どうしても性の問題で罪の意識に悩まされる、あるいは、傷つけられて悩んでいる方も多いと思いますので、 このトピックで書いてみます。
不倫・浮気で地獄へ堕ちるかどうかをスピリチュアル的に検証してみる
スピリチュアル的観点から、浮気や不倫をすると地獄に堕ちるのか?
結論から言うと、「ケースバイケースである」ということになります。
「実在界(あの世)からわざわざ現象界(この世)へ生まれてくるのは、ボードゲームをしているようなもの」という例えをよく使っていますが、
現象界はあくまで、新しい知識・経験をゲットするために他人の家にゲームしにきているようなものなのですね。
*参考記事:人生をゲームと考える(人生RPG化)究極のコツ
帰宅後(つまり”死んだ”あと)、還るところが本来の世界である実在界なのです。
そして、実在界へ持っていけるものは、”心”しかない、家も財産も車も肩書きも持っていけない。
心の内容がすべて、ということになります。
たとえば、ここに邪淫戒(じゃいんかい/姦淫をしないという戒め)を守っている修行僧がいるとします。
この修行僧は配偶者以外の異性に触れたこともない。だけど、異性への欲望で毎日、悶々としている、と。
「戒律を守ってるんだから、当然、俺は極楽浄土!」と思っていることでしょうが…。
残念ながら、”こころが全て”なので、性欲に取り憑かれたこころを持って帰れば、これはやっぱり難しいものがある、ということになります。
一方、むかしの王様のように、後宮の女性たちをたくさん愛したもうたと。
でも、こころは特に執われはなく、政務に専念し、政治は立派。また、後宮の女性たちも幸せでした、という場合。
これは、逆に、天国的な心境、ということになります。
要は、行為そのものが罪になるということではないのです。
*もちろん、他人を傷つける行為は別問題ですよ。それについては後述します
心がすべてであるならば、やはり心の状態がどうであるか、が問題になるということですね。
イエス・キリストが「心のなかで思っただけで、姦淫の罪になる」と語ったのは、まさにこのことです。
性的問題について実在界での判定ポイントは何か?
性の問題で、実在界でどのように判定されるか、は2つのポイントがあります。
- 心が異性に執われて、精神性の向上がおろそかになった
- 関係者の心を傷つけた
この2つです。
性的行為そのものは善でも悪でもない、ということですね。
心の執われと、周囲の人間を傷つけたか、この2点が問題になると。
では、浮気や不倫はバレなきゃいいのか?って問題もありますが。
実在界に還れば、お互いの心はガラス張りのように分かってしまうので、その時点でバレてしまいます。
まあ、死んで数十年後にバレる分にはいいやーって、開き直りもあるかもしれませんけどね。笑
また、配偶者と同じ霊域に還るとは限らない、という視点もあります。天国・地獄などあの世(実在界)の構造については下記の記事をご参照ください。
*参考記事:十界と十界互具 ー 仏教における”世界”の階層構造論
イスラム社会では一夫多妻が条件付きで認められています。
キリスト教社会からみれば、悪魔の教えに見えるかもしれませんが、実際はそんなことはなくって。
中東という地域はむかしから戦争が多いので、ご主人を戦争で失って寡婦になる女性が多かったのですね。
そうすると経済的な自立が難しくなりますので、一夫多妻を認めることにより、救済措置をとっているわけです。
つまり、社会保障的な意味合いもあるのですね。
真理は地域・時代の特性に合うように説かれる、というのはこういうことです。
ゆえに、私たちの社会に話しを戻しますと。
性的行為自体は善でも悪でもない。が、性的なことがらに夢中になりすぎて、精神性を忘れてしまうとか、あるいは、不倫・浮気などで、配偶者・子どもなど周囲の人の心を傷つけてしまった場合は、やはり魂的にマイナスポイントが入る
ということになります。
特に、ひとは”愛情を裏切られた”ということには相当なダメージを受けますので、それ相応のマイナスポイントが入ります。
人生のトータルで天国的な思い・行為が多くなるよう配慮する
ただまあ、人は誰しも罪なくして生きることはできませんので。
マイナスポイントを作ったら、関係者に謝罪し、一応の内省をすると。
*直接、謝罪できないのであれば、そうした念を送るだけでもベターです。
そのあとは、あまり罪に執われ過ぎるのも、これも後ろ向きすぎるかな、と思います、個人的には。
むしろ、それを上回るプラスポイントを積み上げることを考えたほうが生産的でいいですね。
ここは会計の考えと一緒で、
負債があっても、それを上回る資産を積み重ねていけば、純資産としてはプラスになるわけです。
資産(善なる思い・行為)− 負債(悪なる思い・行為)=純資産
なので、純資産プラス=天国
ということになりますね。
したがって、浮気・不倫問題に限らず、「もうやってしまった…」ということでお悩みであるならば、そのことだけにとらわれず、今回の人生トータルで「天国的な思いと行為が多かった」というふうに、プラスを打ち込んでいくことを考えましょう。
以前には悪い行いをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。ー 雲を離れた月にように。(『ダンマパダ(真理のことば)』第14章173節)
色情系統の地獄 – 衆合地獄(しゅうごうじごく)
結論的には、上述したとおりで良いのですが、一応、色情系統の地獄について伝統的な仏教の立場からご案内しておきます。
色情地獄は、上述までの観点で言えば、「一生を通じた心の平均値」や「基本的な価値観」に色恋沙汰が染み込んでいる場合、赴く地獄ということになります。
地獄については、平安時代中期の恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)の『往生要集』に詳しいです。
地獄は大まかには八大地獄と呼ばれ、文字通り、8層構造とされています。
色情系統は、その中でも、浅いところから数えて3番目の「衆合地獄(しゅうごうじごく)」と呼ばれるところに分類されます。
この地獄では、刀葉樹(とうようじゅ)の責め苦が有名です。
獄卒(鬼)が亡者を刃のような鋭い葉をもつ木が繁っている林に連れ込みます。
木のてっぺんには、美女が座っていて亡者を誘惑します(女性の亡者にとっては、美男子が座っている)。そしてたまらず、亡者が木を登っていくと、刃のような葉が亡者の身体を切り刻みます。
それでようやく頂上へ着いたか、と思うと、美女(美男子)はかき消えて今度は樹の下にいて、誘惑してくるのですね。そしてまたそれを追いかけて身体が切り刻まれ……、
というのを延々と繰り返していく地獄です。
「そんな昔の説話の地獄が今どき…」と思ってしまいますが、あの世は時間軸も含まれている空間ですので、むかしの意識のままでいる亡者にとっては、現在もそのような地獄が展開していることでしょう。
あるいは、十二単(じゅうにひとえ)が現代風の衣装に変わって、現代的な刀葉樹が展開している可能性もありますね。
刀葉樹は有名な地獄ですが、現代人にとっては現代人の心のイメージに沿った地獄がさまざまに展開していると思われます。
あの世は、心の内容が風景として翻訳されてくる世界だからです。
なので、万一、「地獄に堕ちたかな?」と思われるようであれば、内省を行い、生前の生き様を反省することによって、心の波動(バイブレーション)を整えていくよう、留意しておきましょう。
心の波動が変われば、その波動に応じた世界に移行することができます。よくよく、内省が進めば、思ったより早く天国領域に還れることもあるかもしれません。
もちろん、地上に生きている内に内省が済めばそれがベストであることは言うまでもありません。
コメント
コメント一覧 (6件)
ちょっと気になったので補足いたします。
マイナスをプラスマイナスゼロにすることばかりに意識を向けていると、
人生が非生産的になるリスクがあります。
習慣論としては、「マイナスをやめる」よりも、「プラスを重ねる」ほうが簡単ですし、
その勢いで結果的に、マイナスも減らすことができます。
あまり大きな声では言えませんが、たとえば、明治維新の志士たちは遊郭などにも遊びに行ってますが
(情報交換の意味もあります)、きちんと菩薩界に還れている方々がたくさんいらっしゃいます。
要は、「メインの人生観が何であるか?」ということですので(「心の平均打率」)、
この”メイン”を確立して進めていくことですね。
記事にも、「負債と資産、純資産」の話がありますが、
トータルで、いかに純資産を作っていくか?
ということを考えられたほうが良いかな、と思います。
ご返答ありがとうございます。
理想主義、教条主義的になって社会性を犠牲にしてしまい、気づいたら日常的な共感能力が低下していて修養への疑問を感じました。
日常一般的な営みを心の何処かで見下して勝手に壁を築いて高踏的になっていたのかもしれません。
確かに幾ら煩悩を物理的に遠ざけたところで心からは消え去ってくれず、煩悩の炎は益々心身を蝕むような激しさを持って襲ってきます。
対人関係や性的コンプレックスがもとで若いときに異性との関係を諦めていたのですが、この心の囚われが収まらない以上は行為の有無に関係なく報われることはないのですね。
今更簡単には修正は出来ないかもしれませんが、死ぬ間際までしぶとく自助の方途を見出していきたいと思います。
ご丁寧に応対して頂きありがとうございました。
コメントありがとうございます。
>健康体でありながら死ぬまでに一度も性的経験を得ないと地獄へ落ちることはありますか。
ありえます。基本的には、まずは心の内容がすべてですので、事実としての性的経験がなくとも、
心が性的欲求の炎で燃え上がっていたのであれば(それが心境の平均値になるならば)、
色情地獄行きもありえる、ということになります。
>邪淫、姦通は罪だとされますが不犯は精神修養にとって一生守るべきでしょうか。
釈尊の時代は、「修行のプロフェッショナル」を養成するという眼目で、あえて、出家集団を作っていました。
出家教団については、性的接触は(心の内容も含めて)絶対的に禁止でしたね。
一方、在家にとっての邪淫戒は、絶対的邪淫戒ではなく、「配偶者以外と性的接触を持つのは好ましくない」ということです。
誰しもが魂の修行ができるという意味では、むしろ、今後の時代は、「世俗内禁欲」がキィワードになってきます。
すなわち、通常に結婚などをしていながら、性的欲求に過度にとらわれることなく、霊性・精神性を重視した生き方ができるかどうか?
という修行ですね。
やはり、ポイントは、「行為そのものがあったか/なかったか」ということではなく、
そちらのほうに過度に執われて、霊性・精神性の修行がおろそかになっていなかったか?というところにあります。
本来は、そのための防波堤として邪淫戒が定められたのです。
ケイスケ様の今までの修行もやはり尊いです。
しかしもっと尊いのは、今度は、「世間にありながら、霊性・精神性を重視する生き方ができるかどうか?」というところですね。
不犯そのものが真理であるならば、この世は存在自体が悪であるということになってしまいます。
そうではなく、この世は、魂の経験の場として用意されている尊い場です。
したがって、地上世界を存続させるための夫婦の営みもやはり尊いものと考えるべきです。
不倫・浮気などがよくない、というのは、地上の仏国土化を阻害することになるから、なのです。
性的な問題についても、やはり、「中道」が肝要であるということです。
コメントありがとうございます。
同性愛(あるいは、LGBT全般)については、難しいところがあります。
性愛そのものは、善でも悪でもなく、それをどのような方向で使うか?で、
善悪が分かれてきます。仏国土化を促進する方向であれば、それはむしろ”善”である、
ということになります。
神は、人類を男女に分けて作られ、そしてこの世界を「善し」とされていますので、
少なくとも地球型の魂のあり方としては、やはり異性愛のほうが無理なく神のみ心にかなっているのは確かです。
なので、「同性愛それ自体では罪にならない」という認識は合ってはいますが、
地球型の修行の方向性としては、あまりお勧めできない、少なくとも同性愛がスタンダードになるレベルは
神のみ心にはかなっていない、という回答になります。
興味深く記事を拝謁させて頂きました。
お聞きしたいのですが、健康体でありながら死ぬまでに一度も性的経験を得ないと地獄へ落ちることはありますか。
これまで煩悩を遠ざけるために異性との接触をせずに生きてきましたが、何か世間からの疎外感というか世間へ共感を持てなく感じていて修養の意義が分からなくなりました。
邪淫、姦通は罪だとされますが不犯は精神修養にとって一生守るべきでしょうか。
毎度素晴らしい記事をありがとうございます。例えば,キリスト教会は同性愛を神の御心に反している,罪深い行為だとして裁いてきました。しかし,行為そのものが罪にならないとすれば,不倫や浮気と同じように同性愛も罪に定めるというのはおかしな話になりますよね?やはりネオ仏法としては,同性愛もそれ自体では罪にならない,という認識であっていますか?