「願えば叶う」のがいちがいに良いとは言えない理由
スピリチュアリストのなかには、「願えばすべて叶う、念えばすべて叶う」と主張しているかたもいらっしゃいます。
あるいは、「宇宙銀行にオーダーすれば」とか、いろいろな物言いがありますね。
「求めよ、さらば与えられん」の黄金律には沿っていますので、間違っているわけではないんです。
だけれども、残念ながらというか、本当はかならずしも「願えばすべて叶う」わけではなく、また、必ずしも「叶えばハッピー!」というわけではないと思うんですね。
理由を先に言っておきますと、以下の3点です。
- この世では、念う→叶う、に時間差がある
- 「なかなか叶わない」というなかに、実は智慧や愛の磨きがある
- そもそも、叶わない方が良い、というケースがある
といったところです。
1,この世では、念う→叶う、に時間差がある
この世はあの世と違って、さまざまな人々の思惑が絡んできますし、肉体をもっているというハンデ(願いがあっても、とりあえずゴハン食べなきゃいけない)もあって、ストレートには叶わないんですね。
じゃあ、あの世ではすぐ叶うのか?ということですが。
スピリチュアル説法的には、「念えばそのまま実現するのがあの世です」ということを言うときもありますが、実際はそれほどストレートではないんです、あの世でも。
つまり、念の強さや種類(得意分野・不得意分野)によって、叶うのが遅くなったり、別のカタチになったりもします。
たとえば、「こういうデザインの洋服を着よう!」と思えば、だいたいそれに近いものはすぐに出てくるんですが。
やはり、コーディネイトの専門家やスタイリストなどに比べると、スピードや出来具合が見劣りするのは事実です。
龍の模様の服のつもりが、ヘビになっちゃったとかね。笑
まあ、話は逸れましたが、あの世でもそんな感じなので、この世ではなかなかストレートにはいきませんね。
「いやいやすべて叶ってます!」って言われたらどうしましょうかね…。
「ちょっと客観視したほうがいいですよ、ぼそっ」って感じでしょうか。笑
2.「なかなか叶わない」というなかに、実は智慧や愛の磨きがある
ただ、逆に、「なかなか叶わない」というところに、「時間に耐えられますか?」「願いは本物でしょうか?」という試しもあるんですね。
やはり、時間がかかったり、邪魔が入ったりすると出鼻をくじかれるというか、なかなか初期のモチベーションを維持するのは難しいです。
なので、そこが「願いが本物かどうか」という、自分自身に対する試金石になっているわけです。
むしろ、時間がかかるなかで色々と試行錯誤するなかに智慧が磨かれていくという面がありまして、実際は、願いが叶うことそのものよりも、そっち(=智慧をゲットする)のほうが本当の意味での資産になっていくんです。
これは私の記事をずっと読んでいるあなたであればお分かりですよね。
ビジネスで成功!って言っても、お金も地位も名誉もあの世に持っていくことはできないんです。
地位と名誉は多少、持っていくことはできますが、実は持っていってマイナス!ということもあります。
「わしゃ◯◯会社の社長じゃ!」と下手に「持っていって」しまって、違う世界へ還ってしまうこともありますんでね。
また、挫折したらしたでそれも無駄ではないんですね。
年末のメールレターで、「スピリチュアル的人生観を持てば、そもそも敗北がなくなる」と書きましたが、
人を愛するということは、別の側面で言うと、「共感できる」「理解できる」ということでもありますので、「成功ばかりの人生であった」、なんて人がはたして他の人に優しいまなざしを向けられるのか?という点も考えたほうが良いんです。
3.そもそも、叶わない方が良い、というケースがある
人はやはり”今”の認識力の範囲内でしか物事を考えられませんので、今望んでいることが、より上位の価値観から見て、正当なものであるとは限りません。
その人にとって長い目でみれば「その願いは叶わないほうが魂的にベターである」と判断された場合は、やはり叶いませんし、叶わないほうが良いんです。
そしてまた、「なぜ叶わなかったのか」というところに、人を立ち止まらせて考えさせる面があるんですね、そしてそこで、前項で書いたような学びを得ることができる。
つらつらと書いてきましたが、
「願えばすぐに叶う」というのであれば、現象界(地上世界)がわざわざ創造された意図からはずれていってしまうということです。
そういった遥か上位の神々の意図を汲んでいく、マクロの観点からも理解していく、というのが、また真理スピリチュアルであるということです。