Contents
四諦(したい)とは
初期仏教から説かれている四諦、そして八正道について語ってきました。
参考記事:
「四諦、四聖諦(苦・集・滅・道)をスピリチュアル的に解釈してみた」
「八正道のアウトラインと構造、効能」
ただ、厳密に言うと、初期仏典には八正道というのは、まとまった形では見当たらないんですね。
正語や正見、正思、などがあちこちに散見されますが、おそらくは釈尊在世当時であってもだいぶ後になってからか、もしくは釈尊没後に学僧が論理的な形でまとめあげたのであろうと推測されます。
とはいっても、「八正道のアウトラインと構造、効能」でご説明したように、八正道の各八つの項目はじつに論理的な構造になっておりまして、二千数百年前にこれだけの哲学思想があったということは驚くべきことですし、現代においても八正道以上にまとまった形の内省法を私は寡聞にして知りませんのです。
今回は、そもそも四諦八正道を実践する意義を復習も兼ねて、さらに深掘りしていきたいと思います。
まず、四諦(四聖諦)の苦集滅道(くしゅうめつどう)についてです。
-
苦(く)
四苦八苦からは逃れることができないでしょう?
-
集(しゅう)
苦しみの原因は、肉体我(にくたいわれ)の観点から人生を眺めていることにあるんです。
-
滅(めつ)
そうであるならば、霊的我(れいてきわれ)で人生の諸相を眺めていけば、生きながらにして、平安な境地(涅槃の境地)に入ることができるのではありませんか?
-
道(どう)
そのために八正道があるんです。八正道で人生を振り返り、点検してみましょう。
ということでしたね。
この苦集滅道もじつに論理的でしょう?
苦【結果】→集【原因】→滅【結果】→道【原因】という順序になっています。
八正道の意義
さて、次に八正道の内省の意義です。論理構造を、振り返ってみましょう。( )の説明をつなげて読んでみてください。じつに論理的な構造になっています。
- 正見(正しい見解が持てるから)
- 正思(正しい思考ができる)
- 正語(ゆえに正しい言葉と)
- 正業(正しい行為をなすことができるので)
- 正命(身口意の調和のとれた生活を送ることができる)
- 正精進(そうした生活を元に正しい努力を重ねるので)
- 正念(正しい自己実現を念じることができ、)
- 正定(結果、正しい精神統一を完成し、智慧を得ることができるのである)
そして、
正思〜正念までは、正見の具体的展開である。正定は瞑想によって正見を深めていく作業である、ということでしたね。
ということは、八正道の実践というのは、結局は、「正見を得る」=正しい見解・認識を得る、というところに最大のポイントがあるということになります。
ゆえに、
八正道の実践で得られるもの – ①認識力の高まり
八正道の実践によって得られる第一点目は認識力の高まりです。
方法としては、比較的点検しやすい項目である、正語・正業・正命などから逆算していって、正見のところの点検に入ると実践しやすいです。
つまり、
「それでは、どうしてこのような言葉、行為、生活・仕事になってしまったのか。その元になっている価値観は何であるのか。
そして、その価値観は自分の人生のどういった切欠(きっかけ)で身につけたものであるか。
それは果たして正当な価値観、普遍的な価値観であると言えるのだろうか?」と熟考していくうちに、本当の意味での洞察力、スピリチュアル的論理に基づいた思考力が身についてくることになります。
この洞察力の高まりのことを、古い言葉で悟りと呼んでいるわけです。
八正道の実践で得られるもの – ②心のクリーニング
八正道の実践によって得られる第二点目は心のクリーニングです。
私たちはふだん表面意識を使って生きていますが、生まれてからこの方身につけた正当でない価値観・先入観・偏見、それから悪想念(六大煩悩)ですね、
これらによって、潜在意識への通路が閉ざされている状態になっているんです。
八正道の点検によって、こうした潜在意識との交流を阻害しているものを取り除いていくことができるんです。
そして、過去に犯した過ちであっても内省によって修正が可能であることも述べました。
参考記事:「「反省すると罪が清められる」ということを哲学的に証明するー持続する現在意識」
修正が可能であるにも関わらず、修正しないということは、この世で言えば、「風呂に入らいない」と同じようなことなんですよ。
私たちは、この地上、現象界で肉体をまとって生きております。
肉体を持つことによって、あの世(実在界)では会うことのできないような波動を持った人と会うことができるからです。
それが、わざわざこの世に生まれてくる意味でしたね。
つまり、肉体とは魂(スピリット)がまとっている洋服のようなものです。あるいは、潜水服とか宇宙服とか言っても良いですけど。
毎日のように洋服は洗濯しているのに、身体は洗わないっていうのは可笑しいでしょう?あるいは、しょっちゅう愛車は洗車しているのに、自分は風呂には入らないようなものなんです。
八正道の点検によって、悪想念・先入観・偏見…をクリーニングすることで、潜在意識と交流が可能になります。
それが直接、霊的な形で出るか、インスピレーションの受けやすさという形になるかは個人差はありますけどね。
幸いなるかな心の清き者、その人は神を見ん(マタイ伝第五章)
のほんとうの意味はそういうことなんです。
*そうしたキリスト教的文脈で言えば、聖アウグスティヌスの『告白』は、過去を悔い改め、神の恩寵に目覚めた履歴の手本となる著作です。
まとめ
そういうわけで、四諦八正道を実践する本当の意味として、
- 認識力(悟り)の高まりがある
- こころのクリーニングをすることにより、潜在意識と交流が可能になる
の2点を挙げてみました。
コメントを残す