内省のスピリチュアル的意味 – 内省と反省の違い

内省 スピリチュアル

宗教やスピリチュアル、そして現世的には自己実現に至るまで、しばしば「内省」が必要だと言われます。

自己の向上や発展のためになぜ、内省が必要なのでしょうか?

とくに現世的な自己実現は外向きの方向であるため、内向きな指向である内省とは無関係にも思われますよね。

本稿では内省のスピリチュアル的必要性、あるいは自己実現における内省の必要性に至るまで考察してみたいと思います。

目次

人間の本質は「心」である

結論から申し上げるならば、人間の本質は「心」であるがゆえに、心の洗濯が必須なのです。そのために内省が必要なのですね。これが内省のスピリチュアル的な意味です。

そこのところをもう少し詳しく掘り下げてみましょう。

この世の事象は有限である

宗教やスピリチュアルを信じている/信じていないに関わらず、「この世の事象は有限である」ことは誰しも納得のいくところではないかと思います。

それは「肉体の死」を契機にして、今まで自分が築き上げてきたもの、たとえば、富・名声・地位・人脈・・・などとはすべて離れていかなくてはならなくなるからです。

人はこの”死”というものをなかなか直視できません。

そのために、パスカル流にいうならば、日々刻々、「気晴らし」をして時間を過ごし、”死”ということを考えないようにしています。それはほとんど無意識的な指向ですらあります。それだけ、死を直視することが怖いのです。

ところが、「気晴らし」は本当に幸福をもたらすかというと、なかなかそうはいかないのが現実です。

それは「気晴らし」はあくまで気晴らしに過ぎず、どのような人間にもいつかは死がやってくる、ということを誰しも潜在的に知っているからです。

それでも、ほとんどの人は「気晴らし」を続けようとします。

そのことは今、周囲にいる人々を観察すれば分かることでしょう。パソコンやスマホを眺めたり、動画を視聴したり、あるいは”仕事”ですら、ある意味、気晴らし的なものに化しています。

気晴らし

それは、繰り返しになりますが、”死”を直視することが怖いから、それが宿命であることを認めたくないから、というのが根本的な理由なのです。

それでも、”事実”として、死はあらゆる人に平等にやってきます。人は死のもとに平等なのです。まさしく、「この世の事象は有限」なのです。

無限なるもの – 心

一方、心というものは肉体の死を超えて存続していきます。

ここのところは、「魂の永遠性」「来世への確信」がないと、なかなかそうは思えないかもしれません。

神的実在や来世を確信できるか?

ここのところは、ひとつの「賭け」であるのです。

では、少なくとも功利的に考えて、どちらに賭けることが有利なのでしょうか?

先ほど、パスカルを引用しましたが、ここでも有名な「パスカルの賭け」をもとに考えてみましょう。

*参考図書:人間の真実はパスカル『パンセ』に存在する

パスカルの賭け

神や来世があると信じ、誠実に生きた場合、実際に死後、神と来世が存在した時は非常に”得”をすることになります。

ところが、仮に神や来世が存在しなかったとしても、その時、アナタは「居ない」のですから、なにも損することはありません。

一方で、神と来世が存在しない方に賭けた場合、実際に死後、神と来世が存在した時は、驚愕の事態を迎えることになります。無神論者はストレートに天国に還ることはできません。

少なくとも、ぼんやりとではあっても、神的な存在、自分を超えた存在について尊崇する気持ちがないと、最低限の天国へ還ることはできないのです。

一方、実際に神と来世が存在しなかった場合、これもその時にアナタは「居ない」のですから、何も得することはありません。

このように考えてみると、確率論的に言っても、「神と来世は存在する」ほうに賭けたほうが得な人生になるのです。

ちなみに、「どちらにも賭けない」ということはあり得ません。

どちらにも賭けないということは、実質的に無神論と一緒になってしまうからです。

パスカル流に言えば、私たちはすでに「船に乗り込んでいる」のです。意識する/しないにかかわらず、私たちはどちらかに賭けざるを得ないわけです。

ゆえに、「神的実在と来世を信じること」が推奨されるわけです。

そして、そうである限り、「心」は肉体の死を超えて来世、来来世・・・と永遠に存続していくことになります。

心

内省の必要性とは?

”心”が人間の本質であるならば、心を素晴しくしていくしか道はない

人間の本質は”心”であり、過去・現在・未来を通じて永遠のものである、ということを確認してきました。

より正確にいうならば、「本質が心」と言うよりも、「心そのものがアナタ(自分)」なのです。

心=アナタ

です。

心がアナタであり、私たちが神的実在から分光してきた存在であるならば、私たちの為すべきことは「心をどれだけ素晴らしくするか」以外に為すべきことはないと言っても良いのです、

「素晴らしくする」とはいったい何であるか?

「素晴らしい」というからには、

素晴らしくない – 素晴らしい

という二分法が成り立ち、一方の極では「素晴らしい」方向性というものがあるわけです。

その方向性そのものが実は「神的実在に近づいていく」「神的実在の属性を我がものにしていく」ということであるのです。

簡単に言えば、「神に似る」ことが心を素晴しくしていく道であるのです。

「どれだけ神に似ているか?」がアナタの霊格を決定し、来世、実在界においてアナタの住む霊域を決定しているのです。

そして、来世こそが文字通り、”実在界”であり、本来の私たちの住処ならば、「心を神に似せる」以外に私たちの為すべき自己実現というものは本質的にはあり得ないのです。

アナタの価値というものは富や名声といった外的なものではなく、「いかに心が神に似ているか」で決定されているのです。

心が神に似ている存在 – それが仏教的に言えば「菩薩」であり、キリスト教的に言えば「天使」であるのです。

菩薩 天使

当サイトでは、「菩薩になりましょう!」とたびたび問いかけていますが、本当のことを言えば、菩薩・天使になっていく以外に人間の進むべき道程はあり得ないのです。それこそが本当の、実質の「自己実現」なのです。

内省とは「神に似る」ための方法論である

ここまできて、「内省がスピリチュアル的になぜ必要か?」が見えてきたのではないかと思います。

すでに結論は前述しましたが、「心が全てのすべて」「アナタ=心」であるならば、心を素晴しくしていくしか道はない。

そのために、内省をすることによって、いわば「心の洗濯」をする必要があるのです。

心の洗濯とは何か?

それは、神的実在の経綸に照らし合わせて、自らの心の在り方をチェック/修正していくことなのです。

1日のなかで、あるいはそれが無理なら週に一度でも、内省の時間を取ることが望ましいのです。

繰り返しになりますが、私たちの本質は心であり、肉体はいわば「乗り物」にしか過ぎません。

たとえば、自動車が大好きな人がいて、「毎日毎日、洗車をするのに、自らはお風呂に一切入らない」人を見てどう感じるでしょうか?

それは一般的に見て、不潔であり、考え/行為が倒錯している、と思われるはずです、

ですが、私たちは実は似たようなことをしているのです。

魂の乗り物に過ぎない肉体は毎日、お風呂に入って清潔に保っているのに、本当の自ら自身である”心”を洗濯する「内省」はほぼしていない人がほとんどです。

宗教やスピリチュアルを信じている人であっても、なかなか内省まで気が回らない人がいるくらいですから、そうでない人は、ほとんどが「錯誤」のなかにいることになるのです。

のちに述べますが、本当の意味での”反省”は内省とほぼ同じであり、自らの心の過ちを正していくことです。

過去の事象は過ぎ去っているとしても、自らの心は現在意識そのものでありますから、過ちを持ち越していることになるのです。

*参考記事:「反省すると罪が清められる」ということを哲学的に証明する – 持続する現在意識 –

心の過ち

そして、内省をしないでいると、それがだんだんと心的傾向性、心の癖になってしまうのですね。人間は習慣の塊ですから。

そうすると、それがいわゆる”カルマ”になり、来世・来来世にツケを残していくことになるのです。

それゆえに、内省をして1日を、あるいは数週間、1年、数年・・・過去を振り返り、神的実在の経綸に照らし合わせて、心の在り方をチェック/修正していくことが望ましいのです。これこそが内省のまずは基本中の基本になります。

内省は「神的実在に似ていく」ための方法論になっているというわけです。

内省と反省の違いとは?

内省と反省の違いについては、実際は「内省」および「反省」の定義次第なのです。

内省についてどう考えるか?は上述しましたが、反省についても「自らの心を神的実在の経綸に照らし合わせて、チェック/修正をしていく」ということであるならば、「反省は内省と同じ意味である」ということになります。

ただ、「反省」というと、語感的に、なんとなく「惨めな自分を振り返って、責めてしまう」というふうに捉えられがちです。

反省をそのように定義するならば、「内省と反省は全然違う」ということになるでしょう。

人は神的実在から分光してきた存在であり、かつ、神的実在に向かって向上の道を歩むという宿命をもっており、それこそが本来の幸福論の基礎であるならば、時折、時間をとって自らの心の在り方をチェック/修正していく必要があるのです。

内省 反省 違い

反省というものが、たんに自らを内的に痛めつける行為であるならば、それは内省とはまったく違う、真逆のものになってしまいます。

そうした行為はむしろ、(宗教的に言うならば)自らの神性、仏性を損なうことになるからです。

なので、結論的には、繰り返しになりますが、「神的実在の経綸に照らし合わせて、自らの心をチェック/修正していく」というふうに「反省」を定義づけるならば、内省も反省も同じことである、ということになります。

「思考を捨てよ」は誤りである

宗教家やスピリチュアリストのなかには「思考を捨てよ」と主張する人がいます。

たしかに、思考・考えによって、かえって真理から遠ざかってしまうこともありますし、知性・理性を重視するあまり、霊的直感が損なわれることもあります。

ですが、あくまでも「神的実在の経綸に従って、自らの心をチェック/修正していく」という内省の基本を守るのであれば、むしろ、「思考」は必須のものであると言って良いでしょう。

自らの心そのものを対象化し、「それが正しいかどうか」「正しくないとすればどう修正していけば良いか」を決めるためには、どうしても思考が必要だからです。

思考

とくに仏教者のなかにも「思考を捨てよ」と主張する人がいるのは驚きです。

仏教には智慧・悟りの発現の段階として、「三慧(さんえ)」ということが伝統的に説かれています。

三慧とは、聞慧(もんえ)・思慧(しえ)・修慧(しゅうえ)の3つを指します。

  • 聞慧:真理を聞く、学ぶ
  • 思慧:真理について心を巡らせ、深く考えてみる
  • 修慧:真理を実践し、我が物にしていく

こういう段階論が説かれているのですね。

この三慧でいえば、「思慧」が思考に当たるのは言うまでもないでしょう。

ですので、伝統的な仏教教学からいっても、思考は大切であり、「思考を捨てよ」との主張は間違っていることが分かるのです。

内省と自己実現の関係とは?

まずは、自己実現の本質から考える

心=アナタであるならば、心を「神的実在に似せていく」しか真の自己実現はない、と前述しました。

ここのところを間違って、現世的に自己実現を考えていくと、間違えを犯すことになります。

たとえば、自己実現というと、とかく、富・名声を追い求め、「人から羨ましく思われ自分になる」という方向に行きがちです。

ところが、心=アナタであるならば、富や名声を追い求めて、かえって自分の心を汚してしまうのであれば。それは「自分の価値を貶めてしまう」ことになり、本質的な意味での自己実現からかえって遠ざかることになるのです。

人生には来世があり、来来世があります。

実在界こそ自らの本拠地であり、実在界的視点にたった自己実現でないと、それは本当の意味での自己実現にはならず、かえって自己実現から遠ざかることになるのです。

ですので、本来の自己実現を考えるのであれば、あくまでも基礎は「心を高めていく」ことに置かなければなりません。

その結果として、たまたま富や名声が付属してくるのであれば、それは結構なことではありますが、それにしても、富・名声はいわば「残り滓(かす)」のようなものであり、本質的なものではないのです。

・・・どころか、富や名声を先んじて重要視すると。その過程で自ら自身である”心”がおざなりになり、心(=アナタ)の価値がかえって下がっていくパターンが多いのです。

そしてそれは、本来的な自己実現からはかえって遠ざかっていく、むしろ転落していくことを意味しています。

転落

ゆえに、まずは、「心の価値を高める」というところに自己実現の基礎を置かなければならないのです。

現世で自己実現を成すことが、来世・来来世あるいは実在界(本来の世界)での成功にリンクしていかなければ。それは本当の自己実現とは言えないのです。

内省を自己実現の起爆剤にする

心がアナタの全てのすべてであるならば、現世の自己実現もまずは”心”から始まっていくことになります。

来世においても現世においても、この大宇宙においては(時間軸において)、原因ー結果の法則が貫いています。これは時間軸における縁起の法です。因果の理法とも言います。

ひまわりの種を蒔けば、必ず、ひまわりの花が咲きます。

ひまわり

そのように、「こうなりたい自分」を心に描き、一定の時間、継続して思い続けていると、それが次第に現実化していきます。

思いは、

思い→想い→念い

の順に強くなっていきます。

一時的な「思い」ではなく、継続して(想い)、かつ強烈に引き寄せるような「念い」であることが大事です。

それを続けていくと、体感的には7年経って状況が変わらないということはありえません。必ずや念いの方向性に向けて事態が展開していくことになるでしょう。

まさしく、「思考は現実化する」のです。

また、空間軸においても、「関わり合い」という縁起の法が働いています。

思っているだけではやはり不十分で、周囲の人々、物事との関わり合い、働きかけがもちろん大事です。

時間軸、空間軸の双方において、「縁起の法」を使いこなしていくというわけです、

かなり当たり前のことを言っているようですが、実際に「継続して念い続け、かつ、継続して働きかけをする」ということができる人はなかなかいないのです。だからこそ、成功者が少ないのですけどね。

実際は、内省=発展である、と言える

「内省から自己実現(繁栄・発展)へ」という道を辿ることを前述しました。

これはもちろん、その通りなのですが、実はもっともっと本質的に考えることができるのです。

私たちが、「神的実在の経綸に照らし合わせて、心の状態のチェック/修正をなしていく」ことが内省である、ということを繰り返し述べてきました。

たとえば、アナタの今の心の状態が数値で言えば、「マイナス30」に落ち込んでいるとします。このまま放置しておくと、マイナス30が固定化・習慣化して、アナタの来世の行き先はまさに「マイナス30」の世界になってしまうかもしれません。

そこで、内省をして、マイナス30をプラマイ0にまで持っていくとします。

内省

これは内的な地道な作業であり、成功や繁栄・発展とは無関係であるようにも思えるでしょう。

ところが、マイナス30がプラマイ0になったということは、数学的には、「マイナス30の状態からプラス30を成し遂げた」ということでありますよね?

+30

です。

そして、「心が人間の本質である」ひいては「心こそがアナタである」ならば、ここであなたは「プラス30の発展を成し遂げた」と同じことになるのです。

このように考えてみると、外的に発展・繁栄・自己実現が現れてきていなくとも、<心が全てのすべて>であるのであれば、「プラス30を打ち込んだ」という事実は、実はもうすでに本質的な意味で発展・繁栄を成し遂げたと同じことになるのです。

もちろん、それが外的にも現れてくればベターでしょうけれども、事実としてアナタはもうすでに、本質的な意味で「内省の段階で発展・繁栄を成し遂げている」と言えるのです。

ですから、極論、いや、スピリチュアル的事実として、「内省はすなわち発展・繁栄そのものである」と言い切ることが可能なのですね。

心というものをそこまで深く「自身の本質」と考えていくことが、じつはスピリチュアル的な成熟であると言えるのです。

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