芸術(アート)の真理価値を引き上げる方法
「芸術・アートとネオ仏法 – ①作品の仏法的価値と芸術家の霊格」の続きです。
かんたんに、復習してみますと、
実在界の観点からみた「作品と芸術家の霊格(仕事量)を決定する公式」は、
(智慧の質+慈悲の質)×(智慧の量+慈悲の量)=霊格(仕事量)
であること。
そうすると、
まず前提として、智慧の質と慈悲の質をプラスにもっていくことが大事で、そうしないと、式の後半の「量」のところをいくら増やしても、「努力逆転の法則」にハマってしまうので注意!ということでした。
*つまり、量を増やせば増やすほど、非天国的なものになっていく。地獄への下方圧力が増えるということです。
具体的な目安としては、それぞれ下記のとおりとなります。
- 智慧の質:真理価値がどれだけ高いか?
- 慈悲の質:どれだけ無私な思いで(単なる自己発揮にしないで)取り組めるか?
- 智慧の量:もっと智慧のストックを増やせないか?
- 慈悲の量:どれだけ拡げられるか?(マーケティング志向)
さて、公式的なところはこれで出揃ったと言えそうですが、「実際、どうしたらいいのか?実感が湧きにくい」という方のために、手法的な観点からいくつか具体例を挙げてみます。
1)写実的手法
写実的手法というのは、この場合、「自然界をそのまま写す」ということではなくて、真理価値があると思える対象をそのまま作品に定着化していく方法です。
音楽で言えば、バッハの『マタイ受難曲』など、直接的に聖書に依拠した作品ということになります。
絵画で言えば、フラ・アンジェリコの『受胎告知』とか、これも聖書に題材を採ったものですね。

あとは、仏画とか仏像などもいわば、直接的・写実的な手法です。
この写実的手法は、題材的にはすでにベースになるものがありますので、比較的取り組みやすい方法であると言えるでしょう。
ただ、上記のように、すでに過去にいろいろな作品がありますので、現代において、真理価値およびある程度のエンターテイメント性(つまり、受け入れられやすさ)の両立を考えると、やはり一工夫は必要でしょう。
仏画・仏像など、古い作品ではルックス的には当時の美意識を反映しているものになっていますので、現代人がみても(一般的な意味で)ルックス的に美しい!とはなかなか思えないところがありますね。
美意識はやはり時代性や地域性で変遷していくものです。
なので、思い切って現代の美意識に合わせた外見・スタイルに変えてしまうのも有効な方法になるでしょう。
以前、どこかの記事で、真理が説かれるときは
- ゴールデンルール的な真理:時代性や地域性に左右されない永遠の真理
- 対機説法的な真理:説法の対象者や、時代性・地域性を考慮して方便として説かれる真理
の2つの説かれ方があると申し上げました。
この、2.の対機説法的な真理を1,のゴールデンルール的な真理と混同すると、ここに原理主義が生まれて、現代社会と齟齬をきたすことになります。
たとえば、「一日の決まった時間に礼拝する」ということを現代において絶対化すると、飛行機のパイロットが航行中に敷物を拡げて礼拝を始めてしまう…ということになり、乗客としてはじつに不安ですよね(笑)。
なので、2.対機説法的な真理は、文字通り、時代や地域でイノベーションしていったほうが良いのです。
これをやらないと、思想・宗教としても耐用年数を迎えることになります。
なので、芸術において、美的感覚/美意識を現代人の感覚に沿うようにアップデートを行うことは、「2.対機説法的な真理」に相当することになります。
もちろん、1.ゴールデンルール的な真理 」を担保しているのが前提ですが、この2つの真理を両立させることによって、むしろ、その当該の真理というものは、イノベーションされ、さらに現代において説得力を増すものになっていくことになるでしょう。
放置しておけば、耐用年数を迎えたかもしれない思想・宗教を、芸術のちからで延命させることができた、ということになりますので、これはむしろ、圧倒的な善/功績となる可能性が高いですね。
2)象徴的手法
象徴的手法というのは、直接的には明示していなくとも、鑑賞者を真理へいざなう力をもたせる方向性です。
そもそもクラシックの絶対音楽では文字通りコトバが入れられませんので、写実というのは難しい方向性になりますね。
しかし、たとえば、ベートーヴェンの第5交響曲『運命』を聴いてみると、第1楽章から最終楽章までの流れで、「苦悩を克服して歓喜に至る」というのは、ある程度、誰にでも実感させるパワー/説得力はあるでしょう。
「真理の質」ということで言えば、第九交響曲『合唱』では、「真の意味での宗教性に基づいた人類愛」ということで、『運命』よりさらに真理価値が高いのではないかと思います。
*もっとも、『合唱』では文字通り、コトバがはいってきますけどね。
絵画においては、たとえば、ピカソのキュビズムなども真理価値が高いのではないかと思っています。
ひとりの人間の表情を多面的に表現してる作品であったりしますが、キュビズムは「認識の多様性」を表現しているとも受け取れます。
ここのところは、仏教の認識論にも通じるところがあるのではないか?と思っています。
つまり、私たちは外界をそのまま受け取っているわけではなく、認識というフィルターを透過した影像を観ているに過ぎない、ということです。
*参考記事:「六根、十二処、十八界 ー 仏教の認識論 ー」
これはかなり高度な哲学的真理です。
こうした認識の多様性を二次元平面で表現している、とも解釈でき
同じピカソの『アビニョンの娘たち』は、「キュビズムの先駆的作品」と呼ばれていますが、美術史的な価値はまた別にしても、私には、「諸行無常」を表現しているように受け取れます。

ごく一般的な意味での美や官能性(タイトルから想起されるところの)からすると、発表当時はピカソの理解者ですら拒絶反応を引き起こしたようですが。
これは作品の持つ強烈な異化作用によるものでしょう。
同化作用であれば、「なるほどー、納得できる。共感できる」という方向性ですが、異化作用の場合は、鑑賞者の感性に揺さぶりをかけ、物事の本質についての思い込みを覆していく方向性をとることになります。
『アビニョンの娘たち』のスケッチ段階では、時間の経過を象徴するところの、水夫(一箇所に定住しない→過ぎ去ってもの)および、骸骨(死)が配置されていたようです。
しかしこの道具立てでは説明的すぎるとピカソは思ったのかもしれませんが、完成画では葡萄らしきものが手前に配置されています。
絵画における葡萄の象徴としては、「イエスの贖(あがな)い」あるいは単純に「秋」ということになるらしいのですが、
西洋では、四季は「冬春夏秋」の順ですからね。時間的な経過としてはやはり「晩年」ということになります。
そうしたときに、「外見的な美や官能性はどうなっていくか?」。
まあこのようにコトバで解釈していくと無粋なところがあるのですけど、
私の解釈としては、『アビニョンの娘たち』は鑑賞者に驚きを与え、感性に揺さぶりをかけ、「外観としての美や官能性は移ろいゆくもの、無常である」という主題性があるのではないか?と受け取っています。
もっとも、解釈の多義性を許容しているのが芸術であって、逆に解釈の幅を狭めてしまうと説明的・押しつけ的になってしまい、芸術としての深みが損なわれますからね。
なので、上記の解釈が絶対的に正しい、ということではないです。
ただ、いずれにせよ、鑑賞者の認識に変容を迫ってくる作品ではあろうかと思います。
こうした象徴主義的方向は、無限の表現の余地がありそうです。
ネオ仏法で言っているような、たとえば、
- 「一即多多即一」を象徴的に絵画で表現したらどうなるか?
- 現象界での心境が実在界でのどこの世界に通じているか?(十界論)その変容を動画作品にできないか?
- 弁証法(中道的発展)をイラストで、あるいは音で表現できないか?
とか、
私が理屈をこねるよりも、むしろ作品に接したほうが真理スピリチュアルを腑に落とせてもらえる、ということあれば、これは嬉しい方向性ですね。
以上、
今回は方法論に焦点を当て、「写実的手法」「象徴的手法」の2通りをご紹介させて頂きました。