再び、コップの話しをします。
目の前に1個のガラス製のコップがあるとして
(ガラス製じゃなくても良いんですが)。
ガラス製のコップは幼児でも壊せますね。
落としちゃえばいいんだから。
もしも・・・この世に、コップの設計図もコップという概念すらも
なかったらどうなるでしょうか?
壊れたコップは永遠に代わりのコップが現れない、
ということになります。
逆に言えば、コップの設計図があれば、
コップが壊れたとしても、何度でも同じものが作れます。
そういう意味で、現実のコップよりも、
コップの設計図のほうが”実在性が高い”と言えるでしょう。
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それでは、コップの設計図を失くしてしまったら・・・?
これもやはり、二度とコップは作れないでしょうね。
コップの概念がなければね。
コップ=”水分を入れる容器”というアイディアがまず、
誰かの頭というか、精神のなかにあったわけですね。
そして、そのアイディアが具体化して設計図になった。
そして、その設計図を元にコップが作られた。
設計図さえあれば、何万個でも何億個でも同じコップを
作ることができる。
でも、
大本は、精神のなかにあったアイディアであったわけです。
アイディアがなければ設計図も作れない。
設計図がこの世からなくなってしまっても、アイディアが
残っていればもう一度、設計図を作ることができる。
したがって、設計図よりもアイディアの方が実在性が高い。
アイディアは目に見えない価値である。
ゆえに、目に見えない価値のほうが実在性が高い。
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具象化 ー 抽象化
というモノサシで見ると、
コップ→コップの設計図→コップのアイディア
の順で、抽象化が高くなっています。
逆に、
コップのアイディア→コップの設計図→コップ
の順で、具象化が高くなっている。
抽象、というのは、
「でもそれって、抽象的だよね〜」
なーんて言われると、
「絵に描いた餅」みたいな揶揄(やゆ)になりますが。
餅よりも絵に書いた餅のほうが実在性が高いかもしれない。笑
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さらに、上の議論を敷衍(ふえん)して考えてみます。
”実在性が高い”って、「実在ってことじゃないのー?」
と思われるかもしれません。
そう、まだ実在じゃない。
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たとえば、
「水分を入れる容器」
というアイディアさえ失くなってしまったら・・・?
もうお仕舞いですね。
「水分を入れる容器」の元になっているアイディアって
何なのでしょう?
それは、
「利便性」
ですよね。
「世の中にこういうものがあったらいいなあ」っていう利便性。
利便性という概念があるからこそ、
そのなかの一環として、
「水分を入れる容器」
というアイディアが出てきた。
利便性のなかには、「水分を入れる容器」以外にも
数限りない発明がありますよね。
それらの発明も具象化する前は、アイディアであったわけで、
目に見えない抽象的なモノです。
***
じゃあ、利便性はもっとも実在性が高いのか?
実在そのものと言えるのか?
うーん。
この世が存在していなければ、
「利便性」という概念はでてこないかもしれませんね。
利便性以外にも、様々な価値があって。
その価値の大本はなんであるかというと、
世界そのものを在らしめている、
ひとつの意思=愛であるのかもしれません。
そこから、利便性とか、様々な価値が出てきて、
その価値をもとに、(利便性であるならば)、
「水分を入れる容器」というアイディアが出てきて、
そこから設計図が出てきて、
設計図から、やっと、コップという具象になる。
***
大本を辿ってみれば、最高の抽象である
一者の”アイディア”に至るわけです。
これが、宗教的に言えば、”神の愛”ですね。
これのみが実在。
あとは、仮の存在、仮性。
ただ、
どれだけ”実在に近いか””実在性が高いか”
という序列のみがあるというわけです。
それはあたかも、
湖面に落ちた水滴が波紋を作っていくような
そんな流れであるかもしれません。
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