信仰はアヤシイ??
前回の記事で、「信仰が立たないと、本物のスピリチュアルにはならない」と書きました。
*”ナイナイの神様”のご利益パワーとは!?
ところが、信仰というと、脊髄反射のように、「ちょっと勘弁」とか、あるいはさらに、「新興宗教」などというと、もう走って逃げ出しそうな勢いになりますよね。
でもですね、
一度でも、一瞬でも、「なぜ、自分はそういうふうに感じるのか?」「いつからそう感じるようになったのか?」と立ち止まって考えたことってありますかね??
非科学的だから??
まあ、スピリチュアルだけでは怪しい…ということで、「脳科学」なんかを組み合わせると、とたんに格好良くなるって側面はありますけどね。
でも、カッコいい、信頼に値する「科学」も、登場した当初はどうだったかというと、ふつうの人の感覚では、「怪しい!」だったんですよ。
現代とは逆で、「信仰はまともで、科学なんて怪しい…うさんくさい」ってのが常識だった(脊髄反射的反応だった)時代があるわけです。
脊髄反射的に反応してしまう、感じてしまう、そしてそれを受け入れてしまうってことは、
今、「信仰なんて怪しい」って言っている人は、科学の曙(あけぼの)の時代に生きていたら、きっと、「科学なんて怪しい」って言うタイプだったんじゃないでしょうか?
新興宗教は怪しい?
イエスも釈尊も、登場したての頃は「新興宗教家」です。
特に、イエス・キリストは、教えの内容は「愛の教え」ですが、行動面では性急で急進的。
神殿の屋台をひっくり返して回るあたりは、星一徹も真っ青な感じです。
同時代に生きてた多くの人からは、まあ現代で言えば、オ◯ム真理教と大差ないように見えていた人も多かったかもしれません。イメージ的には、ですよ。
宗教ではないですが、ソクラテスも、「青少年を怪しげな言説で惑わす罪」ということで死刑になっていますからね。
孔子サマも生涯の殆どが失業状態です。
おそらく、「新宗教だからダメ、生理的にイヤだ」っていう脊髄反射の人は、タイプ的には、イエス・キリストや釈尊と同時代に生きていたとしても、受け入れることができなかったタイプなんではないかと思われます。
パリサイ人になっていたり、「バラモンの儀式が本式でしょう」みたいな。
…と考えてみると、現代で一定の権威があったり、素晴らしいと思われているものであっても、出発点は、「怪しい」と排斥されていたパターンが多いってことですね。
ただ、「今」「現代」を生きていると、「むかしはそういう偏見があったかもしれないね(でも現代は目覚めた時代だし、自分は目覚めてますから…)」というふうに考えがちです。
現代にいたってようやく、まことの常識が打ち立てれたと。
でも、本当にそうなのかな?
先入観の打破が智者への道
たとえば、つい数年前まで、「グローバリズム・自由貿易は素晴らしい」なんて風潮がありましたよね。
グローバルな時代だから、子どもの名前もグローバルに!みたいな。
ちなみに、私はブログ開設当初(2016年)から、「グローバリズムは怪しいですよ」って言っていました。
*参考記事:ワンワールドとインターナショナルと
「グローバリズム、自由貿易圏って言葉の響きはかっこいいですけど、これって、関税自主権を放棄せよってことですよね?
西欧列強の植民地政策で、一方的に不平等条約を結ばされたアジアの歴史がありましたが(日本はその不平等条約の撤廃にどんだけ苦労したか、今は中学の教科書でも載っているでしょう)、
不平等条約の内容って、「治外法権」と「関税自主権の放棄」でしたよね?
ということは、グローバリズムって、言葉を変えただけの”経済帝国主義”なんじゃないですか?」
とか、こんな感じでブログに書いています。
EUもグローバリズムの流れの典型ですが、「ありゃもうだめだ」ってのは今ではもうほとんど共通認識ですよね。
あとは、GAFAなんかもだいぶ批判を受けるようになりました。
何が言いたいかっていうと、
”智慧”というもの、”目覚めている”ということ、は、先入観から解放されてないとほんとうの意味で発現してこないってことです。
そして、先入観・偏見のほうがむしろ「洗脳」であって、程度の差はあれ、いつの時代でも、もちろん現在ただいまも、われわれは「先入観と洗脳だらけ」ってことなんです。
そして、洗脳の洗脳たるゆえん・特徴は、「洗脳されていることに気づいていない」ってことです。
これはね、程度の差はあっても、ある意味、誰でも先入観・偏見・洗脳の只中(ただなか)にいるんです。地球に70億人いるのなら、70億人全員です。
ただし、「程度の差はあっても」と書きましたが、やはり、智慧あるもの・智者を目指すものとしては、そういった先入観・偏見・洗脳からできるだけフリーになっていくことが大事です。
それが、物事をありのままに見ることであって、仏教的には、八正道のいちばん最初にでてくる「正見(しょうけん)」ということになります。
「正見にも無限の深まりがある」って書いたことがありますが、これって要するに、「みんな洗脳の中にいる」ってことを逆に言っているだけなんですよ。
洗脳を解いていく過程が無限に近くあるってことですね。
ビジネス系のブログの方では、「われわれはマーケティングに取り囲まれている」ということを散々言っていますが、これも本質は同じことなんです。
あと、仏教に絡めてひとつ申し上げると、
仏教書を読んでいると、例の「無我」のところですね。
「釈尊は、永遠不滅の実体を認めなかった。ゆえに、死後の世界・不滅の魂などは本来仏教とは無縁の産物です」とかね、仏教書のほとんどがコレですけど、
なんで、死後の生命=永遠不滅の実体なんですか?その等式の根拠は?ってとこを完全にスルーしてますよね。
死後に生命が存続しても、べつに固定的・不変的に存在しているわけではなくて、生命ですから、時々刻々変化して存在しているわけです。
なので、無我ともぜんぜん矛盾しません。
もっと専門的には、「常見・断見」とかいいますけどね、この文脈で「死後の生命、魂はない」と語られることも多いです。
あ、それについては、「生まれてくる意味と目的って何だろう? – ①「断常の中道」の記事で同じことを批判しておきました。
ということは、仏教学者(僧侶も含めて)のほとんどは、入り口の「正見」ができていない、重大な見落としがある、ということになります。
これも、洗脳の洗脳たるゆえんで、「見落としがある」「無意識にスルーしている」ということが、まったく意識に上ってきていないのだろうと思われます。
…というわけで、ぜんぜん、フランシス・ベーコンに行きませんでした(このパターン、いつものことですが)。
*ま、ベーコンでなくても良いんですけどね。
次回に続きます。