舎利子 – 道化役のシャーリプトラ

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上から目線の大乗仏教

前回(度一切苦厄 – 仏教の基本はセルフ・ヘルプ)の続きで、今回はシリーズ6回目です。
 *シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→摩訶般若 – 仏教的グノーシスの経典としての『般若経』
 *『般若心経』全文はこちらから→祈り/読誦

舎利子

読み:しゃりし

現代語訳:シャーリプトラよ

舍利子はサンスクリット語読みで「シャーリプトラ」と言います。

法事などでお経をぼーっと聴いていると、「しゃーりーしー」ってよく聞こえてくると思います。

シャーリプトラは、釈尊の十大弟子のトップで「智慧第一」と呼ばれていた人です。上座仏教では”サーリプッタ長老”として、ものすごく尊敬を集めている存在です。

大乗経典は一応、仏説(仏陀の説法)という建前をとっていますので、やはり、一番弟子のシャーリプトラはよく登場してきます。

しかし、登場の仕方にひとつ問題というか、仕掛けがあります。

それは何かと言いますと、一言でいえば、

上座仏教で一番尊敬を受けているシャーリプトラを文脈の中で低い位置に置く、ありていに言えば、一種の道化役に設定することによって、「大乗は小乗(上座仏教)より優れているのだ」という暗黙のマーケティング装置として使われている

ということです。

般若心経の構図でも、

  • 説法する主体:観自在菩薩
  • 説法される対象:舍利子(シャーリプトラ)

という設定になっています。

説法される側よりも説法する側のほうが偉く感じられますからね。

これは、暗に、「智慧第一のシャーリプトラと言っても、大乗の菩薩から見ればまだまだひよっこですよ」みたいな。

いくら何でもあんまりだ…と思うのですが、般若心経はこれはまだマシなほうで、

聖徳太子も注釈したことで知られる『維摩経』に至っては、シャーリプトラは「いかに悟りが未熟か!の見本」とばかりに、こてんぱんにやられる配役です。

こうしたことはやはり、大乗仏教の上座仏教へのマーケティングあるいはカウンターパンチを狙ったもので、「われわれ大乗のほうが優れた仏教なのだ」というアピールになっているわけです。

こういう、「配役によって、優劣を暗示する」という方法は、古代の経典にはけっこう見受けられるパターンです。

有名な『法華経』では、冒頭の方で弥勒菩薩が若干、間抜けな配役に設定されています。

え?同じ大乗の菩薩なのに…?という疑問がわきますが、これはやはり、大乗仏教でもいくつかの派閥があり、法華経を作成したグループは、弥勒信仰に牽制球を投げているのでしょう。

新約聖書でもこうしたことは微妙に行われています。

十二弟子のひとりにトマスという人がいますね。聖書外典の『トマス福音書』でも知られているトマス。

正典では、イエスの復活をすぐには信じることができず、イエスの肉体の傷痕に指を突っ込んでやっと認めたという、「疑いのトマス」として描かれています。

これが事実そうであったか?は、トマス推しの高田にとっては否定しておきたいところです(笑)。

トマス系のグループは、いわゆるグノーシス主義の影響を強く受けていましたので、おそらく主流派からは、「グノーシス(認識)を持ち出すなんて、信仰うすきやつめ!」みたいな。

それで、「疑いのトマス」に設定されてしまったのではないか?と予想しているのですけどね。

 *参考記事:キリスト教グノーシス主義の考察

少し話が逸れましたが、舍利子(シャーリプトラ)が登場している理由ですね、

まあ、道化役と書きましたが、これは逆に言えば、大乗仏教側の上座仏教に対するコンプレックスの裏返しであったかもしれません。

ひと昔前の教科書では、「紀元前後から大乗仏教が興り、その後、西域を経由して中国へ…」といったふうに、大乗仏教が華々しく登場したかのように書かれていました。

しかし、近年の研究では、大乗仏教は当初、上座仏教からは相手にもされておらず、都市部では拡がりも持てず、周縁へ追いやられていったのが実情、ということが分かってきました。

 *参考書籍:『大乗仏教興起時代 インドの僧院生活』(グレゴリー・ショペン)

インドの僧院生活

なので、「西域を経由して」というより、「西域へ逃げまくって」という退却戦ですね、その流れで中国へ至ったというほうが実情に近いのでしょう。

シャーリプトラをコケにしたり、あとは、上座仏典(パーリ仏典)に比べると、大乗仏典は登場人物や舞台設定がやたらと派手・大げさです。

これもコンプレックスの裏返しであるとも言えましょうし、中央を追われた一座としては、舞台装置を派手にして、いわゆる楽劇のように仏典を派手にしていった、ということなのかもしれませんね。

しかしまあ、そうは言っても、大乗仏教は上座仏教へのアンチテーゼとして、宗教改革を行っていったというのは事実です。

そして少なくとも当時は、改革の必要性が十分にあったということです。

『般若心経』ではこのあと、仏教の基本的な教説がずらずらとでてきます。

私が般若心経読誦を勧める理由のひとつがここにあります。

わずか262文字の短いお経のなかに、仏教の教えがベスト盤的にコンパクトに収められていて、読誦するたびに上座仏教+大乗仏教の教説全体を概観していくことができる構造になっています。

次回はいよいよ、最重要ポイントの「色即是空」に踏み込めそう(?)です。

続き→→「般若心経」の悟りを超えて – ⑧ 色不異空 空不異色

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