餓鬼界とは
「十界論 ー スピリチュアルな出世の段階 – ②地獄篇 – 修羅界」の続きです。
「餓鬼」というと、お腹がぽっこりと出ている姿を思い浮かべる人が多いかもしれません。
たしかに、物理的に食料が足りず、いつも、「お腹すいたすいた…」となっている餓鬼霊もいるのは事実です。
現代日本では、飢え死にするということは少ないかと思いますが、全世界で見ると、まだまだ食糧事情がわるいところが多く、
そういう地域では、「ご飯が食べたいのに食べれなかった」という執着のまま亡くなり、餓鬼地獄に陥るパターンはまだまだあると言えます。
ただ、広い意味での(?)餓鬼地獄というと、とにかく「欲しい欲しい!!与えられていない!」という気持ちが心の癖になってしまった人ですね、こういう人が赴く世界ということになります。
これは経済的に貧しい、ということがきっかけであるとはまったく限らなくてですね、大富豪であっても餓鬼地獄に赴くことはあります。
「欲しい」には、無限のバリエーションがありますからね。
「欲求の段階説」では心理学者のマズローのモデルが有名で、当サイトでもご紹介したことがあります。
*「マズローの欲求段階説〈自己超越〉に基づいてスピリチュアル業界を分析する」
先進国に住んでいる人であれば、たいがいは「生理的欲求」「安全の欲求」は満たされていますので、注意すべきは、「社会的的欲求」以上のところ、とくに「承認欲求」です。
ある程度、「認められたい」というのは誰しもありますし、それが魂の向上のきっかけにもなっていますので、全否定はできませんが、やはり、正当な範囲を超えて執着になると危険領域に入ってきます。
SNSなどでも、リア充自慢がありますが、他人と比べたうえで、「私のほうがこれだけ満たされている」のを見てほしい、認めてほしいという欲求。
あるいは逆に、「他の人はあんなにキラキラしているのに自分は…」という惨めな気持ちですね。
こういうのも「執着の領域に入っているのでは?」としていうことで、注意するポイントになるかと思います。
あとは、「愛」に絞って言うとすると、
現代では、「愛」というと、「他者から貰うほうの愛」に重点があります。
J-POPの歌詞などでも、「私が愛されているかどうか」あるいは「男女の愛」などに偏ったものが多いですね。
が、こうした愛はやはり執着の方向へ行きがちです。
実際、仏教用語での「愛」はこちらの執着の愛のほうを指します。
キリスト教的な隣人愛に相当するのは、仏教的には「布施の精神」とか、「慈悲」ということになります。これが天国的な愛ですね。
餓鬼界からの脱却
「欲しい、欲しい」という気持ちの根底にあるものはやはり自我意識と無知です。
「私の〇〇」ということで、まずは、〇〇に執着するわけですが、
たいていの〇〇は、この世の生命を終えたら、実在世界に持っていくことはできません。
お金も車も家も肩書もすべて「この世限定」で、実在界に持ち越していくことはできない無常なものです。
ところが、実在界(あの世)を信じていないと、それがなかなか手放すことが難しくなってしまいます。
したがって、やはりベースにあるのは、実在界に関する見識の不足にあると言えるわけです。
また、「私の〇〇」といったときの、「私」についても、本当に確固たるものであるのかどうか?
「私」というのも、どんどん変化していきますし(無常)、外界のさまざまな条件に支えられて、かろうじて「今・ここ」にある存在です、実体ではありません(無我)。
そのように考えると、真理の目からは何一つ執着する対象はあり得ない、ということになります。
釈尊が繰り返し、
無常なるものは苦であり、苦なるものは無我である
と説かれたのは、やはりこの「無常・無我」が根本的な智慧であり、またその智慧に基づいて苦しみから脱却しましょう、ということなんですね。
参考記事:「無常なるものは苦であり、苦なるものは無我である」
ちなみに、大乗仏教で言う、「空(くう)」の思想は、いろいろとむずかしく言うことも可能ですが、
無常+無我=空
という理解でよろしいかと思います。
あえていえば、無常と無我はこの世(現象界)の観点からも説明できますが、「空」はもう少し霊的なエネルギーの循環論という視点が入っています(ネオ仏法の理解では、です)。
「ちょっと今、執着になっているかな?」と思う時は、一呼吸おいて、
「これはやがて過ぎ去っていくものではないか(=無常)、永遠不滅の実体などではないではないか(無我)」
「一切は、みな空(くう)なるものである。執着に値しない」
と考えてみるといいですね。
また、こうした無常観・無我観の実践こそが地上における強力な修行になり、自らの霊格を引き上げる契機になっていきます。
続き↓↓
「十界論 ー スピリチュアルな出世の段階 – ③地獄篇 – 畜生界」