Contents
菩薩と声聞の違いを知る
「十界論 ー スピリチュアルな出世の段階 – ⑦天国篇 – 天界」の続きです。
前回までのお話し、すなわち、十界(じっかい)のうち、下から「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」の6つは、六道(ろくどう)と言いまして、初期仏教からあった思想です。
この6つの世界をぐるぐると輪廻しているので、「六道輪廻(ろくどうりんね)」と呼ばれているのですね。
そして、釈尊の仏教では、あるいは、小乗仏教(テーラワーダ仏教/上座部仏教)では、「悟りを得ることによって輪廻を打ち止めにすることが修行の目的である」、と言われています。
「言われています」という書き方をしたのは、つまり、「ネオ仏法ではそうは考えない」ということなのですが、これはそもそも、釈尊の真意がキチンと伝わっていないと捉えているからです。
この論点については、こちらの記事「小乗仏教(テーラワーダ仏教)では悟れない理由 – ④ 涅槃の解釈に誤りがある」で詳しく書きましたので、興味のある方はご参照ください。
短くまとめておきますと、
釈尊は輪廻そのものを否定的に捉えていたわけではなく、「迷いの輪廻」を智慧のちからで打ち破り、主体的な輪廻へ移行することを説いていた。
真理(実在)の視点から地上世界や輪廻(現象)の意味を汲み取り、それを最大限に活かしていくことが悟りであり、涅槃であるのだ。
という主張です。
さて、
十界論のなかの、声聞・縁覚・菩薩・仏の4つの世界については、大乗仏教で付け加えられたものです。
小乗仏教のなかで、悟りを得る、すなわち阿羅漢(アラカン)になるということが、どこかしら利他行を放棄したような独善的な流れが出てきましたので、アンチテーゼとして大乗運動が起きてきたのですね。
その際に、仏陀の悟りを目指しつつ、利他行に励む存在として「菩薩」という思想がクローズアップされてきたわけです。
当サイトでもよく言っている「自利利他」(自利利他円満)という思想です。
そうして、自らの悟りのみを求めている小乗仏教の人たちを、菩薩より低い「声聞(しょうもん)」として位置づけたのでした。
声聞界とは?
そういうわけで、「声聞」という言葉はオリジナルに還ってみると、小乗仏教の人たちを揶揄(やゆ)するようなニュアンスがあったのですけどね。
「君たちは、仏陀の教学を学んでいるだけ=声を聞いているだけ=声聞、ではないか!」というわけです。
実際に、初期の大乗仏典を読むと、過剰なまでに声聞を貶めている内容が散見されます。
しかし、ネオ仏法では「声聞は必要な段階」という捉え方をしています。
菩薩の思想がちょっと危険なところは、「性急に利他行に走るきらいがある」というところで。
智慧×慈悲=霊格(仕事量)の公式に照らし合わせれば、
「利他行(=慈悲)といっても、伝えるべき智慧がなければどうしようもないんですよ」という論点があるわけです。
それどころか、マイナスの智慧を伝えてしまったら、利他行をやればやるほど害毒を撒き散らしていく結果になってしまいます。
このパターンは意外に多いのです。
また、そもそも自分さえ救えていないのに、どうして他人を救うことができるのか?という論点もありますね。
なので、
まず、知識ベースでしっかりと仏法を学ぶことが大事で、
そのためには、とりあえずは心静かに真理に一人向き合う時期は大切であると思いますし、また必要な段階でもあると思います。
ベストセラーの『7つの習慣』でも、「私的成功」→「公的成功」の順序になっていますが、やはり、物事には順序があるということです。
とはいっても、
利他行に行かないことを「自分は自利がまだできていないから、不十分だから」「まだ声聞なので」という言い訳に使うことは要注意です。
これもけっこうやってしまうんですよね…。
他者に関心が向かないことの言い訳で「声聞」を使ってしまうのはままあることで、これは私自身も反省することがしょっちゅうあるところです。
王道としては、「声聞界に楔(くさび)を打ち込んで、菩薩界を目指す」という順序かな、と思います。
というのも、菩薩と言えども、実際はいろいろな段階と個性がありまして、菩薩界下段界あたりでは、オリジナルの思想を説く、というのは無理というか難しいと思います。
釈尊の弟子にしても、イエスの弟子たちにしても、やはり開祖の教えを伝えたというところに仕事の力点があるわけで、まったくオリジナルの思想を発表したわけではありません。
後世の弟子たちも、「開祖の教えをベースにして、整理整頓(学問化)したり、あるいは時代に合った教え方(変化系)を作っていった」ということですね。
もっとも、今回ご説明している十界論をもとに教義を組み立てていった天台智顗(てんだいちぎ)など、「中興の祖」レベルになると、けっこう思想的に飛躍が必要で、難易度が高いと言えると思います。
こういう人たちは、菩薩界でも中・上段階以上の方でしょうね。
なので、霊格向上の原理として取り組みやすい(勝ちやすい)のは、
- 声聞界をターゲットに、真理を求める心の習慣をつけ、真理の知識を吸収しつつ、
- そこを足がかりにして、利他行に励み、菩薩界を目指す
という順序です。
そして、利他に行かない言い訳に注意、ということは上述しましたが、
コツとしては、自利と利他を相互作用的に回していくということです。
「学びつつ、伝える」「伝えたら何かしらリアクションがあるので、それを振り返りながらまた学ぶ」といったふうに、です。
一種のPDCAサイクルですね。
声聞界は、前回の記事で書いた天界上段界の、「善人+優秀性」に、「真理を積極的に求める心の習慣」を加えた境地です。
声聞界=善人+優秀性+真理を求める心の習慣
というふうにまとめることができるかと思います。
あるいは、
「優秀性の真理含有率を底上げしている段階」と言っても良いでしょう。
現代の先進国、とりわけ日本にわざわざ生まれてくるような魂は、わりあいに天界出身(少なくとも出自としては)の方は数多くいらっしゃいます。
なので、上記の式で言えば、
「真理を求める心の習慣」をつけて、心の平均打率まで持っていければ、還る世界は声聞界ということになりますので、誰もが目指せる世界でありますし、目指さないともったいない世界であるとも言えます。
これに、利他行の実践を加えれば、広義の菩薩界に入っていくことになりますからね。
*狭義の菩薩界、広義の菩薩界については、こちらの記事で触れています。
「菩薩になるための読書術 – ①自利利他読書のススメ」
さて、
真理を求める心の習慣、ということで言えば、やはり生活リズムのなかに取り入れていくことが大事です。
なので、毎日の生活の中で、祈りや瞑想、経典読誦の時間を確保するのはやはり大事です。そのために、作りたてですが、「祈り/瞑想/読誦」メニューも用意しておきました。
ここに紹介しておいた3つだけでも、時間にしたら10分かかるか?という程度ですよね。
しかし、そのたった10分が「習慣化」に大きく寄与してきますので、まあココに紹介したものでなくても良いのですが、なにかしら、そうした「実在界との接触」の時間を設けるのがベストだと思います。
「真理を求める心」というのは、別の表現で言えば、「知への愛」です。
哲学は英語で「フィロソフィア」と言いますが、
- フィロ:愛する
- ソフィア:知
という意味です。
なので、「哲学」というと語感的に難しくなってしまいますが、ソクラテスが説いていたのは、シンプルに「知を愛すること」ということで、これは、「声聞を目指しましょう」ということとほぼ同じことなんです。
縁覚界とは?
縁覚(えんがく)というのは、独覚(どっかく)とも言いまして、いわば「一人悟りの世界」です。
声聞のように、特定の教義を勉強するなどしないで、自分ひとりだけの力で悟りを開こう、みたいな世界です。
もともとは、仏陀・釈尊以外にも、真理を体得した人はいるだろう、ということで、仏教系以外の仏陀(?)を縁覚と定義していたようですが、十界論では当然、仏界という扱いにはなっていません。
「声聞界→菩薩界が王道で、勝ちやすいルート」と上述しましたが、「誰かについて学ぶのは嫌だ、自分の人生経験と思索だけで認識力を向上させていきたい」という人もいらっしゃいますよね。
実際に、思想・宗教系統でなくとも、職業経験から独自の悟り(認識力の獲得)を得る方も多く、
たとえば、松下幸之助さんなどは、事業家でありながら、PHP(Peace and Happiness through Prosperity)、つまり、「繁栄を通じた幸福と平和」という思想を展開していきましたね。
もっとも、松下幸之助さんは縁覚界というよりも、もっと偉い方だと思いますけど、ルートとしては縁覚的であるかもしれません。
過去世なども含めて考えると、「声聞的な世界も経験したけれども、今回の人生ではオリジナルの道を歩みたい」というルートを選ぶ場合もあり、なんとも言えないところはあります。
ただやはり、難易度としては、「輪廻のなかで、声聞的な経験を一切積まないで、イチからオリジナルを」というのは、難しいだろう、と思いますけどね。
なので、ネオ仏法的にお勧めとしては、声聞界→菩薩界のルート、ということになります。
コメントを残す