目に見えないもののほうが実在であることを哲学的に証明する

再び、コップの話しをします。

目の前に1個のガラス製のコップがあるとして
(ガラス製じゃなくても良いんですが)。

ガラス製のコップは幼児でも壊せますね。
落としちゃえばいいんだから。

もしも・・・この世に、コップの設計図もコップという概念すらも
なかったらどうなるでしょうか?

壊れたコップは永遠に代わりのコップが現れない、
ということになります。

逆に言えば、コップの設計図があれば、
コップが壊れたとしても、何度でも同じものが作れます。

そういう意味で、現実のコップよりも、
コップの設計図のほうが”実在性が高い”と言えるでしょう

***

それでは、コップの設計図を失くしてしまったら・・・?

これもやはり、二度とコップは作れないでしょうね。

コップの概念がなければね。

コップ=”水分を入れる容器”というアイディアがまず、
誰かの頭というか、精神のなかにあったわけですね。

そして、そのアイディアが具体化して設計図になった。

そして、その設計図を元にコップが作られた。

設計図さえあれば、何万個でも何億個でも同じコップを
作ることができる。

でも、

大本は、精神のなかにあったアイディアであったわけです。

アイディアがなければ設計図も作れない。

設計図がこの世からなくなってしまっても、アイディアが
残っていればもう一度、設計図を作ることができる。

したがって、設計図よりもアイディアの方が実在性が高い

アイディアは目に見えない価値である。

ゆえに、目に見えない価値のほうが実在性が高い

***

具象化 ー 抽象化

というモノサシで見ると、

コップ→コップの設計図→コップのアイディア

の順で、抽象化が高くなっています。

逆に、

コップのアイディア→コップの設計図→コップ

の順で、具象化が高くなっている。

抽象、というのは、

「でもそれって、抽象的だよね〜」

なーんて言われると、
「絵に描いた餅」みたいな揶揄(やゆ)になりますが。

餅よりも絵に書いた餅のほうが実在性が高いかもしれない。笑

***

さらに、上の議論を敷衍(ふえん)して考えてみます。

”実在性が高い”って、「実在ってことじゃないのー?」
と思われるかもしれません。

そう、まだ実在じゃない。

***

たとえば、

「水分を入れる容器」
というアイディアさえ失くなってしまったら・・・?

もうお仕舞いですね。

「水分を入れる容器」の元になっているアイディアって
何なのでしょう?

それは、

「利便性」
ですよね。

「世の中にこういうものがあったらいいなあ」っていう利便性。

利便性という概念があるからこそ、
そのなかの一環として、
「水分を入れる容器」
というアイディアが出てきた。

利便性のなかには、「水分を入れる容器」以外にも
数限りない発明がありますよね。

それらの発明も具象化する前は、アイディアであったわけで、
目に見えない抽象的なモノです。

***

じゃあ、利便性はもっとも実在性が高いのか?
実在そのものと言えるのか?

うーん。

この世が存在していなければ、
「利便性」という概念はでてこないかもしれませんね。

利便性以外にも、様々な価値があって。

その価値の大本はなんであるかというと、

世界そのものを在らしめている、
ひとつの意思=愛であるのかもしれません

そこから、利便性とか、様々な価値が出てきて、

その価値をもとに、(利便性であるならば)、

「水分を入れる容器」というアイディアが出てきて、

そこから設計図が出てきて、

設計図から、やっと、コップという具象になる。

***

大本を辿ってみれば、最高の抽象である
一者の”アイディア”に至るわけです。

これが、宗教的に言えば、”神の愛”ですね

これのみが実在

あとは、仮の存在、仮性。

ただ、

どれだけ”実在に近いか””実在性が高いか”
という序列のみがあるというわけです。

それはあたかも、
湖面に落ちた水滴が波紋を作っていくような
そんな流れであるかもしれません。

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