外的時間と内的時間の違い

外的時間 内的時間

私たちの日常的生活においては、時計的時間を基準にして生活をしているため、「時間は一定の速さで流れている」ということを暗黙の前提としています。

ただ一方では、同じ時間、たとえば45分なら45分が経ったとしても、それがあっという間に過ぎてしまうように感じたり、反面、「なかなか45分経たない」と感じる時もありますね。これは誰しも経験していることであるでしょう。

このように、客観的な(時計的な)時間の流れとは別に、私たちの内部での時間の流れというものがありそうです。

前者を「外的時間」、後者を「内的時間」と呼ぶことも可能でしょう。

本稿では、この外的時間と内的時間の違いについて、ひいては霊界の時間の流れについても考察してみたいと思います。

目次

外的時間と内的時間の違い

「外なる時間 内なる時間」の二種類がある

17世紀のフランスの数学者であり、著名な『パンセ』の著者でもあるパスカルは、外的時間と内的時間の流れについて、シンプルな洞察を展開しています。

パンセ

『パンセ』から引用してみましょう。

一方は「もう二時間経った」と言う。他方は「まだ45分しか経たない」と言う。私は時計を見て前者に言う、「君は退屈している」と。また後者に言う、「君には時間の経つのが早すぎる」と。なぜなら、実は一時間半の時間が経っているからである。

これは引用の通りなのですが、客観的な(時計的な)時間としては一時間半経っていたとしても、ある人は「二時間経った」と感じる人もいれば、「まだ45分しか経っていない」と感じる人がいるということです。

一時間半というのが私たちがふだん基準にして生活しているところの客観的時間、すなわち外的な時間であり、「二時間経った」「45分しか経っていない」というのがいわば主観的な時間、すなわち内的な時間なのです、

このように、時間というものは外的な時間と内的な時間の二種類があるのではないか、というのがパスカルの洞察です。

この外的な時間、内的な時間について、同様に洞察を深めたのが、フランスの外科医・解剖学者・生物学者であり、1912年にノーベル生理学・医学賞を受賞したアレキシス・カレルです。

アレキシス・カレルは主著『人間 この未知なるもの』において、パスカルと同様の時間論を展開しています。

人間 この未知なるもの

カレルは「内なる時間 外なる時間」と表現しました。

カレルの観察をかいつまんで言うと下記の通りとなります。

川が一定の速度で流れているとします。

朝、溌剌として川べりを歩いている人は、川の流れが遅く感じるものです。それが夜になって疲れてくると歩みは遅くなり、川の流れがとても早く感じるようになります。

この「感じる」というところがポイントで、川は一定の速度で流れていますから、これはいわば客観的・時計的時間なのです。これが「外なる時間」です。

一方、「川の流れが早く感じる」「川の流れが遅く感じる」という時間の感じ方が「内なる時間」です。

身近な例を挙げれば、私たちは子供の頃、時間が経つのをとてもゆっくり感じたものです。「早くお正月が来ないかな」と指折り数えても、なかなか正月が来ません。

一方で、年を取ってくればくるほど、時間の流れをとても早く感じるようになります。これは思い当たる人が多いのではないでしょうか?

子供の頃は、一瞬一瞬が新鮮ですから、心の充実度が上がり、時間の経つのが遅く感じるのです。

大人の場合は、まあ人によって違いはあるでしょうけれども、日々の仕事や家事に忙殺され、気がついてみるとあっという間に時間が経っているというわけです。

これは実感的にも、年々加速度がついてきます。放っておけば、30代より40代、40代より50代・・・となるにつれ、1年が経つのがすごく早く感じられるようになってきます。

ただ、大人であっても、たとえば、旅行などをして日常とは違う、非日常的な体験をしてみると、まだ2−3日しか経っていないのに、「現地に来てからずいぶん時間が経ったな」と感じることがありますね。

これは新鮮な刺激と体験により、内面の充実度が上がり、内的な時間の流れが遅く感じているのです。

「内なる時間」を充実させていく

時計的な(外的な)時間があるにせよ、結局、私たち人間の幸不幸、あるいは人生の充実度は内的な時間で測られています。

なぜなら、幸不幸・人生の充実度を感じるのはまさに「心」であり、それは内面的な事象だからです。内的な事象はまさに内的な時間に対応しています。

それゆえに、まずは、先の例で言えば、「時間が経つのを早く感じているか、遅く感じているか?」というのが心の充実度のひとつのチェック項目となりえるでしょう。

時間が経つのが早く感じているようでは、それは単調な日々を過ごしていることになり、人生の充実度が低いと言えるのです、

ここのところですね、前回の記事では「内省の大切さ」について書きましたが、「自分は最近、時間が経つのが早く感じてはいまいか?」「人生を単調に過ごしてはいないだろうか?」ということも内省のチェック項目にしていくことができるでしょう。

*参考記事:内省のスピリチュアル的意味 

霊界における時間のあり方とは?

この記事では「死後の世界は存在する」「霊界は存在する」「神的実在は存在する」という前提でお話ししていきます。

死後、心(魂)が本当に存在し続けるのか?ということを知りたい方は下記の記事・項目をお読みください。

*参考記事項目:無限なるもの – 心

「次元」とは何か?

よくスピリチュアルでは、「五次元の世界にアセンションする」といった言い方をする場合があります。

そしてそうした物言いをするスピリチュアリストのなかには、「五次元とは何か?」「そもそも次元とは何であるのか?」ということをスルーして、無反省に「次元」という言葉を使っている方もいらっしゃるように思われます。

それでは、次元とは何でしょうか?

次元とは、空間を構成する要素(の数)のことです。

たとえば、私たちは今地上に生きていますので、三次元の世界に住んでいます。

アナタとアナタ以外を区別しているものは「形状」ですよね。

そして形状は「縦・横・高さ」の3つの要素の組み合わせで決定されています。

空間を構成している3つの要素で成り立っている世界であるので、「三次元」と呼ばれているわけです。

霊界とは四次元以降の世界

現世・地上世界が三次元(縦・横・高さ)の世界であるのに比して、じつは霊界とはまず一次元を加えた四次元(以降)の世界であるのです。

その一次元とは何か?

それがまさしく「時間」であるのです。

そして、その時間とは地上で測られているところの時計的な時間ではありません。

霊界とは人が「心だけの存在になる」世界でありますので、まさに内的な時間(内なる時間)であるのです。

さきに地上世界では、アナタとアナタ以外を区別する基準は形状であり、形状は縦・横・高さの三次元で表される、と述べました。

霊界ではまずは、自他を区別する要素として、この三次元的要素に加えて「時間」が加わります。

たとえば、平安時代に亡くなった方が平安時代のままの意識で死後、存続している場合もあります。

現世ではもちろん、平安時代の人と現代の人が会うことは不可能ですが、霊界ではそれが可能なのです。

ですので、アナタがたとえば、”令和”の意識を持って死後の世界に生きているとしても、平安時代の意識を持ったまま霊界に暮らしている人と会うことが可能なのですね。

ここで、アナタとアナタ以外を区別する要素に「時間」が加わることになります。

時間

アナタは何時代の意識を持っているか?他者は何時代の意識を持っているか?ーつまり「時間」が自他を区別する要素として、ひとつ加わることになるのです。

五次元の世界とは何か?

四次元ついでに五次元の世界とはどのような世界であるか、考えてみましょう。

それには色々な説・考え方があるとは思いますが、私は個人的に、五次元の5つ目の次元というのは「信仰」だと思っています。

信仰と言っても、どこか特定の宗教・宗派に加入しなければならない、というわけではありませんが、ぼんやりとではあっても、「自分を超えた超自然的な存在がある」と知っている、実感している必要があるのです。

信仰

超素朴に言えば、「お天道さまはありがたい!」と日々、太陽に感謝して生活している、というのでも十分です。

「大いなる存在の一部として自分は生かされている」という意識があるからこそ、同じく大いなる存在の一部である他者に優しくすることができるのです。

そして、そうした人同士が集まっていれば、そこは宗教的に昔から言われている「天国」の世界であると言っていいでしょう。

そう、この五次元世界から本格的な天国が展開されているのです。

ですので、五次元世界の住人は自と他を区別する要素として、「縦・横・高さ・時間・信仰」の5つを目安にしていると言えるのです。

内的時間において「善」を選ぶことが天国への道

さて、次元という観点において、四次元目が「時間」、五次元目が「信仰」という話しをいたしました。

信仰とは自らを超えた大いなる存在に敬意を払い、その経綸に基づいて生きようとする姿勢のことです。ここから生まれるのは、道徳で言うところの「善」なのです。

そう、善人同士が集っている世界だからこそ、五次元の世界は「天国」と呼ばれる世界になっているのです。

天国

これは逆に言えば、四次元の段階ではまだ、善悪がはっきりしていない。自他を区別する要素になっていない、ということを意味します。

それゆえに、四次元世界の中でも、善悪で言えば、「悪」のほうへ傾いた魂が赴く世界が、宗教や民話で「地獄」と呼ばれている世界であるのです。

従いまして、内的時間を考える際に、「ただ、時間密度を上げればいい」というわけではないことが分かります。経験値を積んだだけでは、天国的世界に還れる保証はないのです。

ここで大事なことはやはり、何らかのかたちで、信仰ですね、「自分を超えた大いなる存在を知り、敬意を払い、その経綸のもとに生きる」ということが要請されてくるのです。

誤った時間観念から現出する地獄界とは?

さきに申し上げた通り、四次元の世界ではまだ善悪がハッキリとしてはおりません。まるっと「四次元」とひとくくりにされております。

しかし、四次元の中でも比較的善人が還る世界(ギリギリ天国世界)と比較的悪人が還る世界、すなわち地獄界が存在することになります。

生前に(比較的に)「悪」のほうを選んで生きてしまった魂、悪を心の傾向・癖として身につけてしまった魂は、いわゆる「地獄」と呼ばれる世界に還ることになるのです。

さらに言うならば、そもそも「地獄」や「来世」にすら旅立てない魂もおります。

地縛霊のケース

たとえば、自殺者などがそうです。

自殺するような人は、来世の存在を信じていませんし、自らの悩み・苦しみで一杯の状況です。

ですから、たとえば、飛び降り自殺をしたようなひとは、肉体が破壊されたとしても、まだ一応は意識は残っているわけですが(心は永遠ですので)、その意識・心というものが、自殺した瞬間の自らの心境・世界観(「人生はこの世限りだ」と言ったふうな)でビッシリ固定されてしまっている状況なのです。

客観的に見ると、それは「時間が止まっている」あるいは「時間がループしている」という感じになってしまうのですね。

そうすると、死後、意識が戻ると「自分は自殺しようとしたけど、どうやら失敗したらしい」と思い込み、その場所でまた飛び降り自殺を図ります。

これを延々と繰り返してしまうのです。

*参考記事:自殺をスピリチュアル観点から検証する – 死後、どうなるのか?

まさに、内的時間が閉じられれた価値観でループしている状態です。

これがいわゆる「地縛霊」という存在なのです。

浮遊霊のケース

また、浮遊霊という存在も居ます。

霊界は「心だけ」の世界ですので、その人の価値観や認識通りの世界が展開していきます。

それゆえに、「あの世なんかあるものか」と確信しているような魂には、まさに「あの世なんかない」世界が展開して、逆に言えば、「あの世にすら行けない」で地上を徘徊するような死後の生活が待っていることになるわけです。

浮遊霊

参考記事:浮遊霊の浄化のためにできること – お祓いなどをしても無駄な理由

阿修羅地獄のケース

地獄の中でもひとつだけ「阿修羅地獄」の例を挙げてみましょう。

阿修羅地獄とは、闘争と破壊を好む人間同士が集って作り上げている世界です。

そういう世界ですので、実際に阿修羅地獄では、互いに相争い、傷つけあい、殺しあう世界が展開しています。

また、四次元の世界ですので、「時間」の要素が加わっております。

たとえば、戦国時代で意識が止まっている人たちは、甲冑を着て戦をしています。そこに現代の意識を持った人が投げ込まれたりするのです。

戦をしていますが、実際は生き通しの世界でありますので、「切られた」「切った」と思っても、またムクムクと起き上がって、戦いを再開します。

このように、「我らがやっていることはどこかがおかしいのではないか?」と気づくまで、延々と同じことを繰り返しているわけです。

まさに内的時間がループしている状態です。

地獄界から天国世界へ赴く方法とは?

キリスト教などでは、地獄(火獄)へ堕ちると永遠にそこに居るかのように描写されていますが、実際はそのようなものではありません。

それでは、地獄から脱出し、天国へ赴くためにはどうしたら良いのでしょうか?

人間の本質は”心”である、と先に申し上げましたが、心とは一定のバイブレーション(波動)を発しているのです。

バイブレーション

そして、そのバイブレーションが似通った者同士が集まって一定の霊域を形成しているのですね。

超簡単に言えば、善なる心、善なるバイブレーションを持つ人は同じく善なるバイブレーションを持つ人と惹かれ合い、同じ霊域に住むことになります。

善人同士が相集っているからこそ、そこに天国的世界が現出しているのです。

逆に、悪なる心、そうしたバイブレーションを発している人は、同じく悪なるバイブレーションを発している人と惹かれ合い、悪なる霊域に集まっているのです。

さきに述べたように、積極的に他者を害するバイブレーションを持った人同士が集まると、そこに「阿修羅地獄」が形成されることになります。

本稿の論点に沿って言えば、阿修羅地獄に限らず、地獄界というものは、内的時間が”悪”への執着で止まってしまっている状況なのです。

阿修羅地獄で言えば、「怒り」という感情で内的時間が占められています。これは別の言葉で言えば、「執着」と言ってもいいでしょう。

釈迦仏教が繰り返し、「執着を断て」と教えているのは、執着を離れることによって、心が解放され、心のバイブレーションが悪なる状態から離れることができるからなのです。

地獄脱出の極意はまさにここにあります。

(悪なる)バイブレーションが一致している者同士が集まって地獄界ができているのであれば、悪から離れたバイブレーションへ変えていけば、波動が合わなくなり、地獄界から脱出できるのです。

そのための方法論が前回の記事で書いた「内省」であるのです。

*参考記事:内省のスピリチュアル的意味

内省によって心の洗濯をして、バイブレーションを変えてしまえば、物理学的法則により、自動的に地獄界から脱出できる寸法になっています。

ただ、そのためには、「内省の基準」を知らなければなりません。

内省の基準とは、まさしく神的実在の経綸そのもの、真理そのものなのです。

当サイトではそのためのヒントを数多く記事にしています。ぜひ、この機会に他の記事もいくつかお読みいいただき、現世と来世を貫いた幸福論を手にすることをお勧めいたします。

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