スピリット(人間)の本質が、エナジーであるというお話をしました。
*エナジー=個性をもつエネルギーという意味で使います。
エナジーということは、エネルギーってことですから、
本来、姿形はないってことになりますね。
で。
エネルギーのエネルギーたる所以(ゆえん)は、
いくらでもエネルギー分化できるってことです。
たとえば、物質界に引き直して例を挙げてみましょう。
ココに1個の搗きたてのお餅があるとします。
お餅って手でちぎれば、2個になったり3個になったり、
100個にもなることができますね。
逆に、100個になったお餅をまとめれば、
また1個に戻すことができます。
このように、一が多にあなり、また、多が一なることができる。
これを哲学用語で、「一即多、多即一」と言います。
西田幾多郎という日本の哲学者(京都学派)が唱えた概念です。
エネルギーというのはまさにこれで。
さきの、搗き立てのお餅のように、ひとつのエネルギーが
沢山のエネルギーに別れることができるんです。
エナジー分化とでも呼びましょうか。
たとえば、
精神界にいるイエス・キリストが、宗教画に描かれているような、
たった”ひとりのイエス”であったならば、どうでしょうか?
今この瞬間にも世界中のクリスチャンから、
イエスの御名は呼ばれているはずですが、
イエスの身体がひとつであったなら、
たった一人の信者のところにしか行けないことになりますよね。
ところが、そうではなく。
イエスは、天なる父の御元でエナジーとして存在している、
それも、超巨大なエナジーです。
*霊格によって、エネルゴー量が変わってきます。
精神界でも、上にいけば行くほどエネルギー量が増えていきます。
エナジーであるからこそ、エナジー分化して、
数多のクリスチャンの元へ赴くことができるんです。
まあ、実際は、祈りの内容によって、
イエスご自身というより、しもべの天使や天使予備軍たちが
赴くことが多いと思います。
***
このエナジー分化の様子を象徴的に現したのが、
千手観音像です。
千本の手を持っている、というのは、
衆生の救済のために、いくらでもエナジー分化しますよ、
との象徴なんです(僕の解釈ですよ)。
ゆえに。
神々や天使たちは、いくらでもエナジー分化して、
人々の救済にあたることができるわけです。
あるいは、地上に降りた天使たちにインスピレーション
を送る仕事もされています。
***
そういうわけで、神々や天使たちは、
”沈黙”(cf:遠藤周作)
どころか、土曜日も日曜日もなく、
めっちゃ働き続けています。
なんとなれば、
エナジー、エネルギーの本質は”作用”(働きかけ)であるからです。
天使であっても、地上(物質界)に生まれれば、
肉体を持っておりますので、休憩はしますけどね。
そういうわけで、たとえば、”祈り”は常に聞き届けられてると思って
間違いありません。
とは言っても、自我我欲に基づく祈りは天国ではなく、
下の方へいっちゃいますけどね。笑
コメント