ワンネス(実在)の発展の内実は、「智慧×慈悲の総量を増やすこと」
こちらの記事の続きになります。
「ネオ仏法は、小乗も大乗もはるかに超えてゆく- ①実在性にも段階がある」
「ネオ仏法は、小乗も大乗もはるかに超えてゆく- ② 現象即実在、実在即現象」
「ネオ仏法は、小乗も大乗もはるかに超えてゆく-③実在は「現象する」ことによって本質を開示する」
前回の内容をざっとまとめておきます。
- 実在(根本神・根本仏)は主体を含むところの全体である
- 実在は「現象する」ことによって、自らを発展させている
- その発展の法則が弁証法であり、仏教で言うところの中道である
ということでした。
実在・根本神・根本仏…とかいろいろな言い方をしていますが、内容は同じことです。最近では「ワンネス」とも言われていますね。
このワンネスということについても、「みな、本来ひとつなんだ」「自分も他人も一体なんだ」というあたりの理解で止まってしまうと、
「その根拠はなに?」「なぜ、ワンネスなのに、一人ひとり個別の存在が必要なわけ?」ということが分からなくなり、浅いものになってしまいます。
なので、ワンネスは根本のあり方ではあるのだけど、やはり静的なものではなく、内部に様々な個別的な現象(私たち、動植物、鉱物…などなど)を包含して、動的なダイナミクスを引き起こしているわけですね。
このダイナミクスにより、個別の現象も発展すると同時に、ワンネス自体も発展していくという図式になっています。
さて、ではその「発展」の内実に迫ってみましょう。
ネオ仏法では、人生の目的とミッションを「智慧の獲得と慈悲の発揮」と定義しています。そして、一生を通したスピリチュアルな仕事量は、まさしく、智慧×慈悲という公式で表すことができます。
上述したように、「現象の発展はすなわち実在の発展である」ということを考慮に入れると、私たち一人ひとりの「人生の目的とミッション」というのは、じつは同時に、実在(ワンネス)の目的とミッションにリンクしているはずです。
個々の現象の発展の内実というのは、結局、「智慧×愛」で生み出された「新たな付加価値」ですからね。
なので、ワンネス(実在)の発展(=付加価値)というものも、結局は、智慧×愛の総量エネルギーが増幅されていくということ、と定義することができます。
智慧×慈悲の総量を増やす目的とは?
ここでさらに踏み込んで、「なぜ、智慧×慈悲の総量を増やしているのか?」ということを考えてみたいと思います。
以前、「縁起の理とは何か – 「存在と時間」」という記事で、仏教の旗印であるところの「三法印(さんぽういん)」と縁起の関係を考察してみました。
復習してみますと、
- 諸行無常:時間論的縁起→智慧の獲得
- 諸法無我:存在論的縁起→慈悲の発揮
- 涅槃寂静:無常・無我を立脚点とした幸福論
ということになります。
ということは、
私たちの一人ひとり(現象)の実存が、「智慧の獲得と慈悲の発揮により、真実の意味での幸福を感じている」ということになりますので、
ワンネス(実在)もやはりパラレルに、「智慧と慈悲の総量を増やす(発展)ことによって幸福論を担保している」ということになります。
つまり、「究極のそのまた究極」を突き詰めていくと、(真実の意味での)幸福論に至ることになります。
これは、究極の福音でもあるでしょう。ワンネスが、宇宙が、私たち現象が、結局は幸福を目的として在る、ということになるからです。
空理論の新展開
ここで、仏教および仏教学で言われている空(くう)の論理を更新してみます。
空については、伝統的には以下のような理解の仕方をしているでしょう。
「縁起、つまり、「相依って存在している」ということは、物質であれ心の作用であれ、それ自体で存在できるものはひとつもない。世界に実体として存在しているものは何一つ無い。それが、空である」
と。
私は従来からのこの空理解を一概に否定するつもりはありません。
しかし、一方で、この伝統的な仏教の空理解はトータルなものでもない、と思うのです。
結局のところ、空すなわち「空っぽ」ということとほとんど同義になってしまいます。
これはこれで、「空なのだから執着する必要はない」という効能はありますね。
しかし、ここまでずっと読んでくださった方はもうお気づきかもしれませんが、従来の空理解はあくまで「現象面」だけに着目した空理解で止まっているのです。
なるほど、個々の現象としては、「一切皆空」が真理でしょう。
しかし、現象の総体であるところの全体、「現象する」ことによってその本質を実現しているところの真実在(究極のイデア)は、やはり、「空っぽ」ではなくて、文字通り、「実在する」のです。
「空っぽ」ではなくて、「有る」ということです。
まとめてみましょう。
現象としての個々の存在は、その本質において空性(くうしょう)である。しかし、空とはすなわち、時間論的にも存在論的にも縁起であることであり、それは、智慧と慈悲に関わってくる。
空=縁起の構造をさらに分析すると、弁証法的なダイナミクスと理解できる(仏教的には、「中道」)。
実在は、空のダイナミクス(弁証法/中道)によって、智慧と慈悲の総量を増やしており(=発展)、その究極の目的は真の意味での幸福論である。
したがって、
実在面に着目すると、空は「有る」。現象面に着目すると、空は「無い」。
ここにおいても、やはり、「有無の中道」で理解するのが正解、ということになります。
従来からも、「真空妙有(しんくうみょうう)」すなわち、「真に空を観察すると、妙なる有が現れてくる」という思想がありました。
が、真空妙有は、上記で述べたような存在論というより、「仏の智慧と慈悲が観じられる」「菩薩の使命が現れてくる」といった実践面での理解が主眼でした。
それももちろん真実ですが、今回、私が述べたいのは、実践面というだけではなく、「存在論」としても真空妙有は成り立つ、ということです。
この空理解の更新で、『般若心経』の観自在菩薩の悟りを超えたのではないかと思います。
*具体的な確認作業は、また改めて『般若心経』のセミナーなどで解説していきたいと思います。
西洋/東洋哲学の「実体」概念も更新する
空理論の新展開は以上のとおりですが、空理論の更新はすなわち、従来、哲学で議論されてきた「実体」の定義を更新していくことでもあります。
ソクラテス以前より、「本当に存在するもの」としての「実体」がさまざまに議論されてきました。
実体は、
- そのもの自体で存在することができる
- 変化の背後にあって変化しないもの
- 永遠不滅の存在
と大きくはこの3つで議論されてきたことと思います。
そして、もちろん仏教学では、「仏教は、一切の実体の存在を否定した」という解釈になっていますが、ここのところもやはり、「現象面で見たところの存在の実体性を否定した」ということであり、
現象を展開させているところの実在は、やはり存在するということです。
「変化の背後にあって変化しないもの」というところから出発するから混乱するのであって、
むしろ、変化を内包しつつ(ダイナミズムを自らのうちに生成させる)己を開示しているのが実在=実体、という理解の仕方です。
あるいは、「不変」ということにこだわるのであれば、「変化の仕方、ダイナミズム展開の仕方=弁証法/中道という法則性がむしろ不変であり普遍である、というふうに更新していけば良いですね。
今回の記事も前回に引き続き、ネオ仏法の山場にあたります。
次回は、仏法が近代〜宇宙時代の社会に適応していくための基礎理論を考えていきます。