過去の罪の意識・罪悪感で自分が許せず、「自分は幸せになる資格がない」と苦しい思いをしている人は、じつは結構な数でいらっしゃるのではないかと思います。
そうした過去の過ちから自由になるにはどうしたらいいのか?
スピリチュアル的・超宗教的な観点から今回は考えていこうと思います。
人は過ちなくして人生は歩めない
これは標題の通りなのですが、人は過ちなくして完璧な人生を歩むことは無理なのです。
微生物レベルまで考えれば、殺生は避けられない
「悪いこと」と言えば、細かく言えば、「虫を殺す」などがありますが、微生物レベルまで考えると、どうしても(仏教で言うところの)「不殺生」を犯していることになります。
知らずに蟻を踏んで歩いていることもあるでしょう。
インドでは昔から、虫を踏まないように、箒で道を掃きながら歩いていく宗教(ジャイナ教)がありますが、前述したように微生物レベルまで見るならば、「絶対に殺さない」というのは無理なのです。
また、「殺生」という観点からよくよく考えてみれば、私たちは生きていくために食事をしなければなりません。そこで、なんらかの動植物の生命を頂いて生きているわけです。
間接的にではあるけれども、ここで殺生が行われているわけです。殺生の上に私たちの肉体生命の維持が行われているのです。
「ベジタリアンになればいい」という見方もあるかもしれませんが、実際は植物ももちろん生命であり、またスピリチュアル的にみれば魂もあります。最低限の「殺されたくない」「摘まれたくない」という思いをじつは持っているのです。

ここらへん、どう考えるか?「虫や動植物を殺すことはスピリチュアル的にどう考えるべきなのか?」については、別記事で詳述していますので、参考になさってください。
*参考記事:虫や動植物を殺したらスピリチュアル的に罪になるのか?
輪廻転生の過程を考えてみる
過去の過ち・罪障ということで言えば、一番罪が重いことの代表が「殺人」であろうかと思います。
殺人は他者の人生における霊性進化の機会を強制的に奪うことであり、またその周囲の人々をも不幸のどん底に叩き落とします。ゆえに、罪が重いのです。
ちなみに、自殺も殺人の一種です。自らの霊性進化の機会を放棄し、周囲に人間を悲しみに突き落とすからです。
自殺した場合、「救われる」どころか、スピリチュアル的に観れば事態はより悪化します。
*参考記事:自殺をスピリチュアル観点から検証する – 死後、どうなるのか?
今生の人生で仮に殺人を犯していなかったにしても、永遠に近い輪廻転生の過程でみれば、戦争などの機会をも考慮に入れれば、人は一度ならずとも殺人の罪を犯したこともある、と言っても良いでしょう。

それだけ重い罪を犯しているにもかかわらず、今、「生きていることを許されている」ということを考えてみましょう。
今、あなたが悩んでいる罪悪感は殺人と同等でしょうか?それ未満でしょうか?
仮にもっとも罪が重い殺人の罪と同等であったとしても、それでもなお「生かされている」という事実があります。
むろん、それだからと言って、開き直って良い、というわけではありませんが、後述するように、十分に反省をし、犯した罪を乗り越えるだけの善を積み重ねていくことによって、トータルではプラスの人生を歩むことも可能なのです。
「人が過ちを犯しやすい存在である」ということは織り込み済み
人は肉体をまとって生きている限り、盲目で手探りで人生を歩んでいるのと同じような状況なのです。
それゆえに、過ちも犯しやすい。
そうしたことは、神的実在や高級神霊もよく知っていながら、輪廻転生のシステムを構築しているのです。
これも後で詳述しますが、過ちを犯しても、心から悔い改める・反省をなすことによって、罪は上書きされることになっているのです。
過ちを乗り越えて、かつ、犯した過ち以上の善を積み重ねることで、人はプラスの人生を歩むことができるのです。
この地上にわざわざ肉体をまとって生まれてきた理由は「霊性進化」のためです。
実在界(あの世)はバイブレーション(波動/波長)の世界であるため、ひとは自らと同等・同種のバイブレーションをもつ人と一緒に暮らすことになります。

それはとても居心地の良いことですが、反面、「今以上の進化が難しい」という難点があるのですね。
肉体をまとうことによって、バイブレーションの違う人とも会うことができるようになります。そこに大きな学びと魂の器を大きくする機会が与えられているのです。現象界(この世)とは、そうした大いなる霊性進化の場であるのです。
参考記事:人生の意味とミッションとは?
罪の意識からどう立ち直っていくか?
反省で罪の上書きをする
人の思いと行いは、霊的な記録磁気のようなものにすべて記録されています。
よく、死の直前に、「一瞬にして生涯を振り返った」という経験をされる方がいらっしゃるじゃないですか。
あれは、映画を早送りするように、記録磁気媒体のなかにその人の「思いと行い」が記録されており、それが一瞬で再生されているのですね。
イメージ的には、(世代的には古いイメージですが)「カセットテープ」のようなものだとイメージして頂いてよろしいかと思います。

そのカセットテープには、マイナスの思いですね、今回のテーマで言えば”罪”の記録も残されているわけですが、じつは、(仏教的にいえば)八正道などの内省を行なっていくと、罪などのマイナスの部分もプラスに上書きされていく、という霊界の秘密があるのです。
*参考記事:八正道の順序と覚え方のコツ – 中道の実践とはなにか?
世界的な宗教でも、「悔い改め」「反省」を説かれているのは、ここの部分に相当するからなのです。
なぜ、そのようなことが可能なのか?
それは、「時間とはそもそも何であるか?」にも関わってくる問題なのですが、下記の記事で詳述していますので、参考になさってください。
*参考記事:「反省すると罪が清められる」ということを哲学的に証明する – 持続する現在意識 –
罪を認め、神的実在に告白をなし、関係者に謝罪をする
それでは、心から反省するためにはどうしたらいいか?
それはまず第一に「罪を認める」ことから始まります。
キリスト教的な文脈から言えば、”罪”とは本来、「的外れ」という意味なのです。
どこから的を外しているかというと、神的実在の摂理を基準にして、そこから外れているということなのです。
神的実在は、究極的には智慧と慈悲の塊であり、すべての良き属性を備えています。
そうした神的実在の分光である私たちにも、神的実在と本質的には同じものが宿っております。それを昔から「神性」「仏性」などと表現しているのです。

道徳的には、「良心」「道義心」と言っても良いでしょう。
人は他者は欺けても自ら自身は欺けないものです。
静かに振り返ってみれば、それが神性からみて”的外れ”であるか否か、罪であるか否かは分かるものです。
そうしたことに気付いたならば、まずは神的実在に対して「申し訳なかった」「真理の摂理に反していた」という心を起こすことが大事です。
次に、自らが傷つけてしまった人に謝罪することです。
直接会うことができないのであれば、心の中でいいので、「申し訳ありませんでした」と謝罪することです。そして、その相手のその後の幸福を心から祈念することです。
このように、
- まずは、罪を自覚し、神的実在に告白をする
- 関係者に(心の中でもいいので)謝罪をする
こうしたことが大事です。これが、すなわち反省であり、こうしたことをすることによって、罪は上書きされていくのです。
そして、十分に反省を成したならば、自分を許す勇気を持ちましょう。
真理のちから、目覚めのちから
信仰心による解脱
罪を”罪”とハッキリと自覚するためには、自覚のための基準が必要です。
前述したように、人間は自らのうちに「神性」「仏性」「良心」などと呼ばれるものがあり、それが基準とはなっているのですが、知識レベルで知っていないと、なかなか明確には「罪を罪」として自覚することは難しくなってしまいます。
そのために、まずは知識として真理を知ることが大事であり、その真理は数多くの偉人たちによって説かれてきました。
その代表的な存在がイエスや仏陀であることはご存知でしょう。
キリスト教においては、「イエスを信じれれば救われる」と説かれていますが、じつは仏教においても、「信解脱(しんげだつ)」という思想があり、これは文字通り、「仏陀への信心による解脱」なのです。
解脱とは、無知・無明の執われから脱し、自由自在の境地になることです。
アングリマーラの逸話
仏陀・釈尊の時代にアングリマーラという殺人鬼がいました。一説によると、999人も殺したという凄まじい殺人鬼です。
まあ…インド人は誇張した表現が好きなので、本当に999人であったかどうかはともかく、相当な人数を殺めたのは事実でしょう。
アングリマーラはある時、仏陀をも殺そうとしたのですが、逆に仏陀の威神力(いじんりき)に打たれ、仏陀に帰依してしまいます。そして、真面目に修行・善行に励みました。
ある時、アングリマーラは難産で苦しんでいる女性に出会います。
仏陀に相談をすると、仏陀はアングリマーラに以下の偈文を授けました。
生まれてこの方、一度も命を殺したことのない尊い修行をしてきた私の法力によって、この母子は祝福されて安からん。
これを聞いたアングリマーラ自身も驚きましたが、実際にこの偈文を唱えたら、女性は無事に出産したのです。
アングリマーラについては、殺人鬼になる過程とかいろいろ話があるのですが、詳しいことを知りたい方はWIKIなどをご参照ください。
ともかくも、真理に帰依し、信心・善行に励むことは過去の罪を上書きするだけの功徳があるという一例です。
人生のバランスシートを考えてみる
会社の経営に「バランスシート(貸借対照表」というものがあるように、人生も一種の「自らの経営」であり、バランスシートとでも言うべきものがあります。
会社では、総資産から負債を差し引いたものが「純資産」として計上されます。
資産より負債のほうが多ければ、その会社の純資産はマイナスであり、一言でいえば「赤字経営」となっているわけですね。
人生においては、人は良いこともすれば悪いこともします(思い、動機も含まれます)。
人生において、良いことから悪いことを差し引いたものがその人の純資産であり、その人の「決算」であるのです。
それゆえに、「悪いことをしてしまった」という罪障感があるのであれば、その罪を上回るだけの善行を積み重ね、純資産を黒字にすればいいのです。

単純にいえば、善行が悪行を上回っていけば、(宗教的にいえば)天国的世界に還ることができます。
それにプラスして、「赤字を減らすこと」、これはつまり先に申し上げた「反省により罪の上書きをしていく」という行為を積み重ねていけば、人生の経営はますます、黒字経営になるのです。
このように、「人生のバランスシート」を考え、できるだけ「純資産」を増やしていくようにしましょう。
純資産が莫大に大きな存在が、菩薩と呼ばれる存在なのです。
今、過去の罪に囚われて身動きが取れないくらいであるならば、いっそ、あなたも一念発起して菩薩を目指してみませんか?
当サイト(ネオ仏法)では、そのための知識をふんだんに発表しています。
一人でも多くの方が罪の意識から解放され、さらに真理に目覚め、菩薩への道を歩まれることを願っています。



コメント
コメント一覧 (2件)
>高橋美香様
記事がお役に立ってよかったです🎵
本格的に反省行をやるのであれば、やはり八正道がいいです。
「あ、わるいこと言ってしまった、いけない!」というだけだと、もちろん反省しないよりマシですが、
その場限りの反省と言いますか、根本治療にならないのです。
正見(ある価値観があって)→正思(ある思いが出てくる)→正語・正業(そして、ある言葉と行為がでてくる)
という順番で、すべては「真理的価値観が体感ベースで染み込んでいるか?」というチェックに行き着くのですね。
反省の順番としては、逆順に見て、
正語・正業→正思→正見
というふうに遡っていくと、やりやすいと思います!
罪を罪と認め真っ直ぐに反省と謝罪を、心の中での行為にも意味を見出して頂けるとは、深い救いだと安堵と感謝を感じました。わだかまりを拾い、一つずつ取り組んでいきたいと思います。いつも慈悲深い配信を、本当にありがとうございます。