「情けは人の為ならず」は、
「他人に情けをかけることは、めぐりめぐって自分に還ってくるものだ」
という意味ですね。
よく、
「情けをかけることは結局、相手のためにならない」
という意だと誤解されているのは、「ならず」が
現代語をベースにして解釈されてしまうからです。
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古典文法で、「人の為ならず」を説明すると、
断定の「なり」+ 打ち消しの「ず」
で、
「人のためだ」+「〜ではない」
→
「人のためではない」
ゆえに
「自分のため(にやるもの)である」
と、スッキリくるわけです。
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「情けは人の為ならず」は、
このように、奥深いことわざではあるのですが。
精神界の秘儀から言えば、
じつは、もっともっともっと奥深い意味があるのです。
精神界の秘儀とは何か。
それは、
「めぐりめぐって自分に還ってくる」
ということももちろんあるでしょうが、
それ以前に、
「情けをかけた瞬間に(その情けは)自分のポイントになる」
という法則があるのです。じゃじゃん!
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スピ哲で繰り返し書いていることですが、
本来の成功とは、
「エナジー(個性ある意識体)としての自分を、神々に近づけてゆくこと」
なのです。
近づけていく、というのはすなわち、
自らの性質を神々の性質に似せていくということなのですね。
で。
神々の性質とは何かというと、
「太陽のように与えきりの、無償の愛の存在である」
ということになります。
(古今東西、”太陽信仰”があるのは、実は、こういう意味合いがあります)
ということは・・・、
他人に愛を与えた、その瞬間に、
神々の性質と同じものを発揮したということになります。
つまり、与えた時点で、スピリットとして、
神々に一歩近づいたということ。
近づいたということは、
エナジーとして”成功した”ということになります。
つまり、「めぐりめぐってくる」というのは、
物質界的に、自分に恩恵が還ってくるということも
あるかもしれませんが、
本来の自分というのは、エナジーとしての自分なので、
「めぐりめぐって還って云々」はオマケみたいなものなんですよ。
めぐりめぐらなくても、愛を与えたその時点で、
与えた愛の分量だけ、スピリットとしての自分を
成長させた(神々に近づけた)ということになるんですね。
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そういうわけで、”情けは人の為ならず”と
はじめに言った人が、どこまでの意味合いを
悟っていたか、にもよるのですが、
精神界の法則から言えば、
「情けをかけた、まさに瞬間に、その情けは自分のものになっている」
というのが真実なのです。
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