龍神の多くは蛇、稲荷の多くは狐
ここしばらく呪術スピリチュアルの考察を続けています。今回は神道のなかでも龍神系、稲荷系信仰への警告です。
「拝む対象に迷うなら伝統的なものにしたほうが良い」と述べたことがありますが、伝統的な存在であっても一定の疑問があり、関わりあうのを避けたほうが良い存在があります。
それが神道で言えば、龍神系、稲荷系ということになります。
*参考記事:
魔法・仙人・天狗系スピリットの特徴と付き合い方
スピリチュアルでも、占い・霊能力系、などとは距離をとったほうがいい理由
それでは、なぜ龍神系、稲荷系は避けたほうがいいのか?
理由をひと言で述べるなら、
「龍神のほとんどは蛇(へび)であり、稲荷のかなりの部分が狐(きつね)だから」
ということになります。
蛇や狐の霊も元は人間だった
蛇や狐と言っても純粋な動物霊というよりも、元は人間であったけれど、畜生道に堕ちた後、そうした姿に変化していくケースがほとんどです。
畜生道というのは、十界論で言えば文字通り「畜生」に相当するものですね。
要は生きていた時に、貪り(むさぼり)多い心で生きていた人間が、死後赴くところです。
そして、あの世(実在界)は、「想ったことがそのまま実現する世界」ですので、貪り多い心が傾向性になっていると、それに相応しい姿に変化していくことになります。
その変化した姿の典型が、日本では狐や蛇が多いということなんです。
そして、長年、畜生道にいるうちに、人間であることを忘れ果ててしまって、そうした動物になりきってしまうケースが多々あるんですね。
それではなぜ、龍神や稲荷系神社の多くが、蛇や狐(元、人間)に成り変わってしまっているのか??
その理由をいくつか挙げますと、
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龍➞蛇、稲荷➞狐、という流れに親近性が強い
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畜生道に堕ちた存在であるとはいえ、拝まれるのが気持ちがいい
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食べ物(油揚げなど)を供養してくれるので(気分的に)食べられて嬉しい
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欲望の念で参拝する人が多く、そうした念そのものが彼らのエネルギー源になる
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憑依の対象を見つけられる
と、おおむねこうした理由です。
ちなみに、
おもに執念・執着が強いタイプが蛇に変化し、騙し・情欲系統が狐に変化することが多いです。
元、人間ですから、感情が人間並みに豊かであったり、人語も操ったりします。
天界の龍神、稲荷大明神
もちろん、龍神のすべてが蛇であり、稲荷のすべてが狐であるとは限りませんけどね。龍神や稲荷であって天部(十界論の「天」に相当)に属している存在もあるからです。
というか、元々はそうした神社も天部の存在を祀っていたはずなのですが、参拝にくる人々の欲念が強いと、畜生道の蛇や狐に乗っ取られているケースが多い、ということなんです。
そして参拝者に取り憑いて、さらに彼らの欲念を増幅し、自分たちの仲間に引き込むということをしているんですね。

ただし、天部に属している龍神や稲荷大明神であれば信仰や崇敬の対象にしていいかというと、それにも一定の疑問があります。
理由を2つ挙げますと、
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十界論をご覧いただくとお分かりのように、天部を拝むくらいなら、声聞(しょうもん)➞縁覚(えんがく)のラインを選んだほうが境涯としては上である(声聞の境涯に行くのはそれほど難易度は高くないです)。
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龍神や稲荷系は天部であっても特殊任務系(覇道スピリチュアル的任務)であり、関わりになると魂として真っ直ぐに伸びていくのが難しくなる
2.の論点は今までの記事で書いた危険性に関わるものですね。
*参考記事
魔法・仙人・天狗系スピリットの特徴と付き合い方
スピリチュアルでも、占い・霊能力系、などとは距離をとったほうがいい理由
諸悪莫作・衆善奉行、プラス1
龍神も稲荷系も霊能力の高さから畏怖心を起こさせる働きがあるのですが、繰り返し申し上げているように、霊能力の高さと霊格は一致しません。
龍神系は一部、神道・仏法外護や天変地異にも関わっており、稲荷系は動物愛護系を担当していらっしゃるスピリットもおります。
そういう意味で、敬服に値するスピリット存在もあるにはあるのですが、地上にいる人間ではなかなか見分けがつかないんです。
ゆえに、
「触らぬ神に祟りなし」で龍神系・稲荷系は極力、避ける。関り合いになるのは止めたほうがいいということですね。
「霊能力・ご利益があるからすごいんだ」という発想からはそろそろ抜けだしたほうが良いです。
ネオ仏法では、この世の現象界をはるかに超えた真理を提示しています。
まずは、「人生の意味とミッションって何だろう?」のシリーズをお読み頂くことをお勧めいたします。