霊格を上げる(高める)方法についてはいろいろなアプローチがあり得ます。
古来よりのさまざまな宗教や近年のスピリチュアリズムも、ある意味では「霊格を上げる方法を説いている」と言っても過言ではありません。
「神と人とが隔絶している」感のあるキリスト教でも、神成(しんせい)の思想を持っている宗派もあります(東方正教会)。
神が人となったのは、人が神になるためであった(アレクサンドリアのアタナシオス)
キリスト教では、イエスは「神の子」と表記されることもありますが、三位一体の教理により、イエスは「神そのもの」という理解をします。そしてイエスが受肉して「人になった」のは、この世において神の正義を説き、それを知った者が「神に預る者になる」ためという理解をするのですね。
神成とは人が神に似ていき、神の性質に預ることを言いますが、正教会に限らず、下記の聖句に根拠を持つことを考えれば、本来はキリスト教全体にも共有されていた思想であったと言うこともできるでしょう。
神の性質にあずかる者となる(ペトロの手紙二1章4節)
また、現在は異端とされているキリスト教グノーシス主義によれば、「人はグノーシス(知識・認識)により神に近づくことができる」という思想を持っています。
*参考記事:グノーシス主義と仏教の接点序説 – キリスト教と仏教の共通点を探る
さて、前置きからいきなり宗教ががかってしまいましたが、まずは「霊格とはそもそも何であるか」を起点にして、霊格向上の原理について考察を進めて参ります。
霊格とはそもそも何か
霊格を上げる方法について語るためには、まず「霊格とは何か」をはっきりさせておかなければならないでしょう。
霊格とは「霊の格」と書きます。なので、この言葉自体に、霊(れい/たましい)には格の違いがあるという思想が込められていますね。
そして、人間の本質は霊的実存であることを考えると、霊格とは限りなく「人格」に近いものと考えることができそうです。
*参考記事:霊格と人格の違いとは? – 霊格の高さと人格は最終的に一致する理由
人間は、いや人間に限らずさまざまな存在は、結局のところ神的実在のエネルギー分化であり、そして一方では、「分化されつつ、かつ神的実在に近づいていく」という性質を持っています。それはまるで鮭の遡行のようです。
霊格を上げる、向上させる、高める…ということは、「上げた(高めた)先がある」ということでありますので、その「先」とは何かといえば、宗教で言うところの「神」に相当すると考えてよいでしょう。
宗教に限らず、さまざま哲学や儒教でも「己を高める」方法を説いていますので、ネオ仏法では、そうした霊格向上の究極に位置する存在を「神的実在」と呼んでいます。
ということは、霊格を上げると言うことは神的実在に近づいていくということであり、近づいていくということは別の言葉で言えば「似る」ということでもあるのですね。
つまり、霊格とは「いかに神的実在に似ているか」の諸段階である、と定義することができるのです。
霊格の諸段階とは
さて、霊格は神的実在に近づいていく階梯のことでありますので、文字通り、さまざまな階梯・段階があるということになります。
よく、仏教などで「悟っている」「悟っていない」という二分法が使われますが、じつはそれは便宜的な言い方であって、実際は(仏教においても)仏陀になるための限りないアナログな階梯があるのだと言えます。
ただ、アナログで通すとメルクマールがなくなってしまいますので、とりあえずは「ここまで悟っている」という目印として、悟りのさまざまな諸段階が説かれているのですね。
実際、他の宗教やスピリチュアリズムと比しても仏教はかなり詳細に悟りの段階を説いていますので、今回は仏教をベースにして「霊格が上がっていく」階梯を概観してみましょう。
中国は隋の時代の天台智顗大師(てんだいちぎだいし)が説いた十界論(じっかいろん)が一番、網羅的だと思いますので、下記に紹介してみます。
低い順番から並べるとこのような十段階となります。
- 地獄界(じごくかい)
- 餓鬼界(がきかい)
- 畜生界(ちくしょうかい)
- 修羅界(しゅらかい)
- 人界(にんかい)
- 天界(てんかい)
- 声聞界(しょうもんかい)
- 縁覚界(えんがくかい)
- 菩薩界(ぼさつかい)
- 仏界(ぶっかい)
それぞれの段階についての説明はいろいろな記事でご説明していますので、そちらを参考になさってください。いくつか参考記事を挙げておきます。
*参考記事:
十界と十界互具 ー 仏教における”世界”の階層構造論
霊格の段階(魂のレベル・階層)一覧と霊格を上げるための公式とは?
人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします
ポイントは、人間の本質は霊的実存であり、肉体は仮の姿に過ぎないと言うことです。
そして、霊的実存はそれぞれみな一定の波動を発しております。その”波動”が似通った者同士が自然に惹かれ合い、それぞれの”世界”を作り上げていると言うことなのですね。
ですので、波動の内容が神仏に近ければ近いほど上位の霊界に還ることができるというわけです。
たとえば、「怒り」の波動を心の平均値にしてこの世を去った魂は、上記の十界のうち「修羅界」という世界に赴くことになります。そして似たような「怒り」の波動を持つ者同士が集まり、修羅界という闘争の有様を繰り広げているのです。
波動が精妙であればあるほど、上の世界に還ることができます。これは本当に物理学的な法則そのものです。
上記の十界のうち、1〜6までを”六道(ろくどう)”と言います。平均的な人間は業(カルマ)に突き動かされるようにこの6つの世界を輪廻転生しているのです。
ところが真理を知ることによって、「自主的に」輪廻転生ができる境涯に至ることもできます。
それが、十界のうち、4から1の4つの境涯です。この4つをまとめて”四聖(ししょう)”と言います。
ネオ仏法では、声聞(しょうもん)から菩薩(ぼさつ)へ至るコースをお勧めしています。
声聞は、「真理への関心」が心の平均値になった人が還る世界です。そして、真理知識を学習するだけでなく、その知識を多くの人の救済のために拡げる活動を行なっている人が還る世界が菩薩界なのです。
菩薩界はキリスト教的に言えば、天使界です。
人間は心を磨く(=波動を精妙にしていく)ことによって、菩薩あるいは天使になることができるのです。
結局、この世でいくら栄華を極めたとしても、それはやがて死を契機として過ぎ去っていくことになります。この世の栄養栄華ははかない成功なのです。
それはまるで海辺で砂の城を作るのに似ています。やがて、無常という波に攫(さら)われて城は壊れていってしまいます。
一方、四聖の世界を極めていくことは、この世とあの世を貫く永遠の成功です。
あなたは、この世限定の成功と永遠の成功、どちらを選びますか?
霊格を上げる(高める)ための方法論
冒頭で述べましたように、ある意味で、あらゆる宗教もしくは哲学・思想というのは霊格向上の原理を説いていると言うこともできます。
目指す頂上は同じであっても、そこへ至る道はさまざまなものがあるということですね。当サイト(ネオ仏法)の記事も結局のところ、そうした頂上(=悟り)へ至るための方法論を考察しているのだとも言えます。
なので、なかなか語り尽くせないほど、数多くの霊格向上の原理があるわけですが、今回の記事では「愛と責任」という観点からアプローチしてみたいと思います。
愛と霊格
愛というのは世間的には、「彼(彼女)からいかに愛されるか?」のように、どちらかというと「いかに他者から貰えるか?」という方向に力点があるように思われます。ポピュラーソングの歌詞などでもたいていそうですね。
しかし、霊格向上すなわち神的実在へ近づいていく道程において、愛はその段階に留まるものではありません。
それは愛の切欠ではありますが、愛はその段階に満足しないのです。
究極の神的実在はあの太陽のように無償で万象万物を養う光を放射してやまない存在です。
さきに定義しましたように、霊格向上が「神的実在に似ていく」道程であるならば、当然、愛もそのように主体的でかつ与える対象を限りなく拡げていくものなのです。
まずは、貰う愛という依存的愛から、自らが積極的に他者へ奉仕する「主体的愛」へと転換していかなければなりません。
これが最低限できるようになって初めて魂は天国領域に還ることができるのです。さきの十界論でいえば、「人界」の上段階にあたります。
とりあえずは、自分と自分の身の回りにいる親しい人々を主体的に愛する愛です。これができるようになると、世間的には「あの人は良い人だよね」という”善人”の評価を受けることになります。
次に、身の回りの人々に対してだけではなく、もっと社会性のある段階へと愛は進みます。
自らの知識や技能で持って、たいていは仕事を通じて、あるいはボランティアを通じて、社会へ貢献していく愛です。これができるようになると、十界論の「天界」の愛に相当するようになってきます。そうした人は死後、天界と呼ばれる天国でもより上の段階へ還ることになるのですね。
さて、天界でもさまざまな段階があります。
人々に奉仕する…といっても、「どのように奉仕していくか?」という質の違いに気づく段階がきます。
人間の本質が霊的実存であるならば、霊的な領域、魂に関することで他者へ貢献していけるようになれば、それはさらに優れたことなのです。
そのようなわけで、天界も上段階へ行き、「声聞界」に至ると、人は「真理」を求めるようになります。魂と世界の成り立ちについての知識、神的実在に関する知識です。
こうした分野の知識に関心を持つことを心の平均値にした人は、死後、声聞界へ還ることになるわけですね。
声聞界の次に「縁覚」があります。これは声聞の上であるというより、声聞とはまた別の方法で真理を求めている人のことを指します。簡潔にまとめると下記のようになります。
- 声聞:先生、指導者(たいていは菩薩)に付いて真理を学ぶ
- 縁覚:独力、独学で真理を学び、一定の境地に達する
このような違いがあります。
ただ、独学では思わず知らず曲がった方向へ行くことも多いですので、ネオ仏法では声聞を選ぶことを推奨しています。
ここまでをまとめると、主体的愛の実践ができて(人界上段階)、さらに知識・技能を持って人を指導し(天界)、そして「奉仕の質の高まりは魂への関心にある」と気づき学び始める段階(声聞界)、というふうに前の世界をベースとしつつ、さらに愛の量と質の両面を高めていく道程があるということになります。
声聞は「学び」にいったん重点を置くのですが、今度は学んだことをもって、人と世と神に奉仕していく次の段階に至るようになります。これが実は「菩薩」なのです。そうした人が菩薩界に還るのです。そして実際はこの世に居ながらにして菩薩の心境にあります。
さきにも述べましたが、本当の成功というのはやはりこの世限定のものではなく、現在から未来へ貫く永遠の霊的成功であることを考えると、「菩薩になる」ことが人間の真なる成功であると言うことができます。
*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします
責任と霊格
霊格はまた「責任」という観点からも語ることができます。
人間は自由意志を持っております。瞬間瞬間に無数の選択肢を与えられており、自ら主体的に都度、自分なりの回答を選び取っていく存在です。
そして、よく言われているように、自由には責任が伴います。
ゆえにまずは、自分自身に責任がとれること、これが当然、霊格向上の起点になるのです。
この観点から申し上げると、実は地獄領域(十界論で言えば、地獄・餓鬼・畜生・修羅の4つの世界)とは、自分自身にすら責任をとれない人が死後、赴いている世界であると言えます。
最低限、自分自身に責任がとれる人が天国領域に還るための条件になります。
この世においても、大人であれば、自分と家族に対しては責任を持つことが求められますね。
自身と家族あるいは身近に興味・関心をもってしかるべき人に対して責任がとれる人が天国領域(人界の上段階)へ還ることができます。
天界になると、さらに責任感に拡がりが出てきます。
たとえば、優秀な起業家であれば、数十〜数万人の従業員の生活に責任を感じています。
こうした自らの専門分野で数多くの人々に責任を感じ取り、行動の指針にしている人が天界に還るのです。
そして、天界も上段階に至ると、「責任にも質の違いがある」と人は気づくようになってきます。
さきに愛のところで申し上げたように、人間の本質が霊的実存であるならば、人々の魂や心に関することに責任を持てるようになればそれはさらに優れたことなのです。
そのことに気づき、「真理の学び」を始めてさらに心の平均値にした人が還る世界が声聞界です。
その上の菩薩界人は、真理知識をもって数多くの(通常は数万人以上の)人々の「魂を救う」仕事をしている人たちなのです。そして実際にその仕事に責任を感じているのです。
仏界に住んでいる諸如来であれば、地球規模の出来事に関心・責任を感じています。地球神は文字通り、地球全体に責任を持っております。
結局、「責任をとれる範囲を拡大していくこと」が霊格を上げていく道になっていると言うことができるでしょう。
このように考えてみると、「愛と責任」は意外に近いところにあるのです。主体的愛は主体的であるが故に責任が伴うからです。
ぜひ、愛という観点、責任という観点から、「自分は今、どの段階にいるか、今後、どうしていきたいか?」を考えてみましょう。
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