この世は念が飛び交う世界
あの世ではもちろん、念=思いだけの世界であるわけですが、前回の記事でご説明したように、僕らはこの世に居ながらにして、同時に多次元的存在である、ということになりますと、
この世においても、やはり当然、念というものは年がら年中飛び交っているわけです。
というよりも、肉体を持っているがゆえに、自分とは本来、波長が合わない念に”出くわす”チャンスが多くなるデメリットがあります。
あの世は波長のみの世界ですから、自分と波長の合わない念とは、基本的には接する機会がないんですけどね。
この世では、肉体を持っているがゆえに、「出かけたくないところにも出かけなければいけない」ということが当然あるわけで、
そうすると、「出くわしたくない念に接することになる」機会も多くなるというわけなんです。
念はそれ自体がちからを持ってしまう性質がある
「念」の面倒なところは、その念を発した本人が忘れ去っていたとしても、その念自体がずっと”仕事”をし続ける側面があるということです。
これがタイトルにも書いてある「古本には生霊がくっついている!?」ということにも繋がってきます。
まあ、生霊というのは言いすぎなんですけどね。
そこまで言わなくても、前の所有者が本の内容と格闘(?)した思い→念のようなものが、けっこうベタベタくっついているんですよ。
それが、天国的なものであれば良いんですが、そうでない場合も多い、というのが面倒なところで。
特に、書き込みなどがあると、「書き込みという行為に及ぶまで思いが強かった」ということになりますので、やはりこれは、念が強いなーってことになります。
念が残る→残念。ということでしょうか。笑
むかしは、「古本の以前の所有者から書物の歴史を受け継いだ」、みたいな感覚を奥ゆかしく感じたこともあったのですが、霊的に敏感な体質になってから、それがだんだん面倒に感じるようになってきました。
そういうわけで、最近は、なるべく新刊を買うようにしています。
もっとも、本当に欲しい本に限って絶版になっていたりしまして、やむをえず古本を買うこともありますけどね。
ただ、そういう希少本については、もとの所有者が僕と趣味が似ているせいなのか、わりあいに念についても、そんなに面倒な念ではないことが多いです。
むしろ、ハウツーものとか時事問題についての本が多いですかね、面倒な念は。
また、最近は、老眼も進んできた関係もありまして(笑)、文庫本ではなく、ハードカバーで読みたいという気持ちが強くてですね、
「読みやすい」ということ以外に、「読書という時間をなるべくリッチに味わいたい」という意識からそうしている面があります。
本当に若いうちに、お金があまりないときは文庫本でも良いと思いますが、繰り返して読むような本は、やはり、ハードカバーで持っておくといいですよ。
そして、繰り返して読みながら、10年前の自分の「念」と対決するのも、またワクワクするところであります。笑
「お、そう来ますか?」みたいな楽しみがありますね。笑
コメント