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人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします

人生 目的 使命

「人生の意味とミッション」というテーマについては、ネットで検索してみると、このテーマで書かれている記事がたくさんヒットします。

みなさんはそうした記事を読み、みなさん自身の「人生の意味とミッション」を深いところで納得・探求することができたでしょうか?

私個人にとっては、どうしても納得することができませんでした。

こうしたさまざまな記事はそれぞれに立派ではあるのですが、私にはどうしても底が浅いように感じられてしまうのです。

というのも、「人生の意味」「人生のミッション」を論じる際に、まずはその前提となる「”人生”とはそもそも何であるか?」という考察が不十分であることをどうしても感じてしまうのです。

そこが不十分であるならば、「意味とミッション」についても、どうしても木に竹を継いだような、どこかちくはぐな感じを免れないように思えます。

そうであるならば、せっかく「人生の意味とミッション」を考察しようとしても、どこか別の森に迷い込んでしまう危険性があります。

”森”が間違っているのであれば、いくらその森のなかで幸福を探求しようとしても、その「幸福という果実」を見つけることは不可能になってしまいますよね。

結局のところ、「人生の意味とミッション」を探求する思いというものは、「より良き人生」「より幸福な人生」を送りたいと思っていらっしゃるからなのではないでしょうか?

そこで本記事においては、まず、「人生とはそもそも何であるか?」「人間とはそもそも何であるか?」という根本問題から始めていきたいと思います。

そうであってこそ、人生の諸問題について、一時的な対症療法ではなく、根本解決を図ることができるからです。

人生の意味とミッション(使命)は、実在界を前提に考える

「人生とは何か?」「人間とはそもそも何であるか?」については、現代では哲学も宗教もなかなかはっきりとした答えを示してくれません。

哲学はほとんど、論理ゲームのようになっていて、ソクラテス以来の本来の哲学の使命を忘れてしまったかのようです。

どこを忘れているかと言いますと、簡単に言えば、いわゆる「あの世、死後の世界、守護霊、神々は存在する」という前提です。

哲学の祖であるソクラテスは、”デルフォイの神託”で「ソクラテス以上の知者はなし」との宣託を受けてから、「それは本当なのか?」という確認のために、活動を開始しています。

”神の託宣”がきっかけになっているのです。

ソクラテスの思想は、弟子のプラトンの著作群のなかで展開されておりますが、そのなかには、神々やあの世(イデアの世界)、守護霊…、こうしたいわゆる霊的な話しが沢山出てきます。

ちなみに、悪魔のことを”デーモン”と言いますが、これは、ソクラテスが自分の守護霊のことを”ダイモニオン”と呼んでいたことに由来しています。語源的には、ですね。

プラトンの著作の一つ、『パイドン』には、生まれ変わり=輪廻転生の思想まで出てきます。

パイドン

つまり、ソクラテスは神々や守護霊の存在を前提として哲学を構築しているわけです。哲学の原点には、あきらかに、あの世(実在界)の視点がはいっているのです。

”イデアの思想”は単なる抽象理念ではなく、文字通りもっと実在的な、”実在界=あの世”が守備範囲に入っているのは確実です。

こうした哲学の原点や宗教で言うところの、”あの世”、”神々”、”霊”、”天国と地獄”…などのコトバが、現代人になかなか受け入れられないのは、単純に、「言葉のイメージが抹香臭い、古臭い」というのもあるでしょう。

あとは、素朴な”近代進歩史観”で、「今の時代にそんなもの信じられるわけないだろう、昔の人が方便でそういうことを言っていたんだ」とか、「神は人間の都合で作り上げたのだ」とか、そういった考えが現代ではむしろ、主流になっているかもしれません。

しかし、近代進歩史観はほんのここ300年くらいに登場してきたものです。

そして20世紀初頭にはすでに、そうした「歴史は一直線に進化している」「最近であればあるほど人類は真実に近づいている」という直線的な進歩史観には疑いが持たれているのは周知のとおりです。

実際に、「神やあの世などあるものか」と思っている人であっても、そうした問いに徹底的に取り組んだ上でそのような結論を出しているわけではなく、

「周りの人たちもそう思ってるから」「そういうことを信じていると格好悪いから」といったふうに、”なんとなく”で決めつけているケースがほとんどではないでしょうか?

知性の出発点は、物事に対する先入観・偏見をいったん取り除き、白紙の状態で思考を始めるところにあります。

なので、”なんとなくの決めつけ”は本来の意味での”知性主義”に反するのです。

また、近現代を含めて、歴史上の偉人たちのほとんどが神の存在を信じているという事実もあります。

アインシュタインなどは晩年には”霊界通信機”の発明に夢中になっておりました。

歴史上の人格者としてはたとえば、アメリカ建国の父、ベンジャミン・フランクリンがおりますが、彼ははっきりと神を信じておりました。

このように、知能あるいは人格において傑出した人物が神やあの世を信じているのです。

死後の世界が存在するかしないか、有限の生命か永遠の生命か、神々は存在するのかどうか、ということ。これらを受け入れるか、受け入れないかで、人生観はガラッと変わってしまいます。

「天国と地獄がある」というたった一つのことだけでも、人生観を根本から問い直さざるを得なくなってきますよね。

イギリスの作家、G・K・チェスタトンが、

徹底的に現世的な人々には、現世そのものを理解することさえできぬものだ。

という名言を残しております。

これは逆に言えば、「現世を超えた視点を持てば、現世をより理解できるようになる」ということでもあります。

その現世を超えた視点こそが、まさしく、実在界(あの世)の視点なのです。

つまり、”人生の意味とミッション(使命)”は、実在界の視点から考えないと、本当のところは見えてこないということです。

人間の本質は、”実存エネルギー”

さて、では実際にこれから、「魂、霊、あの世、神仏…」などについて、現代風に、分かりやすくご説明していきます。

結論から申し上げますと、私たちの生命の本質は、”実存エネルギー”なのです。

肉体ももちろん、エネルギーで出来ていますが、これはエネルギーの外郭(がいかく)部分でありまして、実際は、肉体がなくなっても(つまり、「死んでも」)、精神エネルギーの部分は存続するのです。

エネルギー

それも、無個性なエネルギーではなく、あなたであればあなたというアイデンティティ(自己同一性)をきちんと保持したエネルギーとして存続していきます。

デカルト的に、とりあえず人間を、精神と肉体(物体)に分けて考えてみましょう。

デカルトは、世界を「思惟(しい)する精神と延長する物体」と定義しました。

精神と物体はともに”エネルギー”ではありますが、それぞれ、

  • 精神:思惟、思考
  • 物体(肉体含む):延長

という特質があるということです。

”延長”というのは、形態が変化するという意味で、消滅をもふくめた外形の変化すべてを指します。

物体が滅びるということ、つまり、人間であれば「肉体が死を迎える」というのは、”延長”の一形態であるからなのです。

ところが、精神の特質は”思惟・思考”でありますので、延長の一形態であるところの”滅び””消滅”は含まれておりません。

精神・心というのは、そもそもの本質において、”滅び”というものは含まれていないのです。

ですので、かんたんに申し上げれば、この世とあの世を通じて、あなたというかけがえのない”個の実存”は保持されていく、ということです。

ということは、、人間の本質を一言でいえば”実存エネルギー”である、と定義することができるのです。

当サイトは、”ネオ仏法”というサイト名です。

仏教を勉強した方であれば、もしかして、「釈尊は無我を説いたのであるから、永遠の魂は否定したはず」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

それについては、ネオ仏法では、「無我の解釈にミスがある」と考えております。仏陀・釈尊は決して魂は否定していないのです。

このことについて、深く知りたい方は、下記の記事をご参照下さい。

*参考記事:仏教は霊魂を否定していない – 無我説解釈の誤りを正す

”波動エネルギー理論”とは?

さて、スピリチュアルや宗教では、「死んで霊界に還る」「天国と地獄がある」…といった概念がありますよね。

こうした昔から言われている(けれども、現代では古くさく感じられる)概念も、じつは今回ご説明した”実存エネルギー”から敷衍して、現代的に説明をつけることができるのです。

先に、人間の本質を”実存エネルギー”と定義いたしました。これは、”生命エネルギー”と言っても良いです。

ここで”エネルギー”の一側面について考察してみましょう。

エネルギー、とりわけ、生命エネルギーの特質として、「一定の波動を持つ」ということがあります。スピリチュアルでもよく、「波動が良い」「波動を上げる」といった言い方をしますよね。

波動が良い/波動が悪い、ということの根本にあるのは、ともかくも、「波動がある」という事実に他なりません。

私たち、生命エネルギーは良きにつけ、悪しきにつけ、つねに一定の波動あるいは波長を発しているのです。

波長 周波数

この世でも生きていると、なぜか相性の良い人/わるい人がいますよね。一緒にいて居心地の良い人/よくない人と言っても良いです。

相性の良い人とは、一言でいえば、波動が同調しやすいということなのです。逆も真なりです。

これは理論以前に、体感的に分かりますよね。この世でもふつうに、「波動が良くて心地よいね」とか「あの人とは波長が合う」といった言い方をします。

そう、人は心の状態に応じて一定の波動(あるいは波長)を発していて、波動が似通った者同士が惹かれ合うという性質があるのです。

ちょうど、周波数を合わせると特定のラジオ放送をキャッチできるのと同じ原理です。

そして実は、むかしから宗教などで言われている天国・地獄や神仏、天使、悪魔…こういった存在は、この波動エネルギー理論で説明をつけることができるのです。

*波動エネルギー理論は、”波動理論”とつづめて表現することもあります。ネオ仏法で使用するターム(用語)です。

とりあえず、前回の話も含めて、ここまでの考察を整理しておきましょう。

  1. 人間の本質は、実存エネルギーである
  2. エネルギーには波動の側面がある。つまり、実存エネルギーは波動エネルギーでもある
  3. 波動が似通ったものは惹かれ合うという性質がある。これが、波動エネルー理論(波動理論)である

波動理論で解明する霊界、天国/地獄、神仏、天使

天国/地獄は、波動の一致する者同士が創り上げている世界

さて、実存エネルギーには、”波動エネルギー”の側面があり、「波動が近い者同士が惹かれ合う」性質があるというお話をしました。

そうはいっても、この世においては、波動の近い人、いわゆるウマが合う人ですね、こうした人とばかり一緒にいるわけにはいきません。

なぜなら、ご飯を食べるために仕事しなければいけないから、勉強のために学校に行かなければいけないから、です。

すごく簡単な話ですよね?

あなたが今日も明日も、嫌な人と一緒にいなければいけないとしたら、あるいは、好きな人と離れなければいけないとしたら、その理由をつきつめると、「ご飯を食べなければいけないので仕方なく」ということであるはずです。

仏教ではここのところを、四苦八苦のなかで、怨憎会苦(おんぞうえく)/ 愛別離苦(あいべつりく)と定義しております。

  • 怨憎会苦:嫌な人と会う苦しみ
  • 愛別離苦:好きな人と別れる苦しみ

です。

ご飯を食べなければいけないから、こうした苦しみがあるということは、逆に言えば、ご飯を食べる必要がなければ、こうした苦しみを味わう必要がなくなるということでもあります。

それでは、「ご飯を食べる必要がある」のはなぜか?と言いますと、これは当然、「肉体があるから、肉体を存続させなければいけないから」ということですよね。

これは逆に考えれば、肉体がなければ、肉体を存続させる必要がなければ、ご飯を食べる必要がなく、そうすると、仕事や学校に行く必要もない、ということ。

仕事や学校に行く必要がなければ、怨憎会苦と愛別離苦はありえない、ということになります。

ここの「肉体がなければ」というのが、すなわち、一般に言うところの「死ぬ」ということでもあるのです。

そしてこれを前回のお話とからめると、

「死んでもじつは死んでいない、実存エネルギーとして生命の存続は続いていく、ということであれば、死後の世界は、波動が合う人と一緒にいる世界である」

ということがなんとなく想像がつくかと思います。

そう、これが霊界および天国と地獄を考察する鍵になるのです。

天国地獄

つまり、霊界というのは、「波動が合う人たちが一定数集まって創り上げている世界」なのです。

閻魔大王がいて、「あなたは天国、あなたは地獄」というふうに、”すでにある世界”にポイポイと投げ込まれるというよりは、

たとえば、心優しい人(=優しい波動を発している人)同士が集まって、結果的に創られている世界が天国である、ということです。

逆に、心醜い人(=醜い波動を発している人)同士が集まって、結果的に創られている世界が地獄、ということになります。

*ただし、方便的に、あるいは霊界の導き手として、”閻魔大王”的な存在もおります

天国/地獄にも段階がある。霊界には横割り構造がある

上述したのは、心優しい人/心醜い人、というざっくりとした二分法でした。

これは、道徳的にいえば、善と悪ということになります。

善人同士が集まって結果的に創り上げている世界が天国であり、悪人同士が集まって結果的に創られている世界が地獄、というわけです。

このように考察を進めていくと、むかしかから、「善人は天国へ、悪人は地獄へ」というのが実際に真実であることが分かりますよね。むかしのひとは現代人よりも霊的で、体感的によく分かっていたのです。

さて、善人と悪人と言っても、実際にはいくつかの段階があります。

すごくかんたんに整理すれば、

  • 完璧と言っていいくらいの善人
  • かなり善人
  • どちらかというと善人
  • どちらかというと悪人
  • かなり悪人
  • 完璧と言っていいくらいの悪人

という段階論です。

これがいわゆる、天国/地獄の段階論になっているわけです。

この世でもあまりに徳が高い人といっしょにいると、「すごいな、会えて素晴らしい」とは思っても、なんだか畏まってしまって、なんとなく居心地がわるくなってしまうでしょう。

逆に、悪人であっても、さらに凶悪な人物と出会えば尊敬(?)はするかもしれませんが、しまいには逃げ出してしまうでしょう。

これはつまり、

  • 波動が高すぎて一緒に居づらい
  • 波動が低すぎて一緒に居づらい

という状態です。

つまり、「心優しい」と言っても、ひとくくりにはできず、「どれだけ優しいか?」あるいは「優しい上に、さらに能力が高い」とか、によって天国にも段階ができているわけです。逆も真なりです。

これが天国/地獄の段階論になっているわけですね。霊界には横割りの構造があるということです。

霊界には、趣味・嗜好によって縦割りの構造もある

つぎに、縦割りの世界についての考察に入ります。

自分と人格的・能力的なレベルでは同じくらいであっても、趣味や嗜好が違えば、やはり長く話題が続かなかったりしますよね。

たとえば、モーツァルトと空海が同じくらいの高さの天国にいるとします(仮に、ですよ)。

ところが、モーツァルトは音楽家ですし、空海は宗教家ですので、興味関心や専門領域に違いがあるわです。

そうすると、会うことは可能であるかもしれないけど、長くは一緒には居づらいという側面がでてきます。

やはり、モーツァルトであれば同レベルの音楽家同士で一緒にいることが多いでしょうし、空海であれば、同レベルの宗教家同士で一緒にいることが多いでしょう。

霊界にはこのような、横割りの”棲み分け”もあるのです。

つまり、ここまでの話を要約すれば、

波動が合うというのは、イコール、「趣味・趣向・価値観が近くて、かつ、人格力・仕事力が同じくらいの人」

ということになります。

これが、波動エネルギー理論、波動理論です。

やはり、人は居心地に良い方向へ流れますので、波動が合う人とずっと一緒にいたくなるわけですね。

各々が、死後、波動の合う人同士で集まって、結果的に、特徴のある「世界」を創り上げているわけです。

これが、神仏の目から見ると、大雑把に”天国と地獄”に分かれるということになりますし、また、天国と地獄のそれぞれの中でも、無限に近い世界ができているということになるのです。

たとえば、生前、愚痴や不平不満が多く、それが魂のクセになってしまっている場合、同じように、愚痴や不平不満が心のクセになってしまう人同士で集まって、完結した世界を創っているのです。

あるいは、短気な人。怒りっぽい人は、死後、同じように、短気で怒りっぽい人同士で集まって、完結した世界を創っています。

この、「怒りっぽい、戦闘的である」人々が創り上げている世界を、昔から、”修羅界””などと呼んでいるわけです。

色欲が強い人はそういう人同士で集まって、”色情地獄・血の池地獄”を創っています。肉体的な欲求や本能に振り回されて生きて生きた人は、”畜生道”という世界を創っています。

このように、波動の似通った人同士が集まって、結果的に、”修羅界”とか”畜生道”とか、あるいは、”天界”などの世界ができあがっている、ということなのです。

また、別の例えで考えてみましょう。

コップの中の水に砂を混ぜて、振ってみると、しばらくは泥水になりますが、時間が経つと、比重の重いものは沈殿してコップの下の方へ行きますよね。

比重

そして、比重の軽いものは上澄み液と言うか、コップの上の方へ行きます。

このように、心の波動が粗い人は下の世界へ趣き、心の波動が精妙な人は上の世界へ赴くということになるのです。

これが、おおざっぱに言う、”天国と地獄”ということです。

そして、比重の重いものでも、さらにその”重さ”によって、どこまで下に行くのか。あるいは逆に、比重の軽いものでも、どれだけ”軽いか”でどこまで上のほうへ行くのか。

そういうことで、霊界というところは、ちょっと分類が難しいくらいの階層構造になっているのです。

その階層構造を仏教では、6段階に分類したり10段階に分類したりしているわけですね。

以前から、ネオ仏法の記事を読んでいる方であれば、「十界論(じっかいろん)」を思い浮かべるでしょう。来世を十種類の世界に分類する考え方があるのです。

*参考記事;十界と十界互具 ー 仏教における”世界”の階層構造論

十界もいうなれば、まだまだ大雑把な分類ですが、あまり細かく分けてもかえって分かりづらくなりますので、10分類くらいでいいのかな?と思います。

いわゆる菩薩界(キリスト教などで言う天使界に相当する世界)であっても、お経(*華厳経)によっては、さらに52段階に分けたりしています。

*参考記事:菩薩五十二位でチェックする狭義の菩薩と広義の菩薩

52段階の上がもう仏界(ぶっかい)ということで、仏に至るまで合計53段階あり。「東海道五十三次」の53という数字は、ここに由来しているという説もあります。

有名なダンテの『神曲』はこうした霊界の構造をかなり克明にかつ高度な文学として描いております。

ダンテ

宗教間の対立は解消することができる

そしてさらに、これらの考えを敷衍(ふえん)して行きましょう。

階層構造になっているということは、上の方(つまり天国)へ行けばいくほど、一定の上限がありまして、いわゆる、トップの霊人(至高の実存エネルギー存在)がいるわけですね。

地球という完結した磁場におけるトップの方々です。会社で言えば、”代表取締役””専務取締役”などに相当するでしょう。

この、地球のトップですね、むかしから”至高神”と言われている存在が、仏教では”法身仏(ほっしんぶつ)”とか”久遠実成の仏陀(くおんじつじょうのぶっだ)”と言われている存在なのです。

キリスト教では、”天にまします父”であり、イスラム教では、”アッラー”と呼ばれている存在です。

つまり、

  • 仏教:久遠実成の仏陀
  • キリスト教:天にまします父
  • イスラム教:アッラー

ということで、

世界三大宗教でそれぞれ信仰されている存在は、名前は違えど、実は同一の存在である、と私は認識しています。

そしてここの論点が、宗教間の対立を根本的に克服するための鍵になってくると思っております。

かんたんに言えば、「結局、同じ神様なんですよ。なので、喧嘩する必要はありません」という論理ですね。

今回はこの部分に深入りしませんが、まさにこの論点を突き詰め、解明していくことが宗教多元主義であり、究極のエキュメニズム(教会一致主義)であり、ネオ仏法の使命そのものであるのです。

守護霊とはなにか?

ところで、よく「魂が肉体に宿って」と言いますが、じつは魂のすべての部分が地上に降りてくるわけではないのです。

実存エネルギーの多くの部分を霊界に残してきているのです。

よく言われている”守護霊”というのは、(守護霊の定義にもよりますが)、自分以外の別の存在と言うよりも、霊界に残している自分自身のことです。

霊界に残してきている部分が守護霊として、地上に降りている部分を見守っているわけですね。そして、地上生活で新たに得た知識や智慧、スキルなどを共有しているわけです。

それが、同じようにエネルギー存在であっても、天国の最上階に住んでいるような霊人になると、相当な巨大なエネルギーになりますので、

たとえば、釈尊やイエス・キリストであっても、地上に降りている部分は全エネルギーのほんの一部ということになるわけです。

ひとつ実存エネルギーのなかで、さらにエネルギー分化して順繰りに地上に生まれてくるというシステムになっております。

これがいわゆる、輪廻転生(りんねてんせい/りんねてんしょう)なのです。

地獄に堕ちる条件とは?

さて、次に、「地獄に堕ちる条件とその脱出方法」についてお話してみます。”予防”という意味では、そもそも地獄へ行かないようにする方法ですね、こちらもお話いたします。

自らが発している波動によって、死後、行き先が決まるということでしたが、ひとつの疑問は、「いつ発した波動なのか?」ということがあるでしょう。

これについては、「現象界(この世)に生きていたときの心境の平均値の波動が基準となり、死後の行き先が決まる」が答えです。

平均値

したがって、”地獄へ堕ちる条件”は、「現象界に生きていたときの心境の平均値の波動が、善悪の”悪”のほうに軍配があがった」ということになりますね。

なので、これは日々の積み重ねが大事ということになってきます。”一生の心境の平均値”とひとくちに言っても、結局のところ、それは一日一日の積み重ねだからです。

地獄に堕ちた場合の脱出方法とは

地獄に落ちたら永遠の業火に焼かれるのか?

しかしそうは言っても、「やっぱり地獄に堕ちてしまった」ということもあるでしょう。

そこで心配なのは、「永遠に地獄にいなければいけないのか?」ということですよね。

これはキリスト教でよく言われることです。

「イエスを信じれば、天国へ、信じなければ地獄へ」「地獄へ落ちたら永遠の業火に焼かれる」というこという教理です、

ちなみに、「では、そもそもイエス(キリスト教)に出会うチャンスがなかった人には不公平なのでは?」という問いに対しては、

「そういう人は、煉獄(れんごく)という中間領域に赴き、そこでイエスを信じれば、あらためて天国へ行くことができる」という理論が用意されているようです。

しかし、天国はもちろん良いとしても、いったん地獄へ落ちたら永遠にそこにいなければいけない、というのは、かなり酷ですよね。

また、この”酷さ”が一種の不公平感になって、「天国も地獄も信じられない」という価値観を生んでいる側面もあるでしょう。

キリスト教の地獄論に関心のある方は下記の記事をご参照下さい。

*参考記事:キリスト教の「地獄(ゲヘナ)で永遠の業火に焼かれる」は本当か?

波動調整によって地獄から脱出できる

では、真実はどうであるかというと、

これはですね、「波動理論」によって解決できるのです。

つまり、一定の波動を持ったスピリット(霊存在)同士が、ある世界を作り上げている、ということでしたよね?

そうであるならば、自らの波動を変えてしまえば、そこの世界には居られなくなる、脱出できる、ということになるわけです。

地獄からの脱出

たとえば、修羅地獄(しゅらじごく・怒りが心の平均値になっている人が赴く世界)に堕ちてしまったとしても、心の内観を行って、波動の修正を図っていけば、そこの世界にはいられなくなり、結果的に脱出できることになります。

要は、「地獄とは合わないような精妙な波動へ切り替えていく」ということですね。一言でいえば、これが地獄からの脱出方法です。

そして、波動を精妙なものに変えるためには、生前の思いと行為を振り返って、内省すべきところは内省していく、ということが大事になります。

これが実は、王道の”波動調整”なのです。

スピリチュアルでは”波動調整”という言葉が使われているようですが、そのほとんどは、何か”外部”の神秘力が勝手に調整してくれるとか、環境を整備すると調整されるとか、そういうコンテクスト(文脈)で使われております。

こうした発想が呪術スピリチュアルの特徴でもあります。原因と解決法を外部に依存するわけですね。

しかしこうした外部依存は根本的な解決にはなりません。

何事も”王道”をたどることが根本の解決法でもあり、また、結果的には近道にもなるのです。

王道とは、自分で自分の世話をするという自立的な精神、主体性の原理です。

ただ、生前にまったく真理に触れたこともなければ、こういうことにも気づきませんし、そもそもどうやって内省したら良いのか?その基準が分かりませんので、地獄から脱出するのにかなりの時間がかかるということになるわけです。

そういう意味で、生きている時に(肉体を持っている時に)真理に触れておく、少しでもいいから知識を得ておくことがいかに大事か、お分かりかと思います。

また、神々や天使たちも地獄をそのまま放って置いているわけではなく、数多くの天使たちが地獄へ赴いて、説得を続けていたりします。

実はこれは、けっこう難しいことなのです。

波動が合わなければ同じ世界にいられない、という理論からすると、「では、天使がなぜ地獄へ赴くことができるの?」という疑問が出ますよね。

これはですね、まあ一種の潜水服といいますか、そういうものを纏って降りていくわけですね。

海へ潜る時に、潜水服を着るのと同じことです。

潜水服

そもそも、「なぜ、色々な階層出身の人が地上で暮らしていくことが出来るか?」という秘密もここにあります。

つまり、肉体という一種の”潜水服”を着ることによって、現象界(この世)はいろいろな階層出身の人々が出会うことができる稀有な場所になっているわけです。

波動調整とその実践は、菩薩界への修行にもなる

今回もかなり大事な話しをしています。

現代のお坊さんも牧師さん・神父さんもこういうことが説けません。なので、彼らに相談しても、本当の意味での宗教的な救済力を得ることが出来なくなっております。

真実を理解できていないから、お経を読経してもほとんど効きません。

これを読んで理解したあなたのほうがよほど、救済力が大きくなっていることになります。

なので、今回のお話は自らのためにもなりますし、あとは、家族・知人・友人などで、「迷っているのではないか?」と心あたりがあるのであれば、心のなかで話しかけて、説得をしてみる、ということが有効になります。

*ただし、先祖供養などはあまりやりすぎないほうが良いです。つてを辿って、どんどんやってきてしまいますので、「母親だけ」とか、順番に丁寧にやったほうがいいですね。

あとは、本当は、今生きている家族・友人・知人ですね。生きているうちに知っていることが一番、大事になります。

「知は力なり」というフランシス・ベーコンの言葉がありますが、「真理を知った」ということによって、今の人生をより実りのあるものへ変えていくことができるわけです。

また、こういう真理を伝えていくことが、天使(菩薩)の仕事であるわけです。

真理を伝える仕事というのは、仮に金銭的な対価を伴わなかったとしても、この世の仕事とは比べ物にならないほどの価値があるのです。

この世の仕事は、一言で言えば、「この世で生きていくための利便性に奉仕する」ということですよね。車の営業でも、化粧品の販売でも、なんでもそうです。

医者であっても、この世の肉体を直していく、ということで、これはもちろん価値の大きいことですが、

人間の本質である実存エネルギーについての真実を伝えることは、現象界(この世)と実在界(あの世)の双方にまたがる普遍性を持つものですので、相当な価値がある、ということはお分かりかと思います。

実際に、実在界においても、階層の上の部分、つまり、菩薩界の世界の住人は、本当に宗教家・思想家などの人口が多いと思われます。

それはそれだけの価値があることをやったということで、仕事の質×仕事の量が評価されているということであるのです。

なぜ、輪廻(サンサーラ)をしているのか?

菊池寛の『極楽』にみる輪廻の理由

輪廻はサンスクリット語で”サンサーラ”と言いますが、日本語では、”輪廻転生”と言い方のほうが馴染みがあるかもしれません。

輪廻転生の読み方は、(りんねてんせい/りんねてんしょう)のどちらでも良いようです。

ところであなたは、菊池寛の『極楽』という作品を読んだことがありますでしょうか?

文庫本では、『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』に収録されている短編です。

菊池寛 極楽 

この短編は、青空文庫でも無料で読めます。輪廻に直接言及しているわけではないのですが、「なぜ輪廻しているのか?」についてひとつの洞察を得ることができます。

読むのが面倒…という方のために、超簡単に内容をご説明しておきますね。

「おかん」という信心深い主人公が死後、念願の極楽に往生することができたと。ところが、先に極楽に住んでいるご主人がどうも浮かない顔をしているわけですよ。

確かに、極楽は美しいところなので、最初はおかんも喜んでいたのですが、数年・数十年経つうちにだんだん飽きてくるのですね。

「いつまでここに居なきゃいけないの?」と、何度かご主人に聞いても、ご主人は苛立った様子で、「ずっとじゃっ!」と答えてばかり。

しまいには、「ところって地獄ってどんな世界じゃろ?」と話しを振ると、ふたりとも生き生きとし始める。

と、こういうお話です(笑)。

まあ、これが極楽(天国)の全てか、と言うとそうでもないのですが、一面の真理を突いているのは確かなのです。

新しい知見を得るために地上に生まれる

つまり、”波動エネルギー理論”のところでご説明したように、似たような波動をもったスピリット(霊人)同士が集まって一つの世界を創り上げていますので、「ウマが合う同士で住んでいる」ということで、楽は楽なのですけどね。

ただ、刺激が少なくて飽きてくる側面はありますね。

人間はわがままなもので、地上に住んでいるときは、「仕事したくないな」とか「今日も、嫌な上司と顔合わせるのか」とか、で、「もう生まれ変わってきたくない」なんて思うのですが、

いざ、実在界(あの世)に還ってみると、それはそれで退屈してしまう側面があるのですね。

もっとも、地獄はある意味、忙しいですし、天界の上の方、つまり菩薩(天使)たちは、勉強会をやったり、地上の人にインスピレーションを降ろしたり、あるいは、迷っている魂の救済業に励んでいたり…で、けっして暇なばかりではないのですが。

ただ、それでも、「もうちょっと刺激がほしいな」と思い始めるのは事実です。

また、菩薩以上の魂にとっては、あまりに長い間、天国に住んでいると、地上の文明・文化がどんどん進んでいって、それが理解できずに、指導が難しくなる、という側面も出てくるのです。感覚のズレが出てくるわけですね。

そこで、新しい知見(経験、智慧、刺激な)を求めて、ときおり地上に降りてくるのです。これが輪廻の本当の理由です。

したがって、輪廻は苦しいばかりではなく、魂にとってとても貴重な機会となっているのです。

仏教は輪廻転生を否定しているのか?

ところで、仏教を一度ならず学んだことがある方であれば、「仏教では輪廻転生は否定的に捉えられているのでは?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

いわゆる、「悟りを得れば、輪廻転生の軛(くびき)から外れる」という解釈です。

しかしここのところは、仏教学の解釈、特に涅槃の解釈にミスがあるとネオ仏法では考えています。この点につきまして興味のある方は、下記の記事をご参照下さい。

*参考記事:リンカーネーション(輪廻転生)とは?その意味と目的を解明する

菩薩の心とは何か?その修行方法はいかなるものか?

さて、菩薩になるためには、まず菩薩の心境、心のありかたについて理解する必要があります。

「心境の平均打率が来世、赴く世界を決める」と述べてきましたが、それでは、菩薩の要件を満たすための菩薩の心境とはいかなるものなのでしょうか?

かんたんに申し上げれば、自利利他をいつも心がけ、実践しているのが菩薩であるのです。

ここのところ、多くの仏教書では、「自らの成仏を後回しにしてでも利他行に励む存在が菩薩である」といった説明がかかれています。

しかし、本当にそうなのでしょうか?

利他行とは、現代風に言えば、「愛を与えること」といった意味になるかと思います。仏教的に言えば、布施行あるいは慈悲の発揮(実践)です。

ところが、「愛を与える」と言っても、そもそも「与えるもの」がなければ与えようがありませんよね?

その与える内容が、まさに智慧なのです。この場合の智慧とは「生活の知恵」といったような一般的な知恵ではなく、もっと奥深い、仏法そのものを理解・体得している智慧のことを言います。

この智慧は、仏陀の悟りそのものでもあります。

菩薩から仏陀へ

したがって、やはり、布施行・慈悲の発揮の前提として、”智慧の獲得”がなされていなければなりません。

つまり、「智慧の獲得と慈悲の発揮(実践)」の両輪がまさに、自利利他であるのです。

自らを利する(=智慧の獲得)修行を重ねつつ、得たところの智慧を他者の幸福のために与えてい時実践業、これはいわゆる”法施(ほうせ)と言いますが、

こうした智慧と慈悲を両輪で回していくことが自利利他であり、同時に、菩薩になるための修行になっているということです。

菩薩になるための公式とは?

さて、それでは、実際に今の人生を契機に自らの霊格を上げていくこと。生まれる前にいた世界よりも、より高い世界へ還るためにはどうすれば良いのか?という話になります。

これは私が勝手に作った公式なのですが、簡略に書くとするならば、

 智慧×慈悲=霊格(仕事量)

ということになります。

縦軸に智慧、横軸に慈悲を置いて、四角形の面積を想像すると分かりやすいですかね。

西洋的に、

 知×愛=霊格(仕事量)

と表現しても良いです。

たとえば、慈悲の思いと実践がいかに大きくても、智慧がなければ、すなわち、実際には人々を不幸へ導くような「知」になってしまっているのであれば、これは実践すればするほど、仕事量としてはマイナスになってしまいます。

逆に、智慧がたしかなものであっても、一生、山の中で庵を結んで誰とも会わず生涯を終えるのであれば、これは何ら影響力を発揮することがなかった。つまり、慈悲がほぼゼロに近い、ということで、四角形の面積は小さくなってしまいますね。

それゆえに、

まず、慈悲の思いが純粋であること、が問われます。

次に、智慧が真理知識に裏打ちされた確かなものであることが大事ですね。

そして、その智慧を持って、多くの人に良い影響を与えていく実践(=慈悲の実践)ができればベストということになります。

これが、四角形の面積(=霊格、仕事量)を最大化していくための基本的な考え方になります。

”智慧の質”、”慈悲の質”がさらに大事であるということ

さて、

智慧においては、もっと一般的な、この世の進化に役立つような知識でももちろん良いわけです。

それを拡げていけば、もちろん、智慧×慈悲の実践にはなりますね。

これが実際は、いわゆる「普通の仕事」ということになります。

この世の仕事というのはたいていは、世の中の利便性のために奉仕する、その対価として金銭を受け取る、ということになります。

これであっても、(正当な仕事であれば)もちろん、十分に良く人生を生き切ったということになります。

が、これだけでは、菩薩(天使)の世界へは還れません。やはりここは、「智慧の質」が問われている部分なのですね。

すなわち、智慧は智慧でもより深い智慧といいますか、、

「知恵」と「智慧」の違いと言ってもいいかもしれませんが、

やはり、単なるこの世の利便性に奉仕する知恵よりは、人間の本質部分である魂(実存エネルギー)についての智慧のほうが、比べ物にならないくらい価値が高いわけです。

この世のものはすべて過ぎ去っていきますが、魂の部分は本質的かつ永遠のものですからね。

なので、「智慧の質」ということで言えば、真理含有率の高い智慧」ということが大事になってきます。

そして、それがあったうえでの智慧の量ですね、量が増えればもちろんよりベターなのは言うまでもありませんね。

慈悲については、「その思いがどれだけ純粋であるか」がまず問われ、次に、「慈悲の実践がどれだけ多いか」というマターになってきます。

ここでもやはり、質→量へ、という順番になっているわけですね。

このように考えていくと、

(智慧の質+慈悲の質)×(智慧の量×慈悲の量)=霊格(仕事量)

というふうに、さらに公式を詰めていくことができます。

すると、菩薩になるためには、この式の”霊格”とのころを”菩薩”に変えて、実践と計測を繰り返していけば良いことになりますね。

上述しましたが、天界より上の世界になってくると、宗教家・思想家の人口が多い、というのは、この公式からもお分かりだと思います。

思想家

これはまず前提として、魂に関わる仕事は、智慧の質が圧倒的に高い、というのがその理由ですね。

まあ、智慧が先か?慈悲が先か?ということについては、それこそ、鶏と卵のどちらが先か?ということと同じで、一概には言えません。

本稿では深く触れませんが、実は「智慧と慈悲」と分けて考えていますが、実際には、同じものを違った側面から説明しているだけ、という理解もあります。

まとめ

長々と、「人生の意味とミッション」について、解説させて頂きました。

結局のところ、

 人生の意味=智慧の獲得

ということになりますし、

 人生のミッション=慈悲の発揮

ということになります。

そして、

智慧×慈悲を最大化していくことが、あなたがどれだけ、あなたなりの最勝(さいしょう)の人生を創り上げていくことができるか?というキーポイントになっていきます

これはまた、最勝の幸福論でもあります。

菩薩界へ還るために

「それでは、自分なりに、智慧×慈悲を最大化してみたい。そのためには、学びと学びを維持するための環境が大事なのではないか?」「そして、慈悲の実践のための場をどうやって作ってくのか?」という問題意識が出てくる方もいらっしゃるかと思います。

そのためのサポートとして、ネオ仏法では、「ネオ仏法サロン」を立ち上げております。

やはり、モチベーションの維持、継続的に学べる場、というのは本当に大事です。一時期、その気になっても、やはり人間は日常生活のなかに埋没してしまいがちですからね。

ひとりでも多くの方真なる成功をその手にできるようになること、すなわち、菩薩(天使)になっていけるように、ネオ仏法では今後もさまざまな理論と実践のアイディアをご提供してまいりたいと思っております。

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