菩提薩埵

前回の続きで、今回はシリーズ21回目です。
*シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→「般若心経」の悟りを超えて -①
*『般若心経』全文はこちらから→祈り/読誦

菩提薩埵

読み:ぼだいさった

現代語訳:菩薩は

”菩提薩埵(ぼだいさった)”と何やら難しげですが、実は”菩薩”というのは、この”菩提薩埵”を約めて2文字にした言葉なのです。

サンスクリット語読みでは、

菩提薩埵=ボーディサットヴァと読みます。この言葉は、

  • ボーディ:悟り
  • サットヴァ:衆生

ということで、「悟りを求める衆生」という意味なのですね。

”ボーディサットヴァ”は、もともと、初期仏教において、「悟りを開く(成道)前の釈尊」を表すのに使っていた言葉です。

大乗仏教の時代になってから、

  • (釈尊と同じ)仏陀の悟りを求める人
  • とくに”利他”に生きる修行者

という意味合いで使われるようになりました。

この”菩薩”という言葉・概念そのものが、上座仏教(小乗仏教)へのアンチテーゼでもありました。

上座仏教での修行の階梯を一言でいえば、

  • 声聞(しょうもん)から阿羅漢(アラカン)へ

というものでした。

大乗仏教を起した側からみると、当時の上座仏教(小乗仏教)は、「自分の悟りだけを考えていて慈悲の実践に欠けるのではないか?」と思われるところがあったのですね。

そこで、この”菩薩”という概念を中心に打ち出して、

  • 仏陀の悟りを目指すこと
  • 自利だけではなく利他の実践に重きをおいてゆく

という修行スタイルを選ぶようになったのでした。

これは”宗教改革”であると、同時に、「仏陀・釈尊の本来の精神へ還ろう!」という復古運動の側面がありました。

と、言いますか、すべて真なる改革・革命というのは、「本来の精神に立ち返る」という意味での復古運動を伴うものなのです。

ルターの宗教改革も、「聖書のみ」ということで、これはカトリックで余分についた贅肉を削ぎ落としてオリジナルに還ろう、ということですよね。

明治維新も富国強兵と洋化政策を進めながら、同時に、”王政復古”という国体のオリジナルへの復帰を伴っていました。

当サイトでよく用いている”十界論(じっかいろん)”、これはいわば「実在界の出世段階論」とでも言うべきものですが、

この中では、”声聞”の上に”菩薩”を置いていますよね。

*参考記事:天台智顗(てんだいちぎ)の十界 ー スピリチュアルな出世の段階一覧

なぜ菩薩が声聞の上なのか?と言いますと、声聞はいまだ”自利”という自分の悟りのみを求めている。

一方、菩薩は”利他”すなわち愛の実践業へ重心をシフトしているから優れているのだ、と考えられたわけです。

実際に、釈尊のオリジナルでは伝道も大きく展開しておりましたので、決して「一人悟り」のみを目指していたわけではない、と。

そういう意味での復古運動でもあったということです。

この点につきまして、ネオ仏法ではどう考えるか?と言いますと。

大乗仏教的な、「利他行中心」という考えにも若干、無理があるのではないかと考えています

大乗仏教ではよく、「自らの成仏は捨ててでも〜」などという言い回しを使うのですが、ここには若干、責任回避の姿勢が入ってくる危険性があると思います。

他人を救う前に、自分を救えていることがやはり前提に入るべきだし、「自分を磨きつつ、その成果を他者への愛に転化していくのが順序である」というふうに考えます。

よく使われる言葉で言い換えると、”自利利他(じりりた)”が大事、ということです。

つまり、小乗か大乗か?という「あれか、これか」ではなくて、”小乗かつ大乗”の中道で観ていく、ということですね。

小乗と大乗の本質部分を弁証法的に総合していくということです。

ベストセラーの『7つの習慣』(スティーブン・コヴィー著)、これは私は現代人にとって必読書だと考えていますが、

7つの習慣の第1の習慣〜第3の習慣は”私的成功”と呼ばれています。一方、第4の習慣から第6の習慣は”公的成功”と呼ばれています。

私的成功は公的成功に先立つ」と著者のスティーブン・コヴィー氏は言っております。

そして、第7の習慣の「刃を研ぐ」で、私的成功と公的成功を循環的に回していくことを図っている。

この私的成功と公的成功をリンクしていく思想というのは、まさに”小乗かつ大乗”、あるいは、”自利利他”そのものである、と把握することができるでしょう。

なので、声聞を軽蔑しつつ菩薩である、というのは、これは言わば”無茶なショートカット”であろう、とネオ仏法では考えています

やはり、『7つの習慣』的に言えば「私的成功から公的成功」、すなわち、「声聞から菩薩へ」という順序が大事だと思っています。

”菩薩論”は論理的に考えれば上述の通りなのですが、「では、菩薩っていったいどういう存在なのか?」ということを、次回ですね、もう少し実態論的に語ってみたいと思います。

続き→→「般若心経」の悟りを超えて –㉒依般若波羅蜜多故

 

 

 

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