ふしぎでないキリスト教-⑥全能の神が創った世界になぜ悪があるのか?(神義論)(b)

そもそも”悪”とは何であるのか?

ふしぎでないキリスト教シリーズの6話目です。

ふしぎでないキリスト教- ①イエス復活の真相を解き明かす
ふしぎでないキリスト教- ②「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の真意を解き明かす
ふしぎでないキリスト教- ③地獄で「永遠の業火に焼かれる」のは本当か?
ふしぎでないキリスト教-④最後の審判は本当に”最後”なのか?
ふしぎでないキリスト教-⑤全能の神が創った世界になぜ悪があるのか?(神義論)(a)

前回は、「究極の実在(神)の全能性を維持するための必要悪が悪である」というお話をしました。

今回はまず、「なぜ、悪があるのか?」という場合の、”悪”ですね、「悪とはそもそも何であるのか?」をテーマにしたいと思います。

究極の実在(神)が全体意思を持ち、個別的な現象である私たちが個別意思を持つ、ということを盥(たらい)とコップの例えでご説明しました。

そうすると、私たち個別意思の起源は、やはり、実在(神)の全体意思に由来しているということで、これは言い換えれば、”全体意思の分有をしている”状態であると言えそうです。

全体意思であれ、個別意思であれ、究極の目指すところは”幸福”であることは間違いないでしょう

ということは、”善い”とはすなわち、”幸福に奉仕する思い・行為”ということになります。

反対に、”悪い”とはすなわち、”幸福を阻害する思い・行為”ということになります。

問題なのが、「善いと思って行為したのに、結果的には、幸福になれなかった、すなわち、悪い行為であった」という場合です。

幸福意思の関係性のなかに悪は生じる

たとえ話をします。

ここにリンゴが1個あって、AくんとBくんがふたりともお腹が空いていてリンゴの取り合いになった。

喧嘩というのは、怪我をしたりしますので幸福を阻害します。悪ですね。

もともと、リンゴを食べるという行為は、「生体の維持に役立つ」ことに根拠があるはずなのですが、リンゴの取り合いをしたことにって怪我をしてしまい、「生体の維持がピンチになった」という不幸を招き寄せてしまいました。

リンゴ1個を我慢するよりも、より生体維持をピンチに陥れる怪我です。

この場合、Aくん一人であれば、とりあえず問題は生じなかったはずです。

Aくんの幸福意思とBくんの幸福意思が衝突して、そこに悪が生まれたということになります。

ここで分かることは、幸福意思同士がぶつかってしまったということ。

AくんとBくんの関係性において不幸が生じたということ。

これらはすなわち、

悪とは、幸福意思相互の関係性において、互いに衝突し、結果、幸福を阻害してしまうことである、と言えそうです。

幸福意思を”自由意志”と置き換えても良いと思います。

それでは、世界にAくんだけであったら不幸は起きない=悪はない、と言えるか?

幸福意思にも段階がある

上のたとえとは違って、今度はAくん一人でリンゴを見つけたケースです。

Aくんがふつうに「お腹が空いたのでリンゴを食べる」ということでは、「美味しかった、お腹がふくれた、栄養になった」となります。

Aくんの「リンゴを食べる」という行為は、”幸福に奉仕した”ということになりますので、定義に当てはめれば、とりあえずは「善であった」と言えますね。

ところが、Aくんには、「もっと痩せたい」という幸福願望があった場合どうなるか?

この場合、「死ぬのは困るが、空腹を我慢してでも痩せるほうが幸福である」というふうに、

  空腹<痩せる

という幸福観であった場合、リンゴを食べてしまうと、

 満腹という幸福<痩せられなかった不幸

という図式になり、大小を差し引きすると、「不幸」となってしまいますよね。

もっとも、厳密には、

 満腹という幸福<痩せないという方向性を選んでしまい、プライドが傷ついた不幸

というほうが正確でしょうけどね。

このように考えると、幸福意思にも段階があり、下位の幸福意思が上位の幸福意思を阻害したときには幸福そのものが損なわれ、悪となりうる、ということが分かります。

しかし、このケースであっても、Aくん内部の2つの価値観が衝突して生じている、

つまり、幸福意思相互の関係性において悪が生じている、ということには変わりありません。

最初のたとえ話と本質においては一緒です。

ということで、”悪”とは何か?のまとめは、

  • 真実在(=神)の全体幸福意思は、現象である人間に個別幸福意思というかたちで分有されている
  • 個別幸福意思相互の関係性において矛盾・衝突があると悪が生じる

となります。

「悪がある」の”ある”とは何であるのか?

さて、この”ある”については今まで他の記事においても何度か述べてきました。

現象としてあるのか、実体としてあるのか、の違いです。

神義論の文脈での「悪がある」の”ある”は、明らかに、「現象としての”ある”」でしょう。

実体として”ある”のであれば、それは文字通り、永遠不滅の固定的な悪ということになってしまうからです。

「般若心経」や「空の論理」の解説で書きましたように、「現象として”ある”」ということは、ある時間的・空間的関係性のうちに、ひととき”ある”ということであって、これは実体として”ある”ということではない

もっとも、このように論を進めていくと、神義論が立っているところの土台そのものが崩れてしまうことになりますけどね。

相対善、相対悪、絶対善

ここでまたたとえ話をします。というか、善と悪についてのイメージ図です。

ここに迷路があって、Aくんが出口を目指して迷路のなかに入ってきました。

迷路を脱出するのが究極目標でありますので、迷路脱出にかなう行為・出来事は”善”であり、迷路脱出にかなわない行為・出来事は”悪”、ということになります。

迷路内における”善”は、行き止まりを避けて出口へ近づく行為・出来事です。

一方、迷路内における”悪”は、行き止まりにぶつかってしまうことそのもの、と言えるでしょう。

ところが、この「行き止まりにぶつかってしまう」というのが、「このルートを通ると行き止まりになるのだな」という一つの経験として捉えるとどうなるか?と言いますと、

これは、「次回からこのルートを避ければ良い」「このルートではなく、あちらのルートだ」というふうに、一層出口に近づくということになり、これは善に転化した状態である、と言えそうです。

このように考えてみると、Aくんがひととき正しいルートを通ったり、あるいは、ひととき間違ったルートを通ることは、すべてひとつの”過程”であり、これは、相対善、相対悪とでも呼ぶべきものですね。

つまり、「行き止まりルートを辿ってしまった」という”悪”も、それは正しいルートへ至るための一過程と捉えるのであれば、それは出口へ近づくという”絶対善”の一部に過ぎない、と言えるわけです。

これはたとえ話で今、お話していますが、人生における善・悪も長い目で見ればこのようなものです。

「抗議の神義論」を乗り越える

神義論というとやはり、キリスト教的な文脈・前提でどうしても考えてしまいます。

前回の記事の前半ででご紹介した神義論の2つの類型を振り返ってみましょう。

  • アウグスティヌス型神義論:神は世界の創造者であり絶対の善である。悪は人間の原罪と自由意志の乱用によって生じている。いわば、「善の欠如」が悪の正体である
  • エイレナイオス型神義論:神は悪に対する責任を持つものの悪の存在は人間の発展にとって有益であるために正当化されうる

ネオ仏法は、「自由意志の乱用」、自由意志と自由意思のぶつかり・歪みで悪が生じているという意味では、アウグスティヌス型神義論に同意するものです。

善悪というものは、この世の相対性のなか、関係性のなかで生じてくる、という考え方です。

被造物の個々の部分の間では、ある部分が他のある部分に適合しないため、悪とみなされる場合があります。ところが、そのまったく同じ部分が、他のある部分に適合するとすれば、それは善であり、またそれ自体も善です。(アウグスティヌス『告白』第13章:19)

ただし、ネオ仏法では(直接的な意味での)原罪説は採用しません。その理由はまた別のトピックで述べていきます。

また、「悪の存在は人間の発展にとって有益であるために」というところは、さきの相対善・相対悪の両者で絶対善が実現されうる、という意味において、エイレナイオス型神義論に同意するものです。

アウグスティヌス型神義論とエイレナイオス型神義論はそれぞれ、悪を善に回収されうる”消極悪”もしくは”必要悪”と捉えていますので、これに対しては近年、「抗議の神義論」というのが出てきております。

今回は詳しくは述べませんが、要は、この世界にある悪は”消極悪”ないし”必要悪”でくくるにはあまりに悲惨である、これはやはり神の責任を追求すべきでないのか?とプロテスト(抗議)する考え方です。

これはたしかに、キリスト教的な世界観の範疇では説得力のある”抗議”になりうるものでしょう。

しかしやはり、ネオ仏法的に観ると、「抗議の神義論」はあまりに”人間中心の世界観”から発しており、かつ、キリスト教の文脈に縛られすぎている、と感じられます。

キリスト教には、輪廻転生(りんねてんせい)の思想がありませんし、また、来世の理論があまりに不足していますので、どうしても、今私たちが住んでいるところの現象界(この世)の比重を大きく考えすぎてしまいます。

輪廻からは”カルマの法則”も導き出せますので、「この世での悲惨」というものも、一方的に不合理だとは言えず、あくまで縁起ですね、原因結果の法則に基づいているということです。

輪廻の思想を入れると、全ての出来事に”公平さ”を付与することができます

さて、

2回に分けて神義論を検討してまいりました。まだ採り上げていない神義論もありますし、アウグスティヌス型神義論・エイレナイオス型神義論・抗議の神義論に対してももう少し詰めたほうが良いとは思いますが、

とりあえずは、ネオ仏法の神義論の骨格は示せたのではないかと思います。

続き→→→ふしぎでないキリスト教-⑦”三位一体”はヘンな教え?

 

 

 

無料Eブック特典【潜在意識(守護霊)と交流して、 インスピレーションを受ける方法】

私たちは地上に肉体を持って生きている部分だけではなく、潜在意識に自らのグループソウルのメンバーがいます。 それを古来より、”守護霊”と呼んでいます。

この無料プレゼントを読むことによって、潜在意識にアクセスして、守護霊からのインスピレーションを受け取る方法を知ることができます。完全無料ですので、ぜひこの機会に手に入れてくださいね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください