解脱と涅槃の違い – 仏国土論としての涅槃まで見抜いていく

涅槃 意味

解脱と涅槃については、個人的には、仏教のなかで最も誤解されている概念だと思っています。

仏教書を何冊か読んでも、「解脱、涅槃とは何か、どうもスッキリと腑に落ちない」という方が多いのではないでしょうか?

上座仏教では、涅槃にほぼ近い概念で、”灰身滅智(けしんめっち)”という言葉を使うときがあります。

これは文字通り、「身を灰にして智を滅する」ということではありますが、この場合の”智”とは「心の働き」を指すようです。

そうすると、「要するに、身も心も無くなってしまう、何もかも無くなってしまうのが灰身滅智であり、涅槃なのか?それが上座仏教の目指す境地なのか?」ということで、それが本当に幸福論とイコールになっているのか、目指すに足る境地なのか、かなり迷いが生じてしまいます。

まったくの無になってしまうことが涅槃であるならば、なにゆえに個性を持って地上に生きているのか、かけがえのない思い出もすべて無駄であったのか…?などなど、疑問は深まるばかりです。

思い出

また、そうした「無に帰る」ことを、シンプルに羨ましく思えるのか?それが釈尊の本意であったのか?私などはとても納得ができません。

解脱および涅槃というのは、じつは、実在界(ひらたく言えば”あの世”)の存在を前提にしないと絶対に理解できない概念および境地なのです。

ところが、近代仏教学の負の遺産として、仏説イコール無霊魂説がはびこってきた関係で、解脱・涅槃を現象界(ひらたく言えば”この世”)のみの視点でしか捉えられてこなかったことが「解脱・涅槃が何のことだか結局、分からない」という原因になっているのです。

*参考記事:仏教は霊魂を否定していない – 無我説解釈の誤りを正す

もっとも、いつの時代でも「実在界を前提にする」というのは難易度が高いですので、古くは部派仏教の時代あるいはそれ以前からすでに誤解は生じていたのではないかと思います。

*部派仏教:釈尊の死後百年から数百年の間に仏教の原始教団が分裂して成立した諸派の仏教

今回は「解脱(モクシャ)、涅槃(ニルヴァーナ)とはそもそも何であるか」というテーマでなるべく分かりやすく語ってみたいと思います。

まずは、伝統的な仏教学からスタンダードな”解脱・涅槃観”を振り返りつつ、後半の方で、「解脱から涅槃の境地を得ることは、釈尊の本意としてはどのようなものであったか?」を確認していきます。

目次

解脱と涅槃の違いとは?

解脱と涅槃はけっこう似たような概念で、混同して使われていることが多いように思われます。「解脱と涅槃はどこが違うのか?」と迷ってしまいますよね。

身も蓋もないくらいに簡単に言ってしまえば、

  • 解脱:自身が迷いを突破し、悟りを得ていくという動的状態
  • 涅槃:解脱の結果、得られる平安な境地という静的状態

おおまかには、こういう理解でよろしいかと思います。

なので、「涅槃を解説すれば、結果的に解脱を解説したことにもなる」と言えますので、以下、用語としては”涅槃”を中心に解説してまいります。

”解脱”を中心に解説した記事はまた別途ありますので、参考になさってください。

*参考記事:解脱するとどうなる? -「輪廻から抜け出す」は誤りである理由

涅槃(ニルヴァーナ)の意味を原義から探る

涅槃は、サンスクリット語で”ニルヴァーナ”、パーリ語で”ニッパーナ”と言います。原義は、「火を吹き消す」という意味で、これは仏教の文脈で言えば、「煩悩の火を吹き消した安楽な境地」を指すのですね。

仏教では、苦しみの原因を「煩悩から生じる執着にある」と喝破していますので、逆に言えば、「煩悩を消してしまえば苦しみはなくなる」という論理になります。

そうした苦しみが滅した状態を”涅槃”と呼んでいるのです。

四諦八正道から”涅槃”の意味をチェックする

仏教と言えば、”八正道”が有名ですよね。流れとしては、”四諦八正道”ということになります。

四諦の”諦”とは「真理」という意味です。なので、四諦は「4つの真理」ということです。具体的には、苦・集・滅・道(く・しゅう・めつ・どう)の4つです。

四諦八正道については、下記の記事で詳述していますので、参考になさってください。

*参考記事:四諦八正道のわかりやすい解説と覚え方

それぞれを簡潔に振り返ってみましょう。

  • 苦:人生は苦しみであるという真理。四苦八苦に分類される
  • 集:苦しみの原因は煩悩から生じる執着にあるという真理
  • 滅:執着を滅すれば解脱して平安な境地に至るという真理
  • 道:執着を滅するための具体的な方法・中道の真理

ということになります。

上記のように定義すると分かりづらいかもしれませんので、下記のようにパラフレーズしてみましょう。

  • 苦:人生は苦しみですよね?
  • 集:苦しみには原因があります。それは執着です
  • 滅:ということは、執着を無くせば、苦しみから離れて平安な境地に至るとことになりますよね?
  • 道:そのための方法が八正道なのです

と、これだとけっこう分かりやすいですよね?

今回のテーマである”涅槃”については、この四諦のうち”滅”の部分に相当します。執着を断ち、平安な境地を得るのが”涅槃”だからです。

つまり、”四諦八正道”の結論、あるいは目的のところが”涅槃”に相当するわけです。有り体に言えば、”幸福”が目的になっているわけですね。

三法印からチェックする”涅槃”

それでは、次に、三法印あるいは四法印から”涅槃”をチェックしてみましょう。

”法印”とは、「これが仏教であるという印、旗印」ということです。三法印であれば、「この3つが揃っていれば仏教ですよ」ということですね。

三法印とは、簡潔に言えば、下記のとおりです。

  • 諸行無常:諸々の事象は移ろいゆくものである
  • 諸法無我:諸々の存在はそれ自体では”有る”ことができない
  • 涅槃寂静:無常と無我の真理を知り、悟りを得て幸福へ至ること

この3つに、

  • 一切行苦:一切の形成されたものは苦である

という項目を付け加えると、四法印になります。

三法印と四法印の違いについては、下記の記事をご参照ください。

三法印と四法印の違い – 一切皆苦と涅槃寂静をめぐる考察

かんたんに言えば、諸行無常と諸法無我の真理を知らないで、煩悩にまみれていると”苦”になる。これが”一切行苦”です。

一方、諸行無常と諸法無我の理(ことわり)を腑に落としていくと、執着を離れて悟りを得、幸福論へ至る。これが”涅槃寂静”です。

このように理解して良いと思います。

三法印から考えても、”涅槃”は仏教の目的部分に該当していることが分かります。

ひと昔前は「仏教はペシミスティックな宗教である」と欧米の学者から言われていたこともあるようですが、そうではなく、ペシミスティックをリアルに見つめつつ、オプティミズムへ突き抜けていくのが仏教なのです。

少し、脱線するようですが、結局のところ、仏教とは「存在論と時間論に基礎づけられた幸福論である」と定義することもできる、と思っています。

  • 諸行無常:諸々の事象は移ろいゆく→時間論
  • 諸法無我:諸々の存在はそれ自体で有ることはできない→存在論
  • 涅槃寂静:無常・無我の理を知り、執着を断ったときに平安が訪れる→幸福論

*参考記事:縁起の理とは何か – 「存在と時間」に分けて解釈してみる

他、十二因縁(十二支縁起)などからも涅槃をチェックすることができますが、このくらいにしておきましょう。

結局、”涅槃”とは何であるか?

涅槃は幸福論である、と上述しました。

しかし一方で、無常・無我の理(ことわり)を知り、執着を断てば本当に涅槃に入ることができるのか?もう少し考えて見る必要があります。

「生命の”再聖化”」が涅槃

…というのも、無常・無我の理をそのまま受け取っているだけでは、ニヒリズムに陥る危険性もあるからです。

「どうせ、全ては過ぎ去っていくんだし、この世に実体など何もない、虚しい…」といったふうに、せいぜいのところ、「開き直りのニヒリズム」とでもいいましょうか、少なくとも積極的な幸福論にはなりそうにありません。

冒頭で、「涅槃は叡智界を考慮に入れないと絶対に理解できない」と述べた理由はここにあります。

この世、現象界の無常・無我を知ることによって、認識は叡智界へと飛躍していく必要があるのです。宗教学的に言えば、現世にペシミズムを徹底させることにより、生命を再聖化させるということです。

…分かりにくいですかね。

要は、この世のあなたは”アバター”に過ぎないということです。

本来は叡智界の住人であったのですが、魂の磨きのために現象界に肉体というアバターをもって”研修”に来ている、というのがこの世の生活なのですね。

叡智界に住んでいると、波動の似通った者同士で住んでいますので、気持ちはそれこそ平安、”涅槃”なのですが、一方、刺激が少ないというデメリットがあります。

そこで、肉体というアバターをまとって現象界に生まれてくるのです。

肉体があるおかげで、波動の違う者同士も出会うことができます。「できます」というより、「出会わざるを得ない」ということですね。

ご飯を食べるために仕事しなきゃいけませんので、嫌な人とも会わざるを得ない。仕事する準備として学校に通いますので、そこでも波動の違う人とも会うことになります。

一方、それとは逆に、好きな人と別れなければいけないこともあります。

これは仏教用語に戻せば、怨憎会苦・愛別離苦(おんぞうえく・あいべつりく)ということになります。

老病死の苦しみも現象界特有のものです。

こうしたデメリットもありますが、現象界においては、叡智界では会えないような素晴らしい人、あるいは、自分とは趣味領域が違う人とも出会うことが出来ます。そこに魂を向上させ、魂の幅を作るきっかけができるのです。

それが、現象界にわざわざ生まれてくる意味です。つまりは、仮の世界であるということです。仕事で言えば、たまたま出張あるいは研修に来ているようなものです。

このように、本来は生き通しの生命、永生であるという確信。「叡智界こそが自らの本拠地である」と悟ったときに、この世・現象界がまったく違った風景に視えてくるのです。

霊性進化と、現象界の仏国土化というミッションに目覚めます。

ここの、「叡智界の視点でもって現象界を眺め、最大限に活かしきることができる」というのが、じつは本当の”涅槃寂静”なのです。

仮の世界だからこそ、平安な境地でいられる。

みなさんも、RPGゲームをやって一喜一憂しつつも、どこか俯瞰しているところがあるでしょう?

それと同じことなのです。

肉体というアバターを使ってRPGゲームをしつつ、魂のトレーニングをしている。…まあ、トレーニングとか修行という言葉が硬く感じられるのであれば、「真なる自己実現をしている」と言ってもいいです。

RPGゲーム

自己を脱皮しつつその過程でより本質的な自己を顕現させていく過程なんです、この世の人生は。

なので、「永世の確信」「叡智界が本拠地である」という”余裕の視点”でもって、現象界を最大限に活かしきることができる心境、これが本当の涅槃なのです。

涅槃は固定的・静的なものではなく、ダイナミクスのうちにある

「叡智界が立脚点である」という意味をもう少し深く掘り下げてみたいと思います。

叡智界(あの世)はそれぞれの人の心境によって、様々な階層構造になっています。また、同じ”階”であっても、趣味性によってまた棲み分けがあり、細かく分類すると無限とも言える世界が展開していると言えます。

*参考記事:霊格の段階(魂のレベル)一覧と霊格を上げるための公式とは?

そうすると、「叡智界のどこの世界出身であるのか?」によって、”立脚点”は当然、違ってくることになります。

「ギリギリ天国領域から何とか生まれてきました!」という人や、「菩薩界から生まれてきました!」という人まで、いろいろなパターンがあるわけです。

「叡智界を立脚点にしつつ、現象界を最大限に生ききる」ことが涅槃であるならば、それぞれみな立脚点のポイントに違いがあるわけですから、「涅槃にも力量の差がある」ということになりますよね。

涅槃というのは、

涅槃に入っているか – 涅槃に入っていないか

の二元論で考えられがちであり、まあそれも不正解ではありません。「叡智界を立脚点」にしていなければ、涅槃に達しているとは言えないからです。

一方、涅槃の境地にも段階があるということは、

最低限の涅槃→優秀な魂の涅槃→聖者の涅槃→偉大な涅槃→仏陀クラスの涅槃

というふうに、この上記の段階は”十界論”に基づいておりまして、

人界の涅槃→天界の涅槃→声聞・縁覚界の涅槃→菩薩界の涅槃→仏界の涅槃

ということになりますけどね。

このように、「涅槃にも段階がある」というのが実情なのです。

そして、「魂の磨きによって少しでも高度な涅槃を!」というふうに、涅槃は固定的・静的(スタティック)なものではなく、流動的・動的(ダイナミック)なものであるのです。

まとめれば、「涅槃もダイナミズムのうちにある」ということが言えるでしょう。

ちなみに、「悟り」というのも同様です。

私たちはつい、

悟っているか – 悟っていないか

の二元論で考えてしまいますが、そうではなく、「どの程度、悟っているか?」によって、悟りのレベルと言いますか、「悟りにも無限のアナログな階梯がある」が正解なのです。

”涅槃”によって、「迷いの輪廻」から「主体的な輪廻」へ移行する

仏教では伝統的に、「輪廻からの解脱」が悟り・涅槃だと考えられてきました。

しかしこれは釈尊の本意を誤解しているのです。口伝の過程で誤解が生じているのです。

たとえば、『ダンマパタ』に下記の詩句があります。

この障害、難路、
輪廻、迷いを乗り越えて
彼岸に到った冥想者
動揺のない疑惑のない
執着のない涅槃に達した人
彼を私はバラモンと呼ぶ(『ダンマパダ』第26章バラモン414)

これをパーリ語併記で表記すると、下記のとおりとなります。

ヨーマン  パリパタン ドゥッガン
Yomaṃ   palipathaṃ  duggaṃ,
人はこの  障害を   難路を

サンサーラン モーハマッチャガー
saṃsāraṃ    mohamaccagā;
輪廻を     迷いを超え

ティンノー パーラガトー  ジャーイー
Tiṇṇo    pāragato     jhāyī,
超えた   彼岸に到った  瞑想者

アネージョー アカタンカティー
anejo       akathaṃkathī;
不動の     疑惑のない

アヌパーダーヤ ニッブトー
Anupādāya     nibbuto,
執着なく      寂滅した

タマハン ブルーミ ブラーフマナン
tamahaṃ  brūmi   brāhmaṇaṃ.
彼を私は 呼ぶ   バラモンと

ここの太字で「サンサーラン(saṃsāraṃ)」のところが「輪廻」と通常は訳されていますが、仏陀の真意としては「生まれ変わり」のことではないのです。

サンサーラ(サンスクリット語、パーリ語)の原義は、「さまようこと、歩き回ること」を意味しており、必ずしも「輪廻」に限定されていません。

*参考書籍:『仏教語大辞典』(p1431)

仏教語大辞典

「さまようこと、歩き回ること」つまりは、「迷い」のことを意味しているのです。

ですので、上記の詩句の文脈でも、サンサーランは「輪廻」ではなく「迷い」と翻訳したほうが仏陀の真意に沿うのです。

すなわち、仏法によって「迷いを打ち破り、智慧の生へ移行すること」を釈尊は説いていたのです。

さらにこれを敷衍して考えてみましょう。

悟りや涅槃を上述したように考えるのであれば、叡智界(あの世)と現象界(この世)を行ったり来たりすること、すなわち”輪廻転生”ですね、真の涅槃に達したのであれば、この輪廻の仕組を自ら主体的に活かし切ることができるはずです。

そうすると、悟りとは「輪廻からの解脱」ではなく、

非主体的な”迷いの輪廻”から解脱し、叡智界を立脚点にした”主体的な輪廻”へ移行するのが解脱であり、涅槃の境地である

ということが分かります。

これが正解なのです。これが釈尊がもともと説いていたことです。

仏典によく「もはや迷いの生は尽きた」と書かれてあるのはそういうことなのです。

「有余涅槃から般涅槃へ」が最大の幸福論

そういう意味では、上座仏教では、涅槃を”有余涅槃”と”無余涅槃”に分けますが、じつは”有余涅槃”のほうがレベルが高いのです。

有余涅槃というのは、「肉体が余り有る」ということで、要は現象界にいるこの身このままで涅槃の境地を得るということ。無余涅槃とは、「肉体がもはやない」ということで、(肉体の死を迎えた後)叡智界へ移行してからの涅槃のことを指します。

現象世界に生きながらにして、気持ち・認識の上では叡智界に立脚点を持ちつつ、現象界の事象を余裕をもって眺め、活かし切ることが”有余涅槃”です。

叡智界という”本拠地”に還ってからピースフルな境地を得ることはそんなに難易度は高くありません。天国領域に住んでいる住人であれば、誰もが味わっている気持ちです。

そして、現象界を”有余涅槃”で過ごしつつ、安らかに肉体の死を迎えることを”般涅槃(はつねはん)”と言います。

*とくに釈尊の涅槃を”大般涅槃”と言います。『大般涅槃経』というお経もありますよね。

大般涅槃経

つまり、有余涅槃から般涅槃へ移行する、移行できるというのが真の涅槃であり、それが最大の幸福論であるということです。

大乗仏教では、部派仏教(小乗仏教)の涅槃を”有為涅槃(ういねはん)”と呼び、常・楽・我・浄(じょうらくがじょう)の四徳を具えている涅槃を”無為涅槃(むいねはん)”と呼びましたが、

「常楽我浄」というのはまさに叡智界の在り方であり、叡智界の視点を入れなければこの四徳も本当の意味で理解できないのです。

叡智界もつねに常楽我浄であるとは言い切れませんが、叡智界と現象界を輪廻しつつ、悟りと「涅槃度」を上げていく、そのダイナミクスこそが常楽我浄であるとも言えましょう。

あるいは、無為涅槃と有為涅槃の「有無の中道」のなかに涅槃はある、という再定義も可能であるかもしれません。

涅槃は仏国土論(ユートピア論)であるというところまで見抜いていく

さて、さらに”涅槃”についてさらに深く考えてみましょう。

三法印は

  • 諸行無常
  • 諸法無我
  • 涅槃寂静

の3つでした。

この三法印のうち、諸行無常と諸法無我を深く分析すると、以下のことが分かります。

  • 諸行無常:諸々の事象は過ぎ去っていく→時間論
  • 諸法無我:諸々の存在はそれ自体で有ることはできない→存在論

そして、諸行無常が時間論であるということは、ここから分かることは、「諸行無常からは智慧を汲み取ることができる」ということです。時間的な経過を振り返っていくと、繋がりが観えてきますよね。ここからは智慧を汲み取ることができる。

一方、諸法無我は存在論です。「それ自体では有ることができない」ということは、「人は(存在は)支え合って生きている」というふうに、「諸法無我からは慈悲を汲み取ることができる」ということになります。

*参考記事:縁起の理とは何か – 「存在と時間」に分けて解釈してみる

整理してみましょう。

  • 諸行無常:時間論→智慧
  • 諸法無我:存在論→慈悲

それでは、智慧と慈悲によって形作られるものは一体、何なのか?

それは単なる個人の安寧に終わるものではないはずです。”慈悲”は慈悲であるがゆえに、無限に存在の間に行き渡ることを欲しているからです。

慈悲が智慧をともなって行き渡っていく様(さま)こそが、まさに”仏国土”ではないでしょうか?

ゆえに、ここにおいて”涅槃”あるいは”涅槃寂静”は仏国土論(西洋的に言えば、ユートピア論)に決着してくるのです。

まとめてみましょう。

  • 諸行無常:智慧
  • 諸法無我:慈悲
  • 涅槃寂静:仏国土

ということです。

仏国土

結論は、

釈尊の本意は、智慧と慈悲を両輪に据えた仏国土論を説くところにあった、それこそが真の”涅槃”である

ということになります。

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