浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ/じょうはりきょう)とは何か? – 生前の思い・行いはすべてバレる

浄玻璃鏡

浄玻璃鏡とは一般に、地獄の裁判官である閻魔大王が亡者の生前の行いや思いを映し出し、裁く際に使われる鏡と言われています。

その鏡には、生前に「バレなきゃ構わない」と行為していたことがすべて映し出される。

行為だけではなく、思いまで映し出され、嘘・偽りは一切通じない、ということでかなり恐ろしいですよね。

浄玻璃鏡が本当に存在するのか?

私は「それに相当するものは存在する」と確信しています。

浄玻璃鏡が実際に”在る”として、それにいかに対処したら良いか、生前にできることはないか?

そこらへんを考えてみましょう。

目次

三途の川を渡ったあと、「人生の上映会」が始まる

四十九日とは何か?

人間は肉体の死を迎えると、いわゆる『お迎え」というものが来ます。

それは先にあの世に旅立ってた親類縁者であったり、知人・友人で合ったり、また自分の守護霊であったりするのですが、ともかくなんらかのかたちでお迎えに遭遇することになります。

それで、霊界にストレートに行くか?というと、そうでもないことが多く、多くの人はまだ地上世界(現象界)に執着を残しています、

自分が「死んだ(肉体の死を迎えた)」ということをわりとストレートに分かったとしても、「自分の死後、家族は大丈夫だろうか?」「財産分与はうまくいっているか?」など、いろいろと思い残しがあり、しばらくは地上付近に止まっていることが多いのです。

その地上世界にとどまっていられる期間のマックスがいわゆる「四十九日」の期間なのですね。

地上に留まり続ける魂もいる

生きていた時に死後の世界をまったく信じておらず、また確信犯的に無神論であった人は、あの世にすら旅立つことができず、地上世界を徘徊する浮遊霊になったり、土地や場所に執着する地縛霊になったりします。

あの世はその人の認識がそのまま展開する世界であるため、「あの世なんかあるものか」という認識であった人は、まさしく「あの世がない」という世界が展開することになるのです。

「幽霊なんかいるものか」と思っていた人が幽霊になってしまうという、まさしく皮肉な結果になるのです。

浮遊霊や地縛霊については下記の記事で詳述していますので、参考になさってください。

*参考記事:
浮遊霊の浄化・成仏のためにできること – お祓いなどをしても無駄な理由
地縛霊の特徴と危険性とは何か?

生前の行いがスクリーンに映し出される!

さて、無事に三途の川を渡ると、肉体と霊体を繋いでいたシルバーコードが切れます。実はこのシルバーコードが切れた時が不可逆的な”死”であるのです、

シルバーコードが残っているうちはまだ肉体に戻って蘇生する可能性が残されています。多くの「臨死体験」はそのようになされるのですね。

ちなみに少し戻りますが、三途の川の向こう側を見ますと、菜の花のようなものが咲き乱れていたり、一種、天国的な風景が見えることがありますが、それで天国行きが確定したかというとそうでもないのです。

のちに述べますが、天国とはもっと上の世界であり、まだ、天国・地獄行きはまだ決定されていない段階です。

三途の川がなぜあるか?というと、これはこの世(現象界)とあの世(実在界)を分けているひとつの”象徴”として現れているのです。

日本は川が多い国ですので、”三途の川”になっていますが、川が少ない国ですと、「橋を渡る」などの光景もあるようです。

話を戻しますが、三途の川を渡ってしばらくすると、一種の役所のようなところに案内されます。

その役所のような建物の中で、生前の思いと行為を振り返ることになるのです。

まだ映像が発達していなかった時代であれば、巻物のようなものが現れて、そこに生前の思い・行為が書かれていて見せられることがあったようです。

しかし、現代では。映画のようなかたちで、一生を振り返ることが多いのです。

「一生分をぜんぶ見てたら文字通り一生かかるのでは?」と思われるかもしれませんが、見るのは「ここは振り返った方が良い」といったダイジェスト版です。

よく死にそうな場面で「一生がばーーっと映像で出てきた」という話があるじゃないですか。

そのように、じつは私たちの潜在意識に一種の記録媒体があって、一生の思いと行いが記録されているのです。磁気テープのようなものです。

この映像を「浄玻璃の鏡」と言えるかどうか、微妙なところです。・・・と言うのも、いわゆる「閻魔大王」は地獄の中の裁判官として存在していますが、今の段階ではまだ天国・地獄行きは確定していないからです。

その映像・スクリーンで自らの一生の思いと行為を見せられて、はじめて(おおまかに)天国・地獄行きが確定することになるのです。

これは本当におそろしいことで、自分でも忘れていたようなことが上映されてしまいます。

また、「バレなきゃいいだろう」と行為していたようなことがそのスクリーンに映し出されます。行為だけではなく、”思い”まで「行為していたかのように」映し出されるのです。

ここで多くの人ははじめて「客観的に」自分を振り返り、「自分が何者であったか」を知ることになるのです。人生の総決算が行われると言うわけです。

地獄へ堕ちた場合の「浄玻璃の鏡」

天国・地獄行きの決定

さて、生前の思いと行いを映像・スクリーンで見せられると、たいていの人は、だいたい「これは天国行きかな、地獄行きかな」ということを悟ってまいります。

そして、客観的にもそれらが決定されますが、本人もある程度は納得して、今後の身の振り方を受け入れることになります。

天国行きの場合はそれは万々歳なのですが、問題は地獄行きが決定した場合です。

死後、天国・地獄行きがストレートに実現される例外もある

ところで、浄玻璃鏡とは話がずれますが、実は肉体の死後、四十九日などを待たずに、一直線に地獄に堕ちたり、一直線に天上界へ赴く魂もまれにあります。

一直線に地獄へ赴く人というのは、この世に生きている間に悪の限りを尽くしたような人です。

そうした人は肉体の死後、地面が割れるような感じで、そこからストーン!と(感覚的には)下の世界に堕ちていきます。

それはその人の罪の重さに応じて、「落ち着く先」のところまで、どこまでもどこまでも堕ちていく感覚なのですね。

一方、逆に、生前に真理をよほど悟っているような人の場合は、もう四十九日とか三途の川をすっ飛ばして、やはり「落ち着く先」まで飛翔していきます。

もっとも、多少の「地上の垢落とし」が必要な場合がほとんどですので、本来還るべきところよりは、いったんは「手前の世界」であることが多いように思われますが、一通り地上の垢落としが済めば、元居た世界か、それ以上の世界に還っていきます。

「それ以上の世界」になぜ還れるかというと、生前に真理を悟っていたような魂は、地上世界に生まれた意味と使命を悟り尽くしていますので、そこから最大限に実りを得た、いわば「お土産」があるということなのですね。

地上世界に生まれる意味とミッションについては、下記の記事を参照なさってください。

*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします

浄玻璃鏡で地獄めぐりコースが確定していく

さて、地獄行きが決定したとして、あとはどういった地獄、地獄巡りをするか、という問題が残っております。

そこで登場するのが「閻魔大王」です。

閻魔大王はいわば「地獄庁」とでもいうべきところにいらっしゃり、亡者たちを次々に裁いていきます。

日本人の感覚としては、閻魔大王はいかにも「閻魔大王」という威厳に満ちたファッションに身を包んでいるような感覚であろうかと思います。

閻魔大王

閻魔大王

ただ、先に申し上げたように、あの世は認識がそのまま展開する世界でありますので、現代的な地上感覚を身につけていると、閻魔大王も現代的な姿に見えるかと思います。

スーツをびしっと着た裁判官のような姿であるかもしれません。

さきに、「想念の磁気テープが読み取られ、スクリーンに上映される」という話をしましたが、ここではさらに「どこの地獄が最適か」ということを中心にお裁きが行われます。

そこで、浄玻璃鏡で再び、生前の行為・思いが映し出され、お裁きの判定が行われるというわけです。

現代では、半数以上の人が(浅いところを含めると)地獄に堕ちていると思われますので、閻魔大王も大変です。

閻魔の法は地上での法律とだいぶ違っております。

地上は今、唯物論や無神論が席巻していたり、それに影響された法律なども制定されていますが、それはあくまで、人間が作り上げた法律です。

そうした人間が作り上げた法律は地上で通用していますが、閻魔の法はあくまで、普遍的な「神仏の正義」に基づいております。

それなので、「周りの人も宗教を信じていなかった」「宗教なんて怪しいものだと思っていた」などという”風潮”に流されたような言い訳はまったく通用しません。

浄玻璃鏡にはまた人生のダイジェスト版が映し出され、「ここの部分が畜生道行き」「ここの部分が色情地獄行き」などというふうに判定されます。

地獄も一通りではなく、いわば「人の数、心の数」に応じた世界が展開されているのです。

ですから、ひとつの地獄に堕ちるというより、その人の人生航路に即したような、複数の地獄を渡り歩くようになる場合がけっこうなパターンであります、

地獄も現代化している

先に、その人の認識通りの世界が展開していくのがあの世である、と申し上げました。

それゆえに、現代的な世界を生き抜いて来世に辿り着いて場合、天国であれ地獄であれ、現代的な様相を呈していることがあります。

たとえば、「阿修羅地獄」なども、昔ながらに、「関ヶ原の合戦」のように甲冑に身を包み、戦い・殺し合っている世界も展開しているのですが、それとは別に、たとえば、「自爆テロ」で列車が爆破されたり…そうした現代版の阿修羅地獄なども現れています。

現代ではマスコミなどの「ペン」も人を傷つける道具になっています。生前に闘争心に満ちた思いで記事などを書いていた人も阿修羅地獄に堕ちていたりします。そこでは、「地獄新聞」などが発行されているかもしれません。

地獄から脱出と「生前」に出来ること

地獄からの脱出法とは?

この問題についてはいろいろな記事で書いておりますが、また違った角度で書いてみようと思います。

結局、浄玻璃の鏡がなぜ必要かというと、それがないと客観的に自分の思いと行いを振り返ることができない人が殆どであるからなのです。

ただ、地獄に落ちた場合でも、「なぜ自分がこのような目に遭わなければいけないのか?」「自分は悪くない、世間や親や神仏のほうが悪い!」などと喚いている魂がほとんどです。本当の意味で反省ができていないのです。

導きの天使(菩薩)たちがやってきても説得をしても、耳を貸そうとしません。

それなので、「身に沁みて分かるようになるため」いろいろな地獄巡りをしているわけです。

逆に言えば、「自分が悪かった、至らなかった、申し訳ないことをしてしまった」という反省ができれば、それが地獄からの脱出のきっかけになるのです。

そのように思い始めた瞬間に、その人の頭部からうっすらと後光が出てまいります。

そこで、導きの天使(菩薩)たちが再び救いにやってくることになります。

ここで反省がしっかり始まれば、もはやその地獄とは波動が合わなくなるため、脱出が可能となってくるという寸法です。

地上に肉体を持っているうちに「反省」を習慣にするべき

今まで縷々述べて来ましたように、生前の思いと行いを客観視して、「自らの魂がいかなる性質を持っていたのか?」を知るために浄玻璃鏡があるわけです、

ただ、浄玻璃鏡を見る段階では「人生の総決算」は済んでおり、それを元にして、天国・地獄行きが決定されてしまうのですね。

ですから、本当は浄玻璃鏡を見る前の段階において、自らの人生を客観視し、人生航路を修正していければそれがベストなのです、

そのために、多くの宗教では反省や悔い改めを説いているわけです。

その代表的なものが、たとえば、仏教における八正道です。

*参考記事:八正道の順序と覚え方のコツ – 中道の実践とはなにか?

私たちがこの世に肉体を持ってわざわざ生まれてくるのは、この世で新しい知識と経験を獲得し、悟りを向上させるためです。また、その知見で持って、人と世と神のために尽くすためなのです、

*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします

ただ、この世ではなかなか真理を悟るということが難しいことも事実です。

この世でもっとも得難いものが真理であり、また、この世でもっとも尊いのが真理との出会いです。

反省(内省)をするためには、そのための基準がなければなりません。この基準こそが、永遠の真理なのです。

真理によって、この世に生きているうちに、反省をし、人生の軌道修正ができる人は幸いなるかな、です。

そのような人は、それだけでかなり霊的に優れていると言えるでしょう。

また、反省(内省)をすることによって、自らの経験から智慧を汲んでいくことができます。

と言うことは、反省(内省)はすなわち発展であり、自己実現であると言うこともできるわけなのです。

*参考記事:内省のスピリチュアル的意味

当サイト(ネオ仏法)では、そのためのヒントを数多く記事にしています。ぜひ、この機会に真理を我がものにし、霊性進化に役立てて頂ければ幸いです。

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