の万羽と存在するいろいろなスズメと、「今、目の前にいるスズメ」との関係を無意識のうちに関連付けて、把握しています。
「鳥が…」と思ったまさにその瞬間に、じつは私たちは、その「鳥」を「鳥以外の様々な存在」との関係性において認識している
と先に書きましたが、「認識」しているだけではなく、実際に「存在」としてそのようになっているわけです。
関係性においてしか認識できていない、ということは、裏を返せば、そもそも「存在」とは関連性のなかに存在しているのが真実の姿だから、です。
また、述語のほうも同様に考えることができます。
- 鳥が:主語
- 空を飛んでいる:述語
まず、「空を」という部分も、「空」と「空以外の存在の関係性」で捉えていますし、
それから、「飛んでいる」ですね。
「飛んでいる」という認識の仕方には、「電線に止まっている」とか「巣で眠っている」とか、それらさまざまな様態との関連性において、把握されています。
これは、時間の概念でもありますね。
飛ぶ前の鳥(電線に止まっていたり)→空を飛んでいる鳥→やがてまたどこかで止まって休む鳥
といったふうに、
今現在の「空を飛んでいる鳥」という認識には必然的に、「飛ぶ前の鳥」という過去と、「飛び終わってどこかで休んでいる鳥」という未来との関係性における現在、という意識が働いているわけです。
「認識」とか「把握」「意識」と書いていますが、これは哲学っぽく認識する、ということではなく、ごく一般的に、「「鳥が飛んでいる」と思った」という、ごくごく平凡な「経験」のうちに、すでに存在を「関係性のうちに認識している」という意味です。
意識的、無意識的を問わず、にですね。
このように、個々のかけがえのない存在、たとえば、「あなたという存在」にしても、他の存在、たとえば、木々や葉っぱ、鳥、猫、大地…etc のありとあらゆる他の存在との関係性において存在している。
関係性において存在している、というより、「関係性の中にしか存在しえない」と言うほうが正確かもしれません。
そのように、関係・関係・関係…とたどりたどっていくと、結局、「全体」という概念にたどり着いてしまうことになりますね。
これが、ヘーゲルなどが言う、「真理は全体である」という言葉(認識)の本当の意味です。
さて、話が長くなりましたが、
結局、私たち一人ひとりも、一人ひとりが個別に、別個にあるわけではなく、時間的にも空間的にも、「全体の中の私」であり、「私と様々な私以外との関わりにおける私」というのが、存在というものの正体になっているわけです。
キレイ事でそう言ってみたい、ということではなく、論理として突き詰め突きつ詰めした必然としてそういう結論になるということです。
そして、これが真実であるならば、その「真実性へ意識を回帰させること」が必然的に幸福論の基礎になってきます。
真実性とは、今回のトピックに即して言えば、「全体性」ということになります。
呼吸瞑想で全体性へ回帰する
呼吸瞑想の順序として、
- 呼吸(お腹の膨らみ・凹みなど)に意識を集中する
- お腹周辺まで意識を拡大していく
- さらに、身体全体が呼吸である、呼吸こそ”われ”である。と観察する
という段階的な実践法がありますが。
これを進めていくと、自分が透明な空気袋になったかのような感覚に入っていきます。
さらに、「袋」すら溶けてなくなってしまい、自らも世界も区別がない感覚へ進んでいきます。
もちろん、ネオ仏法的には、「この段階ではいまだスピリチュアルな世界への参入が不十分」ということも言えるんですが(結論的には、これがマインドフルネスの限界でもありますが)、
この段階であっても、十分に「全体性への回帰」を体験することができます。
むしろ、スピリチュアル的な要素がいまだ入っていない分、汎用性があるとも言えますね。これが、Googleなどの世界的企業でマインドフルネスが研修として採用されている理由でもあるでしょう。
今回は前回の補足的な内容して、マインドフルネスのきわめて重要な側面を語ってみました。参考にしていただければ幸いです。
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