十界論 ー スピリチュアルな出世の段階 – ⑩天国篇 – 仏界

そして、仏界へ

仏界にいらっしゃる方々は、いわば「地球の取締役」

十界論 ー スピリチュアルな出世の段階 – ⑨天国篇 – 菩薩界」の続きです。

仏界(ぶっかい)については、私は語るには役不足なのですけれど、「おそらく、こんな感じだろう」と分かる範囲で書いていきますね。

今までのお話でも会社のたとえをよく使ってきましたが、その延長線上で言えば、仏界に住む方々というのは、いわば「地球の取締役」ということになります。

取締役の下に「事業部長」などがいて、これは通常、取締役の意思決定(会社の方針)の具体化、という仕事内容ですよね。

なので、菩薩界の上段階スピリットは、取締役(仏界)の意向を受けて、「具体的に文明をどう進めていくか?」などをいわば、事業部長的に指揮を執っていることになります。

もちろん、イメージ的に、ですね。

具体的に、仏界にはどういう方々がいらっしゃるか?ということについては、色々なスピリチュアル系サイトでも挙げられているようです。

また、神智学のほうでは、(もちろん、十界論とはターム(用語)が違いますが)、神の存在を重層的に説明し、どのような存在があるか、役割意識があるか?などの探求をしています。

ただ、私が考えるに、具体名をいちいち挙げたりすることは不遜な面もあると思いますし、

実際に仏界にいらっしゃる方か、少なくとも菩薩界上段階以上の魂でないと、「誰と誰がいるのか?」ということについては、本当のところは分かりようがないと思うんです。

「仏界に誰がいるのか?」という細々とした議論は、(自分が神々をセレクトしているかのような)趣味的かつ不遜な心境に陥る危険性がありますし、実践的観点からもあまり深入りすべきではないかな、と思っています。

とりあえずは、世界の四大聖人と呼ばれるような方々、「釈尊・孔子・キリスト・ソクラテス」といった文明の源流を作ったような方々ですね、そうした存在が住んでいる世界が仏界であろう、と。

そうした理解でよろしいかと思います。

毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)=天にまします父(エロヒーム)=アッラー

仏界にいらっしゃる存在が文明の源流になっている、ということは、別の側面から言えば、現象界(地上世界)において、さまざまな宗教・思想の対立がありますが、そうした対立は仏界の方々が望んでいることなのか?という論点があります。

この点については、ネオ仏法では、「一即多多即一(いっそくたたそくいつ)」の論理でご説明しております。

つまり、様々な偉大な霊存在がいらっしゃるということ、これはいわば「多神教」ですね。

それから、「アッラー以外に神はなし」といった「一神教」(セム的一神教)という、大きくはこの2つの流れがあります。

「神はひとつなのか?複数いらっしゃるのか?」という問いですね。

あるいは、神はひとつだとしても、宗教によって、「うちの宗派が説いている神こそが本当の唯一神」といったふうに、ここでもまた争いの原因となっております。

ここのところを、思想的・実践論的に解決していくことがむしろ大事なポイントです。

これについては、いくつかの記事で論じてきました。
*たとえば、「天上天下唯我独尊」が宗教間の対立・紛争を解決する鍵になる

要は、

「唯一神と呼ばれるエネルギー存在はあるが、地域性や時代性に応じて、様々な、偉大な霊存在として地上に顕現していく」という思想です。

こうした「神は一元に帰す」といった思想はむかしから語られてきたことではありますけどね。

私たちにとって難しいのは、「唯一神がさまざまに顕現する」とか「エネルギー分化していく」、と言われると、どうしても、二次元平面的に想像してしまうところにあります。

つまり、「エネルギー分化」というと、図象的には(頭の中でイラストしてみれば分かりますが)、「元のエネルギーの外側に、分化したエネルギーがある」という図になってしまいますよね。

そうすると、「元はひとつであっても、分かれたあとは別々なんだろう」ということで、やはりこのイメージでは紛争の根本解決にならないんです。

「一即多多即一」というのは、そうではなくて、「唯一神の内部に多神がある」という思想です、かんたんに言えば。

なので、密教の曼荼羅(マンダラ)のように、大日如来の四方に諸如来が配置されている、というのもまだ誤解を生みやすいイメージではあります。

大日如来は、毘盧遮那仏を密教的に解釈した存在です。

たとえば、人間の身体が「唯一神」だと想像してみましょう。この身体ひとつが「大日如来(毘盧遮那仏・びるしゃなぶつ)」です。

そして、身体のなかで、最も重要な器官である「脳」とか「心臓」がいわば、イエス・キリストや(歴史上の)釈尊、孔子、ソクラテスに相当する、というイメージです。

さらに、動脈部分が「菩薩界人」であり…というふうにだんだん細かくなり、最後に、私たちひとりひとりが細胞である、というイメージです。

イラストが得意な方がいらっしゃいましたら、描いていただければありがたいです(笑)。

もちろん、今回のお話は「仏界」についてですので、「多神」と言っても、仏界に存在するところの、より高度なスピリットということになりますけどね。

そして、地球のトップ。代表取締役ですね、

地球的な磁場においての唯一神も、顕現した先の地域性・時代性に応じて様々な名称で呼ばれている、ということです。

少し分かりにくいかもしれませんが、結論を先取りすると、とりあえずは以下のように把握します。

ネオ仏法的な解釈では、

  • 仏教:毘盧遮那仏(=久遠実成の仏陀/大日如来)
  • キリスト教:天にまします父(ヤハウエ)
  • イスラーム:慈悲あまねきアッラー

は同一存在であるということです。

こう考えることで、世界の三大世界宗教は争う必要がなくなる方向へ行きます。

さきほどから、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)と言っていますが、これは奈良の大仏でもあり、大乗仏教では宇宙の真理そのもの、という存在です。

歴史的釈尊の法身(ほっしん)、つまり本質部分。大宇宙の理法そのもの、ですね。この存在が「地球の代表取締役」である、とネオ仏法では理解しています。

盧遮那仏(東大寺大仏)

毘盧遮那仏は、サンスクリット語では、「ヴァイローチャナ」ですが、実は、このヴァイローチャナは遠く、イランのゾロアスター教のアフラ・マズダー(最高神)に起源があるという説もあります。
『アスラからビルシャナ仏へ』(宮坂宥勝}PDFファイル

そして、このアフラ・マズダーは、ユダヤ教のヤハウエの唯一神化に大きな影響を与えたのではないか?という説もあります。*ユダヤ民族の神は最初から唯一神ではなく、歴史的にだんだんと形成されていった

この説は、『ユダヤ教の誕生――「一神教」成立の謎』(荒井 章三)で紹介されているのを読みました。

ということは、毘盧遮那仏=ヤハウエという等式も学問的にも整合性がとれる可能性があるということですね。

そして、イスラームの唯一神アッラーは、「アブラハムの神」そのものですから、以上を総合すると、

 毘盧遮那仏=ヤハウエ=アッラー

ということになります。

もっとも、ユダヤ教- キリスト教の流れにある「ヤハウエ」については、民族神と普遍神の混同があると私は考えています。

ひらたく言えば、ユダヤ教的なヤハウエ=妬む神(民族神)とイエスが信じた愛の神(普遍神)は別存在であろうと推測しています。

ユダヤ民族という一民族だけを選民し、「カナンの先住民は滅ぼして良い」という神はやはり民族神でしょう。

この「民族神と普遍神の混同」が近世以降、キリスト教国の植民地支配・帝国主義の正当化につながっていると思います。

植民地どころか、インカ帝国を始め、「まるごと滅ぼされた文明」がいつくかありますよね。

こうした植民地支配・帝国主義の背景にある思想は、「異民族は殲滅しても構わない」という民族神的な発想から来ていると思います。

なので、ネオ仏法では、「キリスト教はユダヤ教との接続を解除したほうが良い」という主張をしています。
*もっとも、旧約聖書に流れている預言者たちの思想がすべて民族神由来だとは思っておりません。

そういう意味では、現在、ユダヤ教の「モーセ五書」成立史には、J資料(ヤハウエ資料)、E資料(エロヒーム)、他2つがあるとされておりまして。

2番めの、「エロヒーム」というのが、この神様はもともと、固有名詞ではなく、文字通り、大文字のGODという意味で使われていたらしいので、

ヤハウエよりもエロヒームという呼称の方が、ネオ仏法的には正統キリスト教の天の父にふさわしい、と言えるかもしれません。

そうすると、

 毘盧遮那仏=エロヒーム=アッラー

という等式になります。

仏界における存在形態

私たちの本質は、「手があって足があって…」という肉体的なものではなく、「アイデンティティのあるエネルギー存在である」というふうにご説明しております。

ここで、「エネルギーとはそもそも何であるか」ということを考えてみます。
*物理学的に、ではないですが。

たとえば、菩薩界の条件である「利他(社会性をもった利他)」を考えてみましょう。

利他というのは、まずは順序として、「私という存在があり、その私が他者へ慈悲の実践をする」ということになりますよね。

前提として、「私という本体があって、利他という作用がある」という理解の仕方をしています。

  • 本体:私
  • 作用:利他

という図式ですね。

ところが、エネルギーというものはその本質において、絶えず作用を及ぼすものであるはずです。

ということは、

「エネルギー存在としての私」と「利他という仕事」という2つは本来的に区別されるものなのだろうか?

ということに思い至ります。

たとえば、私たち凡人であっても、(地上の)仕事に夢中になっていたり、あるいはゲームでも良いんですけどね。

そうしたときは、「私」が「仕事を(ゲームを)している」という二分化した意識ではなく、文字通り、没入していると言いますか、一体化している感覚を味わうときがありますよね。

これはなんとなく体感的にお分かりかと思います。

ただ、物体的な認識では、「私」という確固たる存在があり、それが「時々、仕事をしている」というふうになります。

この認識の仕方は、実在界に還ってから。天界上段階でも、あるいは菩薩界下段階でもそういう認識の仕方をしていると思います。

ところが、先に述べたように、

「エネルギーというものは、そもそも作用そのものではないか?作用しなければエネルギーであるとは言えないのでは?」という認識においては、「私と仕事」が一体化していくことになります。

  • 本体:私
  • 作用:仕事(利他)

ではなくって、

「本体即作用 作用即本体」の悟りです。

哲学的に表現すれば、こういうふうになるのですが、

実態論としてはどうかというと、

菩薩界上段階〜仏界 の世界では、人(スピリット)はエネルギー作用そのものとして存在している、ということです。

そして、そのような存在形態だからこそ、エネルギー分化も可能である、と。

たとえば、千手観音という仏像がありますね。

千手観音の姿は、本体はひとつでありながら同時に千の作用をしている、という「本体即作用 作用即本体」を象徴しているのだと思います。

法性寺 千手観音像

ここでも平たく申し上げますと、

たとえば、イエス・キリストがひとつしか身体(霊体)がないのであれば、世界中のキリスト教徒20億人が祈っても、たった一人のところにしか行けない、ということになってしまいます。

そうではなくて、イエス・キリストのエネルギーは”作用として”いくらでも分化して、祈る人の傍に赴くことができる、ということです。

したがって、

心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神をみるであろう
(マタイ伝5章)

というのは、文学的・詩的なたとえではなくて、エネルギー論として真実である、ということです。

しかし、このように考えてみると、気軽に「仏陀になりたい」「メシアになりたい」とはなかなか思うことは難しいということが分かってきますね。

だって、

「一瞬一秒休むことなく、作用として存在し続ける」ということが想像できますか?あるいは、そうなりたいですか?

やっぱ、「土日は休みたい」とか、「仕事で疲れたので、ちょっとテレビでも」とか。

地上でもそうですが、実在界に還っても、やはりこのくらいが人間心でありますよね。

ただやはり、菩薩界に近づいていくと、「利他は正しいことだからそうするんだ」という気持ちではなく。「利他が幸せなので、欲求に従っているとどうしても利他になってしまう」という気持ちですね。

これは、

心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず
「論語」

という孔子70歳の心境そのものです。

自分の欲求はイコール、矩=法そのものになっている、という心境です。

そうすると、菩薩界をずっと上がってくるにつれて、利他(=作用)が自然な状態になっていくのだと思います。

そうして、仏界では、作用そのものになってしまう。絶えず活動している利他エネルギーそのもので、もはや、人間ではない、ということです。

ただやはり、この境地に至るためには気の遠くなるほどの魂修行が必要だろうとは思います。

そういうわけで、

焦らず、仏陀への道を、風景を楽しみながら歩んでいきましょう、ということが結論ですかね(笑)。

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