現代日本では、「無宗教」「無神論」というと何か知的で啓蒙された自分のように思ってしまう傾向があるかと思います。
ただ、そういう人であっても、時折、「無宗教のままで死後があるとしたら、どうなってしまうのだろう?」と一瞬、考えることはあるのではないでしょうか?
実際、Googleでも「無宗教 死後」のキィワードで検索されているようです。
当サイト(ネオ仏法)の記事を読み続けてきた方であれば、常識的なトピックと言いますか、的確な回答を出せるのではないかと思いますが、そうした方に向けても復習を兼ねて記事にしてみたと思いました。
また、本気で「無宗教である」「無神論である」という方にはぜひご一読いただきたいと思います。
結論から申し上げるなら、「無宗教・無神論の価値観ではあの世にすら旅立てず、地縛霊あるいは、この世を徘徊するしかないような悲惨な死後が待っている」というのが真実のところだからです。
死とは何か?
死とは宗教的、スピリチュアル的に言えば、肉体の機能が停止して魂が肉体から抜け出し独立した働きをするようになる段階を言います。
ここのところが、無神論・無宗教の方々とは見解が分かれるところですよね。そうした人たちは、「死ねばすべてが終わる」といった価値観をお持ちだと思いますので。
もっとも、厳密に言えば、無神論と無宗教は違うところがあります。無宗教であっても、「特定の宗教・宗派に所属していないだけで、神仏やあの世の存在は信じている」ということがあり得るからです。
ただ一般的に、「私は無宗教です」と言った場合、ほぼ無神論と同じことを主張している場合が多いのかな、と思います。
死後の世界、神の存在を信じないことはリスクが大きすぎる
無神論・無宗教というのも、じつはひとつの「信仰」です。なぜなら、大抵の場合、死後のことは誰にもわからず、「あの世があるのか、ないのか」は科学的に証明できていないからです。
「あの世がある」ということは科学的に証明できていませんが、「あの世がない」ということも同様に科学的に証明できていないのです。神仏の存在にしても然りです。
そういうわけで、「あの世があるのか、ないのか」「神仏は存在するか、しないか」というのは、人間にとってどちらを選んでも「信仰」であり、また有体に言えば、「賭け」でもあります。
それでは、どちらに賭けた方が得であるのか?
ここで有名な「パスカルの賭け」を覚えておいてほしいのです。
「パスカルの賭け」については下記の記事・項目で書きましたのでぜひご参照ください。
パスカルが言うには、「あの世や神を信じないことはリスクが大きすぎる」ということです。
死ねば何もかも終わりであれば、これはどちらを信じていても同じことになりますが、もし死後の世界や神が存在した場合、それを信じていなかった場合はそれ相応のリスクが生じることになってしまうからです。
ですので、賭けの可能性がイーブンであるなら、ある意味どちらに賭けてもいいのですが、ローリスクの方を選ぶのであれば、死後の世界や神の存在を信じた方がベターなのです。
そして、「ローリスクを選択する」ということ自体が知的な営為であることを心に留めていただきたいものです。
私自身はもちろん、死後の世界や神仏の存在を信じる方に賭けているわけです。そしてその上でネオ仏法という哲学を構築しているのです。
そのように考えると、哲学というのもどこまで行っても「信仰」からは離れることができないということが分かります。
- 神の存在を信じる哲学
- 神の存在を信じない哲学
のふた通りがあるだけです。
死とは「心だけ」の存在になること
さて、とりあえず「死後の世界はある」という方に賭けて話を進めていきましょう。
死とは肉体がその機能を終え、魂が完全に肉体から抜け出た状態を指します。
ここの「魂が完全に抜け出た」というところがまずはとても大事で。
なぜかと言いますと、
- 脳死の段階では実は死とは言えない
- 魂が肉体から遊離するまでに若干、時間がかかる
という問題があるからです。
魂が肉体に留まった状態では実はまだ「痛み」を感じることができてしまうのです。
なので、脳死による臓器提供などを行った場合、麻酔なしでメスを入れられて臓器を摘出されるという強烈な痛みの経験をすることになります。
したがって、「臓器提供カード」などをお持ちの方は破棄されることをお勧めいたします。
また、最近流行りの「直葬」も止めておいた方がいいです。魂が肉体から離れていない状態で焼かれると、生身のまま焼かれるのと同じ苦しみの経験が待っているからです。
昔からある「お通夜」というのは、やはりそれなりの人間の経験則からなされているのですね。昔の人の方が霊的であったので、ここらへんに通じていたのです。
話が若干逸れましたが、「死とは魂が肉体から完全に遊離した状態」ということでしたね。
そして、私たちが通常、「心(こころ)」と呼んでいるのは魂の中枢部分であります。
そのように考えると、結局、「死とは心だけの存在になること」と定義することも可能です。
認識が住むべき世界を決定している
さて、次に「心の働き」について考えてみます。これが霊界でのあり方を決めるキーポイントになるのです。
結論から申し上げると、心は「認識する主体」であり、霊界では認識した通りの世界が展開しているのが実情です。
それゆえに、「あの世などない」という認識の人は、その認識通りの世界が展開し、あの世に旅立てず、この世を徘徊するしかない生活が待っているということなのです。
認識は存在である
心というものが物事をいかに認識するのか、また認識作用とはそもそも何であるのか。
実はこの世においても私たちはほぼ認識を使って生活をしているのです。
たとえば、「リビングルーム」という部屋があるとしますね。
客観的に見れば、リビングルームと言ったって、四角い空間にいくつかモノ(家具)が置いてあるだけです。
ところが、「ここを家族がくつろげる居間にするのだ」という認識でいると、そこはまさしく「リビングルーム」になるのです。
それが実体的なものでないことは、他の動物や昆虫から見たら、そこはリビングルームではないでしょうし、ある意味、部屋ですらない、ということからも分かります。
あくまで、そこに住む人が用途として「リビングルームである」と定義づけをした結果、リビングルームになっただけです。
空き缶であっても、「ここに吸い殻を捨てよう」と思えば、それは「吸い殻入れ」に一瞬にして変貌します。
まさしく、認識が存在を決定づけているのです。突きつめて言えば、「認識こそが存在」であるとも言えます。
これは大乗仏教の二大学派のひとつ、「唯識説(ゆいしきせつ)」と実は同じことを言っているのです。
この世では「ほぼ」認識通りの世界が展開されていますが、あの世においては「心だけ」の存在になるがゆえに、100%認識そのものの世界が展開しているというわけです。
浮遊霊、地縛霊の発生原因
認識の基礎にはその人特有の「価値観」があります。
「無宗教」という価値観から、「あの世はない」という認識が出てくる、という順序です。
そして、「あの世がないかのような”あの世”」が展開して、地上を徘徊する浮遊霊、死んだ場所やお墓などにしがみついている地縛霊に成り果ててしまうのです。
病院で亡くなっても、「俺は(私は)まだ死んでいない」と頑固に病院のベッドや待合室、廊下などを行き来している霊などもたくさんいます。
「会社に行かなくちゃ!」とスーツを着込んで(服も認識通りに現れるのです)満員電車に毎朝乗り込んでいるような霊もいます。
「無宗教」「無神論です」とうすぶいて知的であるかのように振る舞っていた結果、知性とは程遠い世界に入り込んでしまうのですね。
「パスカルの賭け」に負けたということでもあります。
このような状態になるから、「あの世などない」「神仏などいるはずがない」という価値観はハイリスクな賭けになるというわけです。
当サイト(ネオ仏法)では、この世とあの世の関係性について歴史上まれにみるほど正確な情報をご提供しているという自負があります。
まずは、下記の記事から読み進めることをお勧めいたします。
この世とあの世の関係性、人はなぜ生まれてくるのか、死とは何か、生とは何か…これらすべての疑問にお答えしています。
コメント