資本主義はもう終わった、
とか色々な議論がありますが。
終わった、という前に、
「思い出すべし」という項目があるように思われます。
それは、本来、
資本主義はプロテスタンティズムとセットであるべき
ということです。
これは僕がいまさら主張していることではありません。
ドイツの社会学者、マックス・ウエーバーが100年以上も前に、
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本で喝破
したことです。
ウエーバーは「セットであるべき」と言ったわけじゃあないんですが、
資本主義の発生原因をプロテスタンティズムに求めたんですね。
プロテスタンティズム以前、つまりカトリシズム下でのキリスト教では、
「神の物は神に、カエサルの物はカエサルに」(マルコ伝12章13~17節)
「金持ちが天国に入るのは、駱駝(らくだ)が針の穴を通るより難しい」(マタイ伝19章16-26節)
といったイエスの言葉を額面通りに受け取るしかなく。
これではどうしても、
「お金儲け=悪」
という図式になってしまうわけです。
ところが、プロテスタンティズム、
特にカルバン主義によって、
信仰・禁欲+労働
→
利潤は神の栄光を地上にもたらすもの
→
救いの確信
という流れが成立したわけです。
学問的論文を書きたいわけではないので、
かなり端折って書いていますけど。
「えーー?そんなの学問とか思想だけの問題でしょ?」
って思われる方もいらっしゃるかもしれません。
が、
現に、資本主義が発達しているのは、
プロテスタントの国(アメリカ、イギリス、ドイツなど)
と、あとは日本ですよね。
南欧がPIIGSとか呼ばれてEUのお荷物になっていますが、
これらはおしなべてカトリックの国です。
このように、思想のちからというのはおそろしく、
かつ、現実化してくるもの。
じゃあ、日本はどうなのよ?
ってことですが。
日本に資本主義が根付いたのは、プロテスタンティズム
と同様の思想がすでにあったからです。
明治期の銀行家、渋沢栄一も『論語と算盤』って本を書いています。
この場合、
- 論語→プロテスタンティズム
- 算盤→資本主義
に相当するわけですね。
渋沢栄一以前にさかのぼると、江戸期の二宮尊徳とか、
石田梅巌の石門心学を挙げてもいいでしょう。
ここは細かい宗教的・思想的教義の議論は避けておきますが、
要は、
”道徳or思想or宗教”と”経済繁栄”をリンクさせること
これがポイントなんだな、ということです。
もう一度、キリスト教に戻れば、
お金を儲ける=価値を顧客に提供する=隣人愛
という図式にならなきゃいけないんですが。
隣人愛が抜けちゃうと、
「偽装してもバレなきゃいいや、とにかく利益を出さなきゃ」
ってことで、例えば、フォルクスワーゲンの排ガス問題、
日本では、三菱自動車の燃費測定基準偽装問題
なんかが出てくるわけですよ。
それで、三菱自動車の現物株も持っていた僕が、
損することもあったわけですよ。ここにくるか。
(あ。全体では常勝ですよ、株でも)
そんなわけで、ここでも思想のちからの偉大さを
思い出したほうがいいですね。
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