この世、現世は多くの人にとって辛く、厳しい世界でしょう。
それゆえに、あの世、来世を素晴らしいものと信じることによって慰めを得ることが心の支えになったりします。
これがまさしく、「この世は地獄、あの世は天国」という発想になっていると思います。
私は完全にこの考え方が間違えだとは言いませんが、一方でかなり誤解を生むところもあり、何より現世を無駄に過ごしてしまう可能性がある危険性があると思うのです。
今回は、「この世とあの世の関係性」を深掘りして、「この世は天国、あの世も天国」の可能性を模索して参ります。
現世の否定から来世への希望へ
宗教とスピリチュアリズムの第一段階
この世、現世では人は放っておくと動物的な存在になり、欲望に振り回され、享楽的な人生を過ごしてしまいがちです。
逆に、この世の辛さに絶望して自殺を図るひとさえ現在ではけっこうな割合でいらっしゃるのが現状です。
参考記事:自殺をスピリチュアル観点から検証する – 死後、どうなるのか?
それゆえに、宗教の役割の第一段階として、来世への希望を説き、「神(仏)が常に私たちを見ていらっしゃる」ということを道徳の基礎に置くことが多いのですね。
これはまずは大切な考え方であると思います。
現代の道徳の荒廃は、こうした「神的実在が常に私たちを見守っている」という思想から離れてしまったというところに源泉があるように思えるのです。
日本でも随分前では、「ご先祖様が常に見ていらっしゃる」ということが道徳の基礎になっていました。
日本は良くも悪くも「曖昧な」ところがある国ですので、一神教的な考えにはなかなか馴染めず、いわば神仏儒(神道・仏教・儒教)習合的な価値体系が築かれていたと言えるでしょう。
現代日本では宗教を否定することが知性の証しであるかのように捉えられがちです。
ところが欧米では、たとえば、「無宗教である」と公言すると家(賃貸)を貸してくれない大家さんもけっこう居ると聞きます。
なぜというに、「宗教を持ってない人はいったいどこに道徳の基礎があるのか疑わしい、何をするか分からない」という心配があるからです。
このように、まずは、この世の辛さの慰めとして来世への希望を説き、また、道徳の基礎として宗教やスピリチュアリズム(ご利益スピリチュアルではなく、当サイトで言うところの”真理スピリチュアル”)が機能していると言っても良いでしょう。
*参考記事:真理スピリチュアルと呪術スピリチュアルの違い
そうした意味では、現世は濁世(じょくせ)であるが来世は素晴らしい世界である、すなわち、「この世は地獄、あの世は天国」思想も一概に否定できないものであると言えるのです。
釈迦仏教や浄土教から検証してみる
上記のことをまず、釈迦仏教・原始仏教から検証してみましょう。
釈尊は有名は「四諦八正道(したいはっしょうどう)」を説きました。
四諦とは「四つの真理」のことです。
その四諦の初めに「苦諦(くたい)」を置きました。「苦しみは真理である」ということです。これはもちろん、この世・現世における苦しみのことです。
苦諦とは、これも有名な「生老病死」から始まります。これは何人(なんびと)も逃れることはできません。
- 生:生まれてくる苦しみ
- 老:老いていく苦しみ
- 病:病を得る苦しみ
- 死:やがて死にゆく苦しみ
このなかで「生」のところが若干分かりづらいかもしれません。この「生苦(しょうく)」を「生きていく苦しみ」と解説してある本もありますが、これは誤りで、「生まれてくる苦しみ」が正しいのです。
なぜ、「生まれてくる苦しみ」であるのか?
それは、本来、自由自在な天界からわざわざ苦しみの多い地上世界に生まれてくるからです。そしてやがて来る「老・病・死」の始まりとなっています。なので、生まれてくることは苦しみである、という解釈をとるのです。
これ以外にまた4つの苦しみがあります。
- 愛別離苦(あいべつりく):愛する人と別れる苦しみ
- 怨憎会苦(おんぞうえく);嫌いな人と会う苦しみ
- 求不得苦(ぐふとくく):求めても得られない苦しみ
- 五蘊盛苦(ごうんじょうく):心身の欲求が突き上げてくる苦しみ
これらを合計すると八つの苦しみになりますので、よく言われる四苦八苦となります。
繰り返しますが、釈尊は(この世における)「苦しみは真理である」と説いたのです。
そして、執着を断つ修行により、この世とオサラバする涅槃(ねはん)を説いたというわけです。
*涅槃にはもっと深い解釈がありますが、とりあえあずは第一段階としてはこのように理解することが可能です。
*参考記事:解脱と涅槃の違い – 仏国土論としての涅槃まで見抜いていく
時代は下って、日本の鎌倉期におもに説かれていた浄土教も「この世は苦しみである」と説きました。
この世を「穢土(えど)」と捉えたのです。文字通り、穢らわしい世界という意味です。
だからこそ、「南無阿弥陀仏」と唱える(称名念仏・しょうみょうねんぶつ)ことによって死後、極楽浄土へ生まれることができる、という論理構造になっているのですね。
合わせて、「欣求浄土・厭離穢土(ごんぐじょうど・おんりえど)」と言います。
「浄土をひたすら求め、苦しみの多い現世から離れていく」という意味です。
このように、原始仏教にせよ、大乗仏教における浄土教にせよ、かんたんに言えば、「この世は地獄、あの世は天国」と説いたと言ってもあながち間違いではないのです。
現世の肯定へ再帰する
あの世に<本来性>がある根拠
「この世は地獄 あの世は天国」思想もあながち間違えとは言えない、と上述しました。
ただ、この思想のままでいくと、何のためにわざわざこの世、地上世界に生まれてきたのか?その意義が分からなくなってしまいますね。
現世において、ひたすら来世を希求するだけであるならば、そもそも現世に生まれず、あの世にずっと留まっていれば良かったわけです。
ところが、実際に私たちはこの世に生まれてきているわけですから、ここに「この世の意義」というものが何かしらあるに違いない、と想定できるのではないでしょうか?
ここでは、まず「この世とあの世の関係性」を確認してみる必要がありそうです。
そもそも、私たちが「この世は地獄 あの世は天国」と発想する根拠は、「あの世は良きものである」というところにあります。
それでは、なぜ、あの世を良きものだと思うのでしょうか?
それは、私たちの本来の根拠地がこの世ではなく、あの世にあるからなのです。あの世に本来性があるのです。
「この世は地獄」というふうに”悲惨”を感じるということは、逆に言えば、私たちは潜在的に、<悲惨でない世界>を知っているからなのです。
たとえば、人は自分が王でないことを嘆いたりするでしょうか?
王でないことを嘆く人というのは、もともと王位にあって王位を追われた人がその惨めさを感じ取っているからなのです。王位に<本来性>を感じているからこそ、王位にない現状に”悲惨”を感じるのではないでしょうか。
*参考図書:『パンセ』(パスカル著)
これと同様に、私たちがこの世に悲惨を感じるということは、悲惨でない、あの世こそが<本来性>であることを潜在的に知っているからなのです。
かんたんに言えば、あの世こそが私たち人間の故郷であるということになります。
この世は、いわば魂の学びのために「林間学校」へ来ているようなものなのです。
この世とあの世の関係性
それでは、具体的に、この世とあの世はどのような関係になっているのか、考えてみましょう。
心こそが全て
この世とあの世に共通しているのは、私たちの本質が”心”にあることです。
今生きているこの世において、私たちに心があることは否定できませんよね。日々、時事刻々、何かを感じ、考え、悩んだり、希望を持ったりしています。
それらの感情や考えは、本当にすべて脳の作用に還元されるのでしょうか?
たとえば、私たちが深く感動する時、胸のあたりから込み上げてくるものがあります。胸の辺りがポカポカする感じがする時もあります。
また、やる気が起きてきた時、丹田のあたりから、ぐーーっと力が込みがげてくることもあります。
このように、私たちのの感情や考え、一言でいえば”心”ですね、心は脳の働きにすべて還元できないところがあるのです。
・・・というよりも、脳はあくまで心の出先器官に過ぎないのです。
例えて言えば、人間とパソコンの関係のようなものです。
パソコンは記憶をしたり、さまざまな機能を果たしますが、それを操作する人間がいなければ、ただの「箱」にしか過ぎませんよね。
これと同様に、脳はパソコンのようなもので、それを使いこなしているのがまさに”心”なのです。心が先立っているのです。
心こそがこの世とあの世を貫いて、存在し続けるものなのです。
バイブレーション一致の法則
ところで、心には一定のバイブレーション(波動/波長)があります。
この世でも、「あの人とは波長が合う」という言い方をするように、バイブレーションが似通った者同士は惹かれ合う傾向があります。
それが「心だけ」のあの世の世界に行くと極端に現れるのです。
すなわち、心のバイブレーションが似通った者同士が一定の霊域を形成しているのです。
たとえば、「怒り」のバイブレーションを持った者同士が集まれば、そこは、お互いに怒り合い、傷つけ合う世界になることは想像に難くないですよね。そういう世界が昔から仏教で言われている「阿修羅地獄」になっているのです。
一方で、心が優しさに満ち、他人への善意に満ちた人はそうしたバイブレーションを持った人同士が惹かれ合い、集まっています。そうすると、そこはいわゆる「天国」になるだろうことはお分かりですよね。
あの世はこのように「バイブレーション一致の法則」が極端に現れる世界なのです。
ですので、私たちは現世において、自らの「心の平均値」につねに気をつけていなければなりません。この世における心の平均値こそが、来世、赴く世界を決めるからです。
私たちはこの世において様々なものに執着しています。財産や名誉、地位、肩書などに執着しています。
でも、それらはまったく本質的なものではなく、あの世に持っていけるものではないのです。
あの世に持っていけるものは”心”だけなのです。
そうであれば、心を素晴らしいものにしていくしか、本当の意味での成功、自己実現はない、と言い切っても良いのです。
地獄からの脱出法
ちなみに、心のバイブレーションが一致して地獄領域に堕ちてしまった場合、どうすれば良いかと言いますと、結局のところ、「その地獄的な心のバイブレーションを変えていけば良い」というのが答えになります。
すなわち、内省ですね、自らの生前の思いや行動を振り返り、間違っているところがあれば反省し、神仏や迷惑をかけた人に心から詫びることです。
*参考記事:内省のスピリチュアル的意味
そうすれば、心のバイブレーションが天国的なものに変わってきますので、まさにバイブレーション一致の法則により、地獄から抜け出すことができるようになるのです。
また、そうした内省をしていると、導きの霊人がやってきて手助けをしてくれます。
この世に生まれ変わる時
さて、心のバイブレーションの一致により、あの世で住むべき霊域が決まるというお話をいたしました。
そうしますと、かんたんに言えば、「気の合う人同士」が集まっているのが来世、あの世でありますので、気は楽なのですね。
気は楽ではあるのですが、長い間そこに住んでいると「飽きが来る」面もあり、また魂の修行が頭打ちになってくるのです。
周りが自分と似たような人ばかりですので、いつかはそうなりますね。
そう感じ始めたときに、「生まれ変わり」の計画をし始めるのです。
地上では肉体をまとっていますので、バイブレーションの違う人とも顔を合わせることになります。
自分とは霊格の違う人、趣味・趣向が違う人と会うことができます。また、地上世界も(前に生まれた時より)変化していますので、新しい環境に住むことになります。
ここにおいて、大いなる学びがあるのです。
あの世では会えないような霊格の高い人と会うことができる、というのは大きなことです。また、新しい趣味・趣向の良さに目覚めて魂の幅を広げるきっかけにもなります。
これが人間が地上に生まれてくる意味なのです。新しい智慧を獲得するということです。
そして、自らの資質をもって、地上の仏国土化へ貢献していくこと、これが人生のミッションです。慈悲の実践です。
まとめますと、
- 人生の意味:智慧の獲得
- 人生のミッション:慈悲の実践
ということになります。
*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします
この世もあの世も天国である生き方
この世での心境・行為があの世(来世)の行き先を決める
さて、「この世とあの世の関係性」について、もっと突っ込んで考えてみましょう。
先に、「この世での心の平均値が来世・あの世での行き先を決める」といった趣旨のことをお話ししました。
そう、これがまさしく真実であるのです。
この世は魂の修行にとって厳しい環境であるかもしれません。
ただ、何のために地上に生まれてきたかというと、これも前述しましたように、「新たな智慧の獲得、慈悲の実践」のためであるのです。
そうであるならば、厳しい条件・環境が出てきても、それは魂を磨くための砥石としてある、ということまで見抜かねばなりません。
どのような条件・環境であっても、それを魂の学びとして乗り越えていくところにさらなる喜びがあり、そこにこそ、この世にわざわざ生まれてきた意義があるというものです。
幸福論の基礎を、「魂の学び、人と世への貢献」に置くのです。「智慧の獲得と慈悲の実践」です。
そしてそれらは主体的なものであり、自らのコントロール内にあります。
そして、心をどれだけコントロール下においたか、自らの心の王国を守り抜いたか、が来世の行き先を決めるのです。
因果の理法(原因・結果の法則)はこの世とあの世を貫いている法則です。これを眩ますことはできないのです。
この世において結果が現れなくても、来世・来来世まで含めて射程において考えれば、因果の理法は必ず完結するのです。
それゆえに、善因善果・悪因悪果であることは誰しも逃れることができない真理であるのです。
繰り返しますが、「この世における心境・行為があの世での行き先(霊域)を決める」のです。
この世で天国、あの世でも天国
前述しましたように、幸福論の基礎を「智慧の獲得、慈悲の実践」に置けば、この世においても幸福であることが可能なのです。これすなわち、この世に天国が現出するということです。
宗教・スピリチュアルの第一段階においては、いったんこの世を否定し、あの世の天国を願うことになりますが、第二段階においては、再びこの世に舞い戻り、この世の積極的な意義を見直すわけです。
繰り返しますが、ただ単に天国を望むだけであるならば、わざわざ地上世界に生まれてこなくても良かったわけです。
そうではなく、わざわざこの世に生まれてくるということは、この世にそれだけの学び、喜びがあるということなのですね。
実際、基本的には、この世で幸福に生ききった人があの世でも幸福な生活を送ることになるのです。
まさに、「この世で天国、あの世でも天国」が実現することになるのです。また、そういう自分のあり方を強く肯定しましょう。




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