悟りというものを、今回は、「心」というただ一点に焦点を当てて語ってみたいと思います。
よく、「あなたが思っていることが、すなわち、あなた自身である」と言われますが、それがどれだけ腑に落ちているか?が勝負どころだと思うんですね。
まず、ふつうの人は、ふだんはそれほど自分の心というものを意識しないで生活しています。
「今日は、上司から嫌味を言われて、ちくしょーっ!って思っちゃったな」とか。
ときおり考えるにしても、「感情の一部」として捉えていると思うんですよ。
ところが、瞑想などスピリチュアル修行をしていると、「自分の心」というものを深く観察するようになります。
これがまず第一歩ですね。この第一歩を踏み出せただけでも偉大なことだと思います。
やっぱりこれだけのことであっても、相当難しいんです。
無料Eブックのなかで、八正道の初歩を紹介していますが、
そこでも、「いきなり「正思」はむずかしいので、「正語(しょうご)」「正業(しょうごう)」から点検してみましょう!」と書いていたかと思います。
正語は言葉に関する内省で、正業は行いに関する内省です。
言葉や行動は外面に出てくるものですからね、これは比較的、点検しやすいですよね。
でも、ある言葉と行動が出る前には、ある”思い”があったはずで、そこの部分が「正思」の内省になるわけです。
この「正思」の内省こそが、「自らの心」の点検になっています。
今までは、感覚とか感情と一体化していた心を、ここではじめて、対象化して考え始めることになります。
これが実は、「霊格」を高めるための第一歩になります。
「霊格とは何か?」という問に対しては、いろいろな答え方がありますが、
今回のトピックに即して答えるのであれば、
「霊格とは、心をどれだけ実体のあるものとして捉えることができているか?その実感度合い」ということだと思うんですね。
上記の八正道の「正思」で言えば、自らの心を客観視して観察しているわけですから、
「わたしの心は…」という捉え方をしていることになります。
ところが、さらに認識が進むと、
「わたしの心」の「わたしの」という所有格がだんだん抜け落ちてくるんですよ。
すなわち、「心」だけの認識になっていくんですね。
それはなぜかというと、冒頭の、「あなたが思っていることが、すなわち、あなた自身である」ということにつながってくるのですが、
わたし=心 という等式であるならば、「わたしの心」という言い方は理論としても実感としても正確じゃないな、と思えてくるからなんです。
この段階に来ると、実際に、この現実世界に生きていても、かなりの程度、「苦しみ」から離れていることが可能になってきます。
というのも、
わたし=心 という等式であるならば、「わたしの価値」は心の内容のみによって決まることになるので、
「他者からどう思われているか?」「他者からどう評価されているか?」「他者からどう扱われているか?」「他者からどれだけ愛を受け取っているか?」といったことはまるで問題にならなくなるからです。
逆に言えば、ここのところがチェックポイントになりますね。
他人の言動に心が揺れていたり、「わたしはこれだけしてあげているのに、これしか評価されない(愛されていない)」という思いが出てくるということは、
いまだ自分の価値を外部に委ねていることになるからです。
わたし=心 という等式であれば、「わたしの価値」は「心の内容」のみによって決まることになりますので、原理的には、他者からの扱いによって、感情がブレることはなくなるはずなんです。
なくなっていないとすれば、やはり、まだ、心を実体あるものとして実感しきれていない、腑に落ちていない、ということになります。
さて、
でもまだ次の段階があります。
それは、「心の次元においては、自らは偉大な大霊(仏でも神でもいいですが)の一部である」という認識へと進んでいきます。
そしてさらに、「他者の心とも、偉大な大霊の一部であるという意味において、本来、一体のものである」という認識へと進んでいくことになります。
これが、仏教的に言う、「無我の境地」です。
「無我」というと、「無くなってしまう」とか「群魂(ぐんこん)のなかに溶け込んでいく」という解釈をしている人もいますが、そうではなくて
「心Aも心Bも心Cも、あくまで、個性は個性として存続していながら、より上位のエネルギー次元から見れば、エネルギーの構成要素のひとつひとつとして、つながっている」「ゆえに、本来、一体のものである」
という認識であるということです。
キリスト教などで、「ブラザー」と呼びあうのは、ここに起源があると思います。
ただ、本当の意味で、「ブラザーである」「シスターである」と実感できる人はとても少ない、ということなんですね。
そういうわけで、
心というものをどれだけ実体のあるものとして捉えることができるか?それがすなわち、悟りでもあり、霊格が上がっているということでもある、というお話をしてみました。
これはね、例の十界論(じっかいろん)で言うと、
自らの心を客観視して観察できる段階が「声聞(しょうもん)」「縁覚(えんがく)」の段階に相当するということになるかと思います。
*参考記事:「天台智顗(てんだいちぎ)の十界 ー スピリチュアルな出世の段階一覧」
声聞を含めた4段階を「四聖(ししょう)」と言いますが、つまり、ここから上が聖なる段階ということですね。
*十界を挙げておきますね
- 仏(ほとけ)
- 菩薩(ぼさつ)
- 縁覚(えんがく)
- 声聞(しょうもん)
- 天(てん)
- 人(にん)
- 修羅(しゅら)
- 畜生(ちくしょう)
- 餓鬼(がき)
- 地獄(じごく)
無我を腑におとしていくと、
「仏の生命を個性ある表現で、各々が担っているのだ」「ゆえに、本来は、自他一体である」という悟りが、菩薩の霊格へつながっているということになります。
菩薩の悟り、知性のことを「平等性智(びょうどうしょうち)」ということもある、とどこかに書きましたが、
それは、「自他一体」の悟りを腑に落としているから、「平等観」が強くなっていくということなんです。
たとえていえば、
お風呂の湯船に浸かっているときに、手の指だけ、湯船から出してみましょう。
そうすると、湯船の上からは、人差し指・中指・小指…などが、別べつの存在に見えますが、
湯船の中では、「それぞれの指は、別個に見えているけれども、手の一部であるという意味において一体である」という認識へ至る、ということです。
また、これこそが、「無我」を真に理解するためのキィポイントになります。
このように、順序としては、
- 心を客観視して見つめられるようになる段階 →声聞
- 自分=心、という認識へ至る段階
- 無我の修行を通じて、自他一体の認識へ至る段階 →菩薩
ということになっていまして、やはり、「心というものを、どれだけ実体あるものとして捉えることができるか?」がイコール、霊格の高まりとなっていることがお分かりかと思います。
ぜひ、ともに菩薩を目指してまいりましょう!