近年では社会的に、LGBTあるいはLGBTQと呼ばれる、いわゆるセクシュアルマイノリティについて、「多様性を認め合おう!ジェンダー平等を!」という方向へ世論が進んでいるようです。
LGBTQとは、
- L:レズビアン
- G:ゲイ
- B:バイセクシュアル
- T:トランスジェンダー
- Q:クィアもしくはクエスチョニング(特定の枠に属さない人)
の略です。
LGBTQ以外にも、Xジェンダーなど様々な分類が成されているようです。
TRP2022のサイトによると、日本におけるLGBTQの割合は3%-10%(調査によって変動がある)であるそうです。
スピリチュアルの大本である宗教、とくに世界宗教では、とくに同性愛について否定的な記述があることは多くの人が知っていらっしゃることでしょう。
たとえば、聖書では、
みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲なもの、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を継ぐことはできません。(「コリントの信徒への手紙一」6章9−10節)*下線は高田による
とはっきり書かれています。
ただ正直、世界宗教でも同性愛、ひいてはLGBTQの問題について、まとまった見解を出せていないのが現状かと思います。
そこで今回は、LGBTQについて真理スピリチュアル的にどう判定されるのか、探ってみたいと思います。
トランスジェンダー(あるいは性同一性障害)については、別記事で詳述したことがありますので、そちらも参考になさってください。
*参考記事:性同一性障害(GID)の原因を真理スピリチュアルから診断する
地球での魂修行については、「男女ペアで」の原則は揺るがない
結論から先に申し上げると、項目のタイトルのとおりです。
現在では「多様な性のありかたを認めよう」という方向性で運動や世論が進んでおりますが、ネオ仏法ではそれとは逆の方向性を支持しています。
私は現代における預言者のひとりとして、「これが性についての地球神のお考えである」ということを、責任を持って申し上げておきます。
いわく、
差別や偏見、人権の制限などは好ましくはないが、性のあり方について、LGBTQを多様性のひとつ、主流のひとつとしては認めるのは行き過ぎである。地球の地上での魂修行の原則は「男女ペアで」「ヘテロセクシュアルが基本」であることは揺るがすべきではない。
ということです。
今後、方針の変更がなされない限りは、これが性・ジェンダーの問題について地球が設定している価値観です。
現在の世論(2022/01/29現在)の流れとは逆で、「古い考え方だな」と思われる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、世論がすべて正しいのであれば、世の中は乱れていないはずで、世の中に乱れがあるということは、主流あるいは主流になりつつある意見(世論)にもいくつか間違いがあるということなのです。
*今まで、軽くではありますが、原発問題、CO2問題、北方領土問題…などについて、(当時の)世論とは逆の考えを当サイトで打ち出したことがあります。
性についても地球には地球の”スタンダード”が設定されている
あまり宇宙のことについて語ることは私の任を超えていますが、ひとつだけ申し上げると、やはり生命の存在というものは地球の生存のみに限られているわけではなく、宇宙のなかには無数に近いくらいの生命を育んでいる惑星があります。
その中には、もちろん、高度に発達した人類型の生命が住んでいる惑星も数多くあり、それぞれの星でそれぞれの主要な価値観を軸に運営されているものだと考えています。
「それぞれの価値観」と言っても、善も悪もごっちゃまぜにそれぞれ在る、惑星間で完全に相対的である、というわけではなく、一見、個性的な価値観であっても、一応は大宇宙の神的存在の意思、一言でいえば「善意思」をなんらかのかたちで表現している、という枠内ではあります。
そういう意味では、性のあり方についても、「男女ペアで」がどこの惑星でもデフォルトであるわけではなく、なかには、単性生殖の惑星もあれば、逆に、男女の他に中性が認められている惑星、あるいは、地上においても自由に男性・女性・中性の変換ができる惑星すらあるかもしれません。
しかし、共通していることは、どの惑星もその惑星独自の価値観、ルールでもって運営されているということです。
これは惑星というスケールの大きい話に限らず、人がある程度集まる場、コミュニティには一定のルールが作られますよね。秩序維持のために、あるいは、本質的な意味での自由性を発揮するためには、逆説的ですが、ルールが必要なのです。
性についても、「どういった性のあり方をスタンダードとするか」について、それぞれの惑星で独自のルールが設定されているわけです。
そういう意味では、当然、地球には地球の「性のルール」があるということになります。そして、地球における性のルールは「男女ペアで」が基本に設定されているのです。
そこで、「そんな不公平な!」ということであれば、地球ではなく、他の惑星への移住を考えたほうが良いでしょう。
逆に言えば、「男女ペアで」以外の性的嗜好がでてくるということは、地球に移住する前の惑星の価値観が魂の記憶のなかに残っているという可能性もあります。
しかし、仮にそうではあっても、今現在地球を住処として定めているのであれば、やはり地球という”コミュニティのルール”に従うべきなのです。
もちろん、魂のクセとしてそれがなかなか難しい、ということはあるでしょうけれど、それは個人の問題に止めて、社会的には「主流のひとつとして、多様な性のあり方を認めてほしい」と声高に主張していく方向はやはり行き過ぎであるということです。
実在界における性のあり方について
性は本質的には、「地上における種の保存」を目的としていると言っても良いでしょう。
そういう意味でも、地球では男女の組合せ以外では子どもができないようになっている、という現実そのものが上述した「”男女ペアで”が地球としての性のスタンダード」の証でもあります。
さて、性このばあいは生殖行為ですね、それが行われているのは地上(この世)での話です。当サイト(ネオ仏法)では、地上界のことを”現象界”と呼んでいます。
それでは、この世を去った世界、あの世では性・ジェンダーの問題はどうなっているのか?気になるところですよね。あの世については、ネオ仏法は”実在界”という呼称を採用しています。
実在界においては種の保存が必要ないのだから、生殖行為もないし、ひいては性別もなくなるのでは?と考える方もいらっしゃるかもしれません。
ただ、いくつかの記事で申し上げているように、「生前の個性が死後も実在界において存続していく」という文脈からすると、やはり、生前に男性であった人は実在界でも男性です。逆も真なりです。
そして、霊界においても比較的に低位霊界〜平均的な人が還る霊界においては、感覚的なものではありますが、性行為のようなものが行われていると推測しています。
低位霊界と高位霊界の違いをたった一言でいうとするならば、「人間的(地上的)な属性がどれだけ残っているか?」という違いなのです。
低位霊界では、まだ性生活に限らず、職業などふだんの生活そのものが地上の延長線上にあるのが特徴です。
それが高位霊界に近づいていくにつれて、そうした”地上臭”といいますか、生活感のようなもの、人間的属性が薄れていく傾向があります。
私たちの本質は、「一定のアイデンティティをもったエネルギーの束である」と定義することもできます。
ここらへんですね、「人生の意味とミッションはなにか?」「実在界はどのようになっているのか?」などのトピックについては、よろしければ下記の記事をご一読頂ければと思います。
*参考記事:人生の意味とミッションとは?
本質がエネルギー存在であるとするならば、高位霊界に移行するにつれて、その本質が開花されていくはずですよね。すなわち、人間も「姿かたちにとらわれないエネルギー体」というふうになっていくわけです。
高位霊界において、そのような生存形態に変わっていくのであれば、「もはや男女などの違いを超越していく」という特徴もあることがお分かりかと思います。
トップの根本神というものが「男性か女性か」問うても全く意味をなさないのと同じです。
ただ、あえて言えば、男性的原理・女性的原理というふたつの属性はある、というふうには考えられそうですけどね。
定義はさまざまにあるでしょうけれど、ネオ仏法的に超簡略化してまとめますと、
- 男性的原理:智慧
- 女性的原理:慈悲
というふうに集約されていくのではないかと思います。
LGBTQであるスピリチュアル的要因とは?
なぜ自分がLGBTQ(いずれか)に生まれついたのか?悩んでいらっしゃる方も多いでしょう。
そこで、この項目では、LGBTQになっていることのスピリチュアル的要因を探求してみたいと思います。
出身の惑星がLGBTQいずれかの性/性的嗜好をデフォルト設定していた
これはすでに上述いたしました。
惑星によっては、男女の別がなく、単性生殖の星もあると思われます。そうすると、恋愛の形態としては”同性愛”ということになりますね。そもそもこのケースでは、”異性愛”自体がないわけなのですが。
この変化系として、”中性”が認められている惑星もあると思われます。男女とはまた別に、男性と女性の両性質を併せ持ったジェンダーです。
男性・女性・中性の3通りが認められているパターンでは、なかなか難易度の高い霊修行と言いますか、男性と女性だけでも3角関係などがありますので、そこに中性がからんでくると、いったい何角関係までありえてしまうのか…ということで、面白そうではありますが、混乱も多くなりそうですね。
ある惑星での霊修行が「そろそろ卒業したいな」ということになれば、次はまた別の惑星への移住を考えることになります。
地球というのも、おそらくは地球起源の魂だけではなく、さまざまな惑星からの”移民”を受け入れてきた歴史があると推察しています。現代で言えば、アメリカ合衆国のようなイメージですかね。
このような移民のパターンでは、地球に肉体をもって生まれ落ちても、前世といいますか直前に住んでいた惑星の価値観が魂に染み込んでいます。
そうすると、たとえば、単性生殖の惑星出身の魂であれば、恋愛の形態として「異性愛はまったく馴染みがない」ということになりますね。そうした魂のクセのようなものが、地球での地上生活にも影響が出てしまっているわけです。
出身惑星が”中性”を認めるところであれば、地球においては”バイセクシュアル”的な魂か、あるいは、トランスジェンダー的な方向へ行くこともあるでしょう。
このように、「移住前の惑星の性における価値観を引きずっている」というパターンがあるかと思われます。
憑依の問題
残念なことではありますが、この世に生きていても、あの世の悪霊と似たような心の波動を発信していると、憑依を受けることがあります。
あくまで「似たような心の波動」が憑依の原因ですので、異性の悪霊に憑依を受けてしまうこともあります。
軽度の憑依ならまだ良いのですが、魂に食い込んでくるレベルの重度の憑依に近づいてくると、その異性の憑依霊の性自認、性的志向の影響を受けてしまうことになります。
そうすると、この世では同性同士であるのに、惹かれ合うという現象が生じてくることもあります。異性霊の影響を受けているわけですので、「霊的には異性愛」と言えなくもないのですけどね。
ただ、このケースでは、LGBTQがどう…という以上に、生活全般にわたり悪霊の影響を受けてしまうことになりますので、それなりの対処をしたほうが良いです。
憑依の問題については、下記の記事で詳述していますので、参考になさってください。
*参考記事:憑依の本当の意味とは? – 特徴、見分け方、対策まとめ記事
宗教的魂の”禁欲”の反動からの同性愛
逆説的であるかもしれませんが、意外に宗教的あるいは哲学的魂にLGBTQに属する人が多い傾向があります。
ここ2500年くらいの流れで主流になっている宗教はわりあいに戒律的に厳しいものが多いですよね。キリスト教、イスラム教、仏教、と世界の三大宗教はいずれも何らかの性についての戒律、戒めがあります。
イエス・キリストは聖書のなかで、「思っただけで姦淫したことになる」と厳しいことをおっしゃっています。
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。(「マタイによる福音書」第5章28節)
この文脈で言えば、ほとんどの人が「姦淫の罪」を犯したことになってしまいます。
それもそのはずで、この聖句は「姦淫の罪を裁くため」というよりも、「神の目から見れば、人はみな罪人なのだ」「この世に生きている限り、罪から逃れることはできない」という趣旨で発されている言葉なのだと思われます。
まずは、”自我中心の世界観”では罪から逃れることはできない、ということを納得させ、その次の段階への誘(いざな)いですね、「神に托(たの)む心、神の恩寵により救いが得られる」という、”神中心の世界観”への回心(コンバート)を促しているわけです。
これは、日本の浄土宗系(浄土宗、浄土真宗)で言えば、「すべての人間は凡夫である。ゆえに、阿弥陀如来の本願に托むことのみが極楽往生の要である」ということになります。
よく言われていることですが、キリスト教と浄土宗はとても救いの論理構造が似ています。
それはともあれ、宗教的な戒律の問題ですね、浄土宗では親鸞が、キリスト教ではアウグスティヌスが情欲の問題で悩んだのは有名ですが、それは多かれ少なかれ、すべての宗教実践者にとっても課題であり、また一方で、つまづきの石になっているのも事実でしょう。
つまり、とくに情欲の問題を中心にした宗教的戒律、この場合は異性愛ですね、それが厳しすぎるとために、同性愛へ流れていく宗教者も多くなってきた経緯があるでしょう。
情欲・性の問題について、深く洞察するのであれば、じつは異性愛か同性愛か、はあまり関係がなく、本質的なところは、
「情欲そのものが悪いというわけではない。それそのものが否定されるのであれば、地上世界の否定に繋がってしまう。そうではなく、過度の情欲・性欲にとらわれて、第三者を傷つけたり、本来の霊的自己がおろそかになってしまうことが問題なのだ」
ということができます。
そういう意味では、ここ2千数百年の宗教の流れは、情欲・性について厳しすぎると言うこともできますが、本来的には本質論から外れている面もあるわけです。
他の記事でも申し上げましたが、とくに多くの人は専門の僧侶ではなく、世俗の中で真理を実践する、というのが今後の流れであることを考えると、情欲の問題について、本質をついた戒律に変更することが今後の文明のあり方に適っているのではないか、と思われます。
夫婦や祝福されたカップルが愛を確かめ合う行為は善か悪か、で言えば、「仏国土の実現に繋がっているのであれば、性愛というものも神の御心に適っていることである」とまで言い切っても良いと個人的には思っています。
子どもを設けること以外の性行為は相成らん!ということであれば、なぜ人間に発情期が設けられていないのか、そういう神仕組みになっていないのかが分からなくなってしまいますよね。
ここらへん、性の問題はどうしてもさじ加減が微妙になってしまうのですが、私はここ2千数百年くらいの宗教的な流れに比して、もう少し、宗教的戒律の範囲を本質論に則りつつ、広く解釈したほうが良いのではないかと思っています。
プラトンの『饗宴(きょうえん)』という書物では、少年愛、肉体の美への憧れから、次第に”美のイデア”そのものへと愛が高まってくる様が論理的に展開されています。
この『饗宴』で主張されているように、性愛というものも、それをひとつの切欠として、「美そのものへのイデアへの愛」というふうに、ユートピア的方向へ流れていくことができれば、それはやはり、「圧倒的善である」というふうに断言しても良いと思います。
そういう意味では、異性愛が主流であるべき」と言いつつも、一方で、個人レベルでは、同性愛・LGBTQであっても、その愛のあり方が、精神的な高みへと繋がり、仏国土の基礎となりうるのであれば、それは歓迎されるあり方である、とも言えるでしょう。
ただそれでもやはり、「異性愛が主流、スタンダードであったほうが良い」という地球神の意思があることは、心に留めておいたほうが良いでしょう。
地上では、陰陽(女性・男性)どちらかの枠割を担うという学びがある
ともかく、上述したように「エネルギー存在が本質である」ということから言えば、人間というものも本質的には「男性も女性もない」とも言えるわけです。
ただこれは、あくまで実在界、しかも高位霊界においてそうなっていく、という話ですので、地上(現象界)ではやはり、地上のルールが適用されていきます。
それは、つらつら申し上げているように、「男女ペアで」が原則であるということです。
少し哲学的に申し上げれば、正反合という順序で弁証法的に世界が(精神が)発展していくのであれば、地上においては、自分ひとりで正反合を為すことはできないということだと思います。
人はひとりでは生きられない、縁起の理によって生きていく存在である、という学びがそこにあるのかもしれません。
なので、地球の地上において、たとえば中性的な人が「私は男性も女性も超越している(とらわれない)存在だ」などというのは、少なくとも地球という地場においては、絵に描いた餅に終わってしまうことになります。
いろいろ述べてきましたが、結論は冒頭に書いたことです。もう一度、引用しておきます。
差別や偏見、人権の制限などは好ましくはないが、性のあり方について、LGBTQを多様性のひとつ、主流のひとつとしては認めるのは行き過ぎである。地球の地上での魂修行の原則は「男女ペアで」「ヘテロセクシュアルが基本」であることは揺るがすべきではない。
これが地球神の意思です。
コメント
コメント一覧 (4件)
>はりねずみさん
コメントありがとうございます♪
若い頃はたいてい、アイデンティティの不安を抱えていますので、
分かりやすい”記号”を求めてしまうんですよね。
私もそうでした。
はりねずみさんの探究心が真理へ誘ったのだと思います。
ネオ仏法がお役に立てて、とても嬉しいです!
時代に流されずに正しいことを正しいと発信していて、尊敬します。
私自身、10代の頃に自分の性別について疑問を持ったこともありましたが、
自分が何者なのか分からなかったことと、時代に流されていたことが原因だったように感じます。
このサイトに出会って、人生の目的が分かってからはそのような悩みはなくなりました。
ありがとうございます。
>ヒカルさま
応援ありがとうございます!
心強いです! 🙂
新規記事ありがとうございます。応援しています。これからも頑張ってください!