”他人軸”で苦しんでいるときは、一度、”自分軸”に戻してみるのも有効
日本人は、「空気で動く」と言われるくらい、自分をとりまく<周囲>に流されていく傾向があります。
それは、「調和を重視する」という意味で、長所である面はあるのですが、
一方で、他人や周囲の価値観・動きといったものが、本来の自分にあっていない場合、苦しみになってしまうことがありますね。
また、他者の思いや意見にいちいち<自分の価値>を預けてしまうと、当然、心の安定は得られなくなります。
なぜなら、(当たり前ですが)、他者の思惑や言動は自分の自由にならないから、です。
そういう意味で、今流行りの(?)「自分軸」に一度、振り切ってみるのは非常に有効な手段だと思います。
”自分軸”はいまだ相対性のなかにある
一方、自分軸は自分軸で、振り切りすぎてしまうと、単なる「ワガママのすすめ」になっていまいます。
アドラー心理学などもその文脈で理解されているフシがありますね。
ドラマ『嫌われる勇気』は(僕は観ていませんが)、「日本アドラー心理学会」から、
「アドラー心理学における一般的な理解とはかなり異なっているように思えます。」という抗議がなされています。
これなども「私はただ、感じたことを口にしているだけ」とうそぶいている主人公を、「ナチュラルボーンアドラー」と設定しているらしいですが、
この主人公も言ってみれば、「自分軸」ですよね。
そして、こうした振る舞いを現実世界で、”リアル”にやったとしたら、それが本当に幸福な結果を招くのかどうか、
ちょっと想像してみると、やっぱり、むずかしいだろうな、って思うわけです。
要は、こうした自分軸というのも、他者を過剰に意識した反転系に過ぎないんですよ。
自分軸 ⇔ 他人軸
と併置される相対観のなかにあるわけです。
ゆえに、他人軸でもなく、自分軸でもなく、高次な価値観との距離感で自らを計る”絶対軸”をお勧めしているわけですが、
この件については、他の記事でも書いています。
*参考記事;「自分軸で生きるって本当に幸せなことなのかな?」
”自分”には真我(しんが)と偽我(ぎが)がある
今回は別の観点からお話してみますと、
前提としては、本当の自分なんてそんな簡単にはわからないということです。
スピリチュアル的には、高次な存在とつながっている自己を「真我」、迷っている自己のことを「偽我」と言ったりしますね。
真我は仏教的には、文字通り、「仏性」とか「如来蔵(にょらいぞう)」とか、まだ他にも色々な呼び名があります。
今回は、仏教理論には深入りしませんが、
「これが自分の正直な気持ち」と思っていたとしても、実際は、「問題から目をそらしているだけ、逃げているだけ」というケースがけっこうあります。
僕でもありますよ…笑。
ただこれって、単なる問題の先送りに過ぎませんのでね。
問題に立ち向かっていれば、「なんだ、意外にたいしたことなかった」で済むこともあるかもしれませんが(というより、意外に大したことない場合が多いんです)、
先送りしているうちに、問題が逆に、膨れ上がってしまうこともあるわけです。
実際は、そうした真我と偽我を見極めるために、
- まず、体系的なスピリチュアルの知識を仕入れる
- 次に、瞑想において、深く自分をみつめる
という手順がむかしからあるわけです。
そういう意味で、瞑想は、
「自らの真なる欲求を知り(真我)、かつ、現実世界においても問題解決ができる」
という、本当の意味での実学の側面があるんです。
まあ結局、真我と偽我の切り口から考えても、やはり「絶対軸」のほうへ結論が行きそうですが、
やっぱり、「自分軸」というかっこいい(?)言葉のひびきに惑わされず、
そもそも、「自分軸」の「自分」って何なのか?という掘り下げも必要、ということになりますね。
そうでないと、単なる「ワガママのすすめ」になってしまいます。