霊能力には「良い霊能力」と「悪い霊能力」がある
霊能力については、文字通り、「この世を超えた能力」ということで、「こわい気持ち半分」「憧れる気持ち半分」ということろではないでしょうか。
高田個人については、20代の頃から前兆はあったものの、もともと霊能力に関心がないタイプであり、かつ、都会で生活していいて、「これ以上、開いてしまうと、まともな生活がしにくいな」ということで、
自分の守護霊に、「これ以上、開くのはストップしてください」とお願いしていました。
ともあれ、スピリチュアルに関心がある人は、やはり、一定程度、霊能力にも関心があるでしょうね。
ただ、問題なのは、「霊能力自体を有難がってしまう傾向」です。
実際のところ、人間はもともと霊的な存在であって、魂修行のために現実世界に生まれてきているわけです。
なので、現実世界において霊能力を持つことにより、魂修行にプラスであれば、それは「良い霊能力」であり、魂修行にマイナスであれば、それは「悪い霊能力である」ということになります。
また、他者との関わりでいえば、世の人に良い影響をあたえることが出来るのであれば、「良い霊能力」、悪い影響を与えるのであれば、「悪い霊能力」である、ということになります。
霊能力自体を有難がってしまう問題点
とはいえ、いつの時代でもどこの地域でも、霊能力そのものを有難がってしまう傾向がでてくるのは否めません。
なぜそうなってしまうかというと、
やはり、「一般の人がなかなか持っていない能力を自分が持てたら、それはすごいことなのではないか。自分の価値が上がるのではないか」という価値観が背後にあるからです。
そしてそれは、たいていの場合、コンプレックスの補償作用から来ているときが多いわけです。
*参考記事:「メサイア・コンプレックスと、スピリチュアルカウンセラーの過去世認定」
釈尊時代から、いやそれ以前の時代から現代に至るまで、断食や滝行、千日回峰、その他の苦行を行う人が絶えない理由は、
実際のところ、こうした肉体行をしていると、たしかに、霊的能力が鋭敏になることがあるんです。
肉体力が弱まると、相対的に、霊力が高まるというか。
また、そうした修行場には、過去世でも肉体行に励んでいた霊人がうろうろしているという、「霊的磁場」も影響しています。
そして、霊の声が聞こえたり、視えたり、あるいは身体が動く(霊動)などの出来事があると、
なにか「悟りを開いたか」とか「高次元と同通した」とか「トクベツな自分になった」という自惚れ心が出てくるわけです。
こうした、「霊能力を得ること自体がすごいこと」という慢心は、前述した、「良い霊能力」と「悪い霊能力」の区別がついていない、という知識不足から発生している考え方です。
ちなみに、現象面からみた「良い霊能力」と「悪い霊能力」の見分け方がいくつかあります。
霊の声が聴こえる
聴こえ方として、耳元でささやかれるような聴こえ方がする場合は、霊は霊でも「悪霊」である場合が多いです。
守護霊や天使・菩薩などの上級霊であれば、内側(胸のあたりや丹田のあたり、知的な思考であれば頭脳の内側あたり)から響いてくるような聴こえ方になるはずです。
霊動する
霊現象によって身体が動く場合、たいていは、悪霊、それも動物霊の憑依であるケースが多いです。
霊のオ◯ム教でも、こうした霊現象を喧伝していましたよね。
霊動の例外としては「自動書記」というものがありまして、自動書記の内容に高度な思想が含まれている場合は、善霊というか、上級霊の指導であるケースにあたります。
もっとも、「コックリさん」ではないですが、意味不明の言葉が連なっている場合は、やはり憑依による現象ですね。
寒気がする
これはだいたい想像がつくと思いますが、悪霊が来ている場合は寒気がします。
守護霊・上級霊が来ているときは、胸のあたり、もしくは丹田のあたり、あるいは全身がぽかぽかする感じになります。
この霊的な「ぽかぽか」は不思議なぽかぽかでして(笑)、この世のぽかぽかとちょっと違うんですね。
例えて言えば…、春の柔らかな日差しと秋の爽やかな微風がミックスされたような感じでしょうか。
あとは、光がさーーっと光降りてくる感覚のときもあります。
「智慧の獲得と愛の実践」こそが、本当の意味で「霊的」なこと
いずれにしても、霊能力自体が素晴らしいのではなく、
今この現実世界に目的を持って生まれてきている以上は、「いかに新たな智慧を獲得するか、あるいは、愛を実践することが出来るか」、
そして、「その智慧✕愛という仕事量を実相世界(来世)」に持って変えることが出来るか、が真実の霊的に価値が有ること、ということになります。
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