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芸術も<無我>である
ネオ仏法では、音楽や絵画など芸術・アート全般も「真理スピリチュアルの表現形態のひとつ」、という位置づけをしています。
まず、真理(実在)というものが先立ち、その具体的展開(現象)として政治や経済、学問、芸術などのさまざまな人間的営みがある、という解釈です。
ネオ仏法ではいろいろ言っているようですが、この「実在 – 現象」という枠組みそのものは一貫しております。
なぜ、この点をまずハッキリさせているかと言いますと、芸術、まあ芸能などのエンターテイメントも含まれますが、
芸術そのものがまったくそれ自体で独立しているジャンル、というふうに位置づけてしまうと、「とにかく売れている方が偉い」という発想に行ってしまうからです。
やはり、芸術もまた、それ自体では存在できない。他の現象および真実在との関係性において存在している、ということで<無我>なわけですね。
ロシアの文豪トルストイも、
「美と愉悦(よろこび)とは、善に依存することなしに、ただ美と愉悦そのものとしては、ーー 厭わしいものである。私はこの事がはっきりした。そしてそれらのものを棄て去った。」
と述べております。
「善に依存することなしに」という言葉は若干、古めかしく聞こえるかもしれませんが、当サイトの言葉で言えば、「真理スピリチュアルに基づいたものでなければ」というふうに読み替えてよろしいかと思います。
このように、芸術・芸能を真実在との関係性で位置づけておくと、おのずから、「どういった芸術・芸能が真理から見て優れているのか」ということが判定できますし、
また、そうした仕事をしている方々にとっても、「芸術を通して自利利他の菩薩行を行っていくためにはどうしたら良いか?」という指針を得ることができるようになります。
芸術家の霊格(仕事量)はどのように測られるか?
「霊格を上げていくための公式」がそのまま当てはまる
上述したように、「芸術も真理スピリチュアルの下部構造である」という理解で行くのであれば、
芸術家の作品の高さ・低さ、および、芸術家の霊格というものも、特殊に考える必要はなく、真理スピリチュアリズム一般の法則が当てはまることになります。
「霊格を上げていくための公式」というのを以前、ご紹介したことがあります。
*参考記事:「生まれてくる意味と目的って何だろう? –⑤菩薩界へ還るための公式」
まずは、
智慧×慈悲=霊格(仕事量)
というシンプルな公式です。
縦軸に「智慧」、横軸に「慈悲」という四角形の面積を想像するとイメージしやすいかもしれません。
ただ、この公式はイメージしやすく表現したもので、実際のところ、智慧と慈悲が両方ともマイナス(=非天国的)であった場合は、マイナス×マイナスでプラスになってしまうじゃないか…という欠点があります(笑)。
なので、数式的により正確には下記の公式になります。
(智慧の質+慈悲の質)×(智慧の量+慈悲の量)=霊格(仕事量)
智慧の質/慈悲の質
上記の公式から分かることは、まず順序として、「智慧の質」と「慈悲の質」をまず担保するが大事、ということです。
智慧というのは、(芸術で言えば)作品に接する人の魂を高みにいざなう力、ということになります。
これが逆に、作品に接する人の魂を堕落させるさせる方向であると、「智慧マイナス」の状態になってしまいます。
そうすると、作品が世の中に拡がれば拡がるほど、「世界に害悪を撒き散らしている」ということになり、世の評価がどうであれ、これは実在界の観点からは、「努力逆転の法則」に見事に当てはまってしまうことになります。
ひらたく申し上げれば、「売れれば売れるほど(有名になればなるほど)、深い地獄界へ赴く」という下方圧力がかかることになるわけですね。
これは実際は、現代社会ではかなり観察できる現象です。
小説やドラマなども地獄的な要素が多く入っていると、刺激的であるとか、ストレス発散になる(?)ということなのか、けっこう売れてしまう傾向があります。
そうすると、現象界(この世)では「有名作家」ということになりますが、実在界(あの世)へ還ってみると、真っ暗な世界で愕然とする、みたいな。そういうふうになっていきます。
なので、まずは、「智慧の質」ですね、
ここのところを、まずは地獄ではなくて天国的な質に仕上げていくということ。マイナスではなくてプラスの状態に持っていくこと、が先決です。
そして、その次の段階として、
天国的な智慧であるにしても、その智慧が真理としての奥深さをどれだけ持っているか?という観点です。
ここのところ、たとえばですね、
「頑張れば道は開けます!」くらいの智慧であれば、まあ天国的ではあり、「智慧プラス」の状態ではありますが、
しかし、このくらいだと、「中学生でもこのくらいのことは言えるよなあ」という若干、浅い側面はありますね。
そこのところを、なぜ、道が開けるのか?をさらに突き詰めて、
たとえば、「想念の法則性」についてきっちりと説明が付けられているのであればけっこう智慧の質は高まりますよね。
あるいは、実際はこの世では「道が開けない」という場合もありますので、そうしたときに、「どういう思考方法で切り抜けていけばいいのか?」という知恵まで含まれているのであれば、これはさらに「智慧の質が高い」ということになるでしょう。
さらにさらに、
「それでは、そうした「想念→自己実現のプロセス」の背後にある神仕組み、ですね。至高神の意思のようなところまで説明できれば、さらに智慧の質が高くなります。
これはもう究極に近いレベルで、このレベルまで来ると、その芸術家は同時に哲学者でもある、という状態になるでしょうけどね。
このように考えてくると、
智慧といっても世間的な経験知では不十分で、やはり、芸術の上位概念であるところの真理スピリチュアルそのものをどれだけ勉強しているか?理解しているか?腑に落ちているか?ということが大事になってくることが分かります。
つまり、十界論でいうところの、「声聞」の修行です。
*参考記事:「十界論 ー スピリチュアルな出世の段階 – ⑧天国篇 – 声聞界・縁覚界」
やはり、質が伴ってこその量、という順番になります。
それから、「慈悲」は「拡げたいという思い」と考えると分かりやすいかと思いますが、
拡げる動機が「自分自身が他者と比べて有名になりたいから」という自我の思いが中心になっていると、やはり危ういところがあります。
もちろん、私たち一人ひとりが、「現象」として個性を持っているということは、「自己を伸ばしていきたい」という思いがでること、これは必然的なことでありますけど、
自己を伸ばすことが他者にも資することになるのか?そういう思いを持っているか?そして、その思いがどれだけ純粋であるか?というところがチェックポイントですね。
ここのところが、慈悲の質、ということになります。
それでは、
- 智慧の質はプラスなのだけど、慈悲の質が若干、自我意識が強すぎた、少しマイナスだった…という場合
- 純粋な慈悲の思いはあったけど、ちょっと勉強不足で智慧マイナスのことを言ってしまった、という場合
とりあえず、「質」においては、この2つのパターンが考えられますが、この場合はどうなるか?というと、
かんたんに申し上げれば、「相殺」ということになりますね。
つまり、プラスもあったけどマイナスもあったということで、引き算してどのくらい残るか?天国領域へ留まれるか?あるいは、若干、地獄領域へ足を踏み入れるか?という判断ですね、
このような相殺された判定になってくると思います。
なので、冒頭で、「芸術も無我である」ということを述べましたが、
これは芸術そのものの位置づけもそうなのですが、芸術に取り組む人=芸術家(アーティスト)の実践論としても無我修行が要請される、ということになるでしょう。
自我意識を去って、どれだけ純粋な思いで作品に取り組めるか?
いわば、「神の世界計画に奉仕の気持ちで参画していく感覚」です。
そして、「天の国の実現」をより大きなものにするために智慧を深めていく、という精神的態度ですね。
これがまず肝要なところであると思います。
このように、まず、質を担保して、次に量にとりかかるという順番です。
智慧の量/慈悲の量
智慧の量としては、
真理といっても色々な側面がありますので、これをどれだけ多角的に説明できるか?作品に込められるか?
さきの例で言えば、
「想念は現象化するという法則性を説明できれば智慧の質が高くなる」と申し上げましたが、
現象化するにあたり、「現世だけでなく、来世も含めてみる」という観点もあります。
そうすると、作品としては、「輪廻転生モノ」ということになるでしょうけど、これは、単に現世のみの「想念の法則性」とはまた別の価値が出てきますね。
輪廻転生を理解することで、はじめてほんとうの意味での「自由と平等」の概念を腑に落とすことができます。
*参考記事:「自由と平等を架橋するのは”輪廻転生”の思想」
これは、やはり作品に込められている智慧の量が増えた、ということになるでしょう。
慈悲の量としては、これはいわば「マーケティング思考とその実践」ということになります。
文字通り、拡がりをできるだけ最大化していく、ということですね。
以上、ざっくりとではありますが、芸術(アート・芸能)においても、作品の真理価値。それから芸術家としての霊格向上のために、
- 智慧の質:真理価値がどれだけ高いか?
- 慈悲の質:どれだけ無私な思いで(単なる自己発揮にしない)取り組めるか?
- 智慧の量:もっと智慧のストックを増やせないか?
- 慈悲の量:どれだけ拡げられるか?(マーケティング志向)
という4つの観点を大事にしていくこと。
その際に、「まず質を担保していくこと」が大事ということを述べてみました。
次回は、補足的に、少し具体例を挙げてご説明いたしますね。
続き→→「芸術・アートとネオ仏法 – ② 作品化の方法論」
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