「コップの哲学」ふたたび
前回の記事では、「実在性に諸段階がある」ということを書きました。
この点について、復習を兼ねてもう少し詳しくお話してみます。以前、どこかの記事で使った「コップの哲学」をベースにとりますね。
眼の前に、何の変哲もない透明なガラスコップを思い浮かべてください。
コップそのものは、「現に目の前にあり、手にとって触れる」ものですから、「実在である」と思ってしまいます。
しかし、コップは永遠に存続するものではなく(無常)、また、コップはコップ自体では存在できません(無我)。
コップを作るためには、さまざまな素材があり、また多くの人の手を介して、「いまここに」ありますが、実際は、少し重量や空気の条件が変わっただけでも、コップは壊れていくでしょう。
ゆえに、さまざまな条件が集まって、たまたま「いまここに」現象としてコップが現れているだけである、という意味で、「無我」なのです。
時間論としての「無常」、存在論としての「無我」、この縦軸と横軸が交差した一点に、「いまここ」のコップがたまたま現象として現れている、ということです。
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ちなみに、
この「時間において無常」「存在において無我」という2つの軸を理解することによって、執着(執われ)から離れることができます。これが「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」です。
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このようにコップは実在しているかに見えて、じつに儚い存在であるわけですが、
しかし、この眼の前にあるコップが仮に壊れたとしても、「コップの設計図」があれば、また同じコップを作り出すことができます。
そういう意味では、目の前のいちいちのコップよりも、「コップの設計図」がむしろオリジナルである、ということで、「より実在性が高い」と言えますね。
しかし、
「コップの設計図」すら消えてしまったら??
それは、「こういうコップを作りたい」というアイディアがあれば、また同じ設計図を書くことができます。
そしてまた個別のコップを再生産することができます。
ゆえに、「コップのアイディア」のほうが、「コップの設計図」よりも、さらに実在性が高い、ということになります。
ちなみに、「アイディア」の語源はギリシャ語の「イデア」であり、これはそのままプラトンが使ったイデア論のイデア、ですね。
さて次に、
「コップのアイディア」すら消えてなくなってしまったら、どうする??
そもそも、誰がいつ、どういうキッカケでコップというものを発明したのでしょうか?
それは、「こういう、水分を入れる入れ物があれば便利だろうな」という、いわば、「利便性」を基礎に考えられたはずです。
ゆえに、コップのアイディアよりも、さらに上位概念(=実在性が高い)として、「利便性」を挙げることができます。
ではではでは(いつまで続くんだ・笑)、
「利便性」って、何のためにあるんでしょう??
それは、
「便利であったら、幸せだろうな」という智慧と慈悲の思いから発しているわけですよね。
したがって、「利便性」のさらに上位概念(=より実在性が高い)として、「智慧と慈悲」が置かれることになります。
「智慧と慈悲」からは、利便性以外にも、「こういう美しいものがあったら、みな幸せだろうな」という「芸術性」も発していきます。
そして、「芸術」の理念から、さまざまな、絵画とか詩や音楽などのアイディアが出てきて、だんだんと、個別の作品となっていくわけです。
この智慧と慈悲の存在、を仏教では、「久遠実成(くおんじつじょう)の仏陀」と呼んでいたり、まあ仏教の宗派でもさまざまな呼び名がありますし、
世界宗教でいうところの、「根本神」はこのような、智慧と慈悲の究極の存在である、と考えられているはずです。
したがって、宗教的に言えば、「さまざまな現象の奥の奥にある究極の実在」として、根本神、根本仏が想定されているわけですね。
コップに例を戻しますと、
現象としての個別なコップ→コップの設計図→コップのアイディア(イデア=理念)→利便性→智慧と慈悲 という流れで、今一応、究極の実在にたどり着きました。
前回の記事で、ご説明した「さざ波理論」でいうと、
池の中心に石をぽちゃん!と落として、さざ波が生じると。
そして、順に、さざ波A→さざ波B→さざ波C→さざ波D、で岸辺に着くとします。
それぞれのさざ波を、上記のコップに当てはめてみると、
- 石ぽちゃん!:智慧と慈悲
- さざ波A:利便性
- さざ波B:コップのアイディア
- さざ波C:コップの設計図
- さざ波D:ひとつひとつのコップ
ということで、ようやく岸辺に着いて、「いまここ」の個別的なるコップができあがってきます。
もちろん、利便性の下には、「コップのアイディア」だけでなく、ありとあらゆる「便利な、個別的なアイディア」が存在しますね。
なので、これはコップから始めなくても、「紙粘土」でもなんでも良いのです。
現象:実在=色:空
上記の例をもう少し突っ込んで考えてみましょう。
たしかに、「実在性には段階がある」。そして「究極の実在として、智慧と慈悲の想いが想定され、それが宗教的には久遠実成の仏陀と呼ばれている」ということは真理でしょう。
もちろん、究極の実在の名称は他の名前でも構いません。というか、名前そのものには、「区別する」という働きがありますので、本来、究極の実在に、「名付け」というものは馴染まないのです。
「区別」があるのであれば、それはイコール、「究極ではない」ということでもありますからね。
そういうわけで、老子は、「なんとも名付けようがないが、仮に「道(タオ)と呼ぶ」としているわけです。
話をまたコップに戻します。
コップそのものは、「水分を入れる入れ物があれば便利だろうな」という思いから、個々のコップのアイディアが出来上がり、さらに、個々のコップの設計図を書いた人がいて……、という順序であることは上述したとおりです。
しかしよく考えてみれば、
「こういうコップがあれば便利だろうな」という理念・アイディアだけで止まっていたら、これは実際上、何の意味もないことになります。
コップは、最終的に、現に目の前に置ける=使えるコップとして機能することによって、はじめて、「コップであること」を自己実現しているわけです。
したがって、「現象と理念」、あるいは、当サイトの言葉に戻すと、「現象と実在」は別個のものではなく、
むしろ、「現象する」ことによって「実在は実在として在ることができる」という側面からも真理は観察されうる、ということになります。
つまり、
- 現象と実在は異なるものではなく、実在は現象と異なるものではない
- 現象はそのまま実在であり、実在はそのまま現象(として顕現することによって実在で有り続けることができる)
ということです。
これ、すなわち、
- 色不異空 空不異色
- 色相是空 空即是色
という般若心経の言葉、そのままイコールとして理解することができます。
というか、まさに今回のテーマであるところの、「現象と実在」の関係を「空(くう)」という概念で語っていくのが般若心経であります。
もっとも、「空」という概念そのものは、上記の図式でいうところの「実在」という範囲を超えて、上記の図式全体、すなわち、「現象と実在が不可分に働いている様(さま)」を指すこともあります。
「空」が理解し難いのは、こうした多義性をもっているからなんですけどね。
また、一般的には、「空」というのは、「無我」とほとんど同義で使われます。
それ自体として存在できないのであるから、自ずからの性質を持たない、ゆえに「空性」である、ということから「空」の理解をしていくほうが、むしろ一般的でしょう。
なので、私が言うような、実在=空、という等式はむしろ異端的(?)であって、
空は「一切の存在が、そのもの自体では存在できず、かつ変転変化している。したがって、実体(=それ自体で永遠に存在するもの)などというものはない!」というのが一般的な、「空」理解でしょう。
しかしココのところは、仏法が本当の意味でアップデートしていくための、最重要なポイントですので、また別稿で詳述いたします。
とりあえずは、
空性(くうしょう)が真実である→第一義的な存在のあり方である→実在である
という流れで、ざっくり押さえておいて頂ければ、と思います。
しかし、いろいろな角度から、空を検証していくと、次第に、言わんとしていることが何であるか、理解が進んでくるはずです。
ついでにもうひとつ、申し上げておくと、
ヘーゲルの難解な言葉として知られている、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という物言いですね。
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」。これ、すなわち、「空即是色 色即是空」
と理解すればスッキリすると思われます。
大乗仏教の頂点は、「諸法実相」「事事無礙法界」
上記の通り、「現象即実在 実在即現象」=「色即是空 空即是色」というのは、般若経典をベースに表現した図式です。
しかしこのことは、般若経典以外でも他の言い方で語られています。
*歴史的には、般若経典が先なんですけどね
法華経では、「諸法実相(しょほうじっそう)」という言葉で語られています。
この場合の「法」とは「存在」という意味です。
「もろもろの(現象的)存在はすなわち実相の実現に他ならない」という思想です。
また、華厳経では、「事事無礙法界(じじむげほっかい)」という理解の仕方をします。
個別的な現象を「事」として、その個別的な現象の背後にある実在を「理」としてはじめは捉えていきます。
段階論としては、
- 事法界(じほっかい):われわれが経験しているところの現象
- 理法界(りほっかい):現象の背後にある実在
- 理事無碍法界(りじむげほっかい):「実在から現象へ」「現象から実在へ」、融通無碍(ゆうずうむげ)に働いている様。また、このような存在のあり方
- 事事無礙法界(じじむげほっかい):現象と実在は一体不可分に在る、という認識。むしろ、現象そのものが自在に働いている様こそが実在であるという認識
といった順序で、最後の「事事無礙法界」に至って、やはり、「現象即実在 実在即現象」の悟りに到達しています。
ポール・サイモンの曲、「サウンド・オブ・サイレンス」に、「地下鉄の言葉は賢者によって書かれている」という歌詞があったかと記憶していますが、
あらゆる現象が実在と一体不可分に働いているのであれば、当然、地下鉄の落書きも真理の表れである、という結論になりますよね。
このように、大乗仏教および大乗仏典をベースに構築された仏教哲学はかなーり深遠な真理に到達していることが分かります。
まさに、事事無礙法界の思想は、「地球文明の思想・哲学の究極の到達点である」ということができるかと思います。
なぜ、「色即是空」であるのか、なぜ「事事無礙」であるのか、なぜ「諸法実相」であるのか?
「色即是空」(般若経)、「諸法実相(法華経)」、「事事無礙法界」(華厳経)で大乗仏教の哲学は頂点を迎えた、と書きました。
*大乗仏教の哲学としては、重要な「唯識(ゆいしき)」の哲学がありますが、論のベースは共有していますので、今回は省いています。
さて、
私は今回の記事でも、「しかししかし!」とか「そもそも」という言葉を多用していますが、やはりここでも、
しかししかし!とまだ突き詰めてみたいのです。
そもそも!
そもそも、なんで、現象と実在が融通無碍に在るのか?何のために?
という問いです。より根源的な目的論です。「何のために?」という。
この問いこそが大乗仏教の哲学を超え、ハイデガーの哲学も超えていく契機になっていきます。
ちなみに、ハイデガーは「20世紀最大の哲学者」と呼ばれています。
そういう意味では、21世紀の哲学はハイデガーを超えていくことによって達成されることになりますね。
「なぜ、現象と実在は即して在るのか?」
これはいわば、エネルギーの循環でもあるんです。
実在という根本エネルギーが、さまざまに現象することによって、実在としての本質を発揮している。また、発揮できるからこそ、まさに「実在である」ことそのものが担保される。
だって、発揮できなければ、慈悲ではなくなってしまいますからね。
「色相是空 空即是色」という文脈からは、
菩薩は文字通り、菩提心をもって空性・般若の智慧を理解し、涅槃を得ることができる。これは、般若心経の本文にあるとおり、
心無罣礙(しんむけいげ)無罣礙故(むけいげこ)無有恐怖(むうくふう 遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう) 究竟涅槃(くうぎょうねはん)
ということです。
しかし、菩薩はその涅槃に安住しない。
衆生の救済のために、再び、色(=物質)の世界に戻ってくる。すべての衆生を悟りの彼岸に渡すために。
ということですね。こういう「色即是空 空即是色」の解釈の仕方もあります。
とても有り難い話ではあるのですが…。
では、なぜ、菩薩が居て、迷える衆生が居るのか?
えっちらおっちら時間をかけて衆生を彼岸に渡していくくらいなら、仏は最初から「菩薩だけ、菩薩オンリー」の世界にすればよかったじゃないか、という疑問です。
あるいは、上述した「エネルギー循環」の理論で行くならば、「何のために循環している必要があるの?」という疑問。
般若心経が言うように、「不生不滅 不増不減」=「(新たに)生じることもなく滅することもない、増えることもなく減ることもない」という、
これが究極の真理であるならば、「全体は減らない増えないのに、エネルギーだけがぐーるぐる循環しています」と。それ、何の目的があるのですか?という疑問、問題提起です。
ここの「なぜ?」という問題提起こそが、じつは、タイトルになっているところの、「ネオ仏法は小乗も大乗も超えていく」という領域のまさに入り口なんです。