ネット・SNSでの誹謗中傷を真理スピリチュアルから検証してみた

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そもそも「バレない」ということはあり得ない

最近、SNSでの誹謗中傷の書き込みを苦にして、ある芸能人の方が自殺されました。

その事件をきっかけに、ネット・SNS上での謂れのない誹謗中傷/書き込みなどを取り締まろうという動きが出てきています。

私はテレビを観ないもので(そもそも家庭内の地位が低くてチャンネル権がないのですが)、その芸能人の方も、件(くだん)の番組のことも存じ上げていなかったのですけどね。

やはり、「表現の自由」をあきらかに逸脱していると思われる個人攻撃、謂れのない中傷などは規制がかかったり、法的な対抗措置を講じやすくする方向へ流れていくのは良い兆候だと思います。

平凡な意見ですけど。

まず、「誹謗中傷する側」について申し上げますと、ひとつには、「バレないから」というのがありますね。

あとは、「他の人もやっているじゃん」という自己弁護の意識も働いているでしょう。

こういう匿名性のなかで、他人を中傷し、相手を「下げる」ことによって、相対的に自己価値が「上がった」錯覚に陥るパターンがあります。

心理学的には分かりやすい図式ですよね。

まあ今回、法的な対抗措置が強化されていくということで、今更ながらのように、誹謗中傷していた側のひとが多数、弁護士に無料相談を申し込んでいる、などという話も聞きます。

ここのところは、当然、「バレたらやばい…」と気づいた、ということなのですが。

真理スピリチュアル的にみて問題なのは、「そもそも、バレないことなどありえない」という事実です。

バレる

覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。(ルカ12:2-3)

むろん、この世に生きている間はバレなくて済む場合もあるでしょうけど、実在界(あの世)まで含めて考えると、まさに「覆われているもので現されないものはなく」が真実の世界観です。

まあこういう側面からも、実在界の価値観を知っていること(宗教的に言えば、信仰)が大事だな、というのが分かりますけどね。

信心深いドイツの南部などでは(北部もそうかも知れませんが)、「信仰を持っていない人には部屋を貸さない」という大家さんが多いと聞いたことがあります。

これは、いじわるしているとか差別しているということではなくて、「信仰を持っていない人はこわくて何するかわからないから」という理由だそうです。

上記の、匿名での誹謗・中傷などがまさにそうですよね、「バレなければ、という前提では何するか分からない」という怖さ。

ここのところで逆に、「イエス様を信じている/上記の聖書の言葉を真理だと共有できる」ということであれば、逆に安心なわけです。

本当は、基本的人権・自由・平等などの価値観も、実在的価値観以外に根拠を求めるのは無理な話で、まあキリスト教でなくても良いのですが、

たとえば、ベンジャミン・フランクリン(=アメリカ建国の父)が以下のように述べているようなこと、

「たとえば神が存在するということ、その神がこの世界を創造し、みずからの摂理に従って世界を治めておられること、神のみ心にもっともかなう奉仕は、人に善をほどこすことであること、

人間の霊魂は永遠不滅であること、そして現世ないしは来世で、あらゆる罪は罰せられ、あらゆる徳行はむくいられるということ、

そうした点については一度も疑問をいだいたことはなかった」私はこういった点をあらゆる宗教の本質であると考えていた

(『フランクリン自伝』「十三の徳目の樹立」より)

フランクリン自伝

「教義」とか「宗派」の違いはともかくとして、こうした「最大公約数的な実在価値」をもって、この上に人権が基礎づけられることが望ましい、と思いますけどね。

スピリチュアル的に観ると、「イナゴの大群」に視える

個人的にも、私は匿名というのが本当に苦手で、こわいですね。

とくに、大勢で寄ってたかって…というのは、たとえば、「○ちゃんねる」みたいなやつ。

スピチュアル的に観ると、(私には)そういう人は、昆虫化しているように視えます。

昆虫の中でもバッタとか…そう言うと、むしろ、バッタに失礼なんですが、

全体の姿形はバッタに近いけど、顔だけちょっと凶悪な人間、みたいな感じですかね。そんなふうに視えます。

バッタ

仏教では、「畜生道」というのがありますよね。

ネオ仏法では、「畜生道はあの世にたしかにある世界、地獄の一領域」として捉えていますが、

*参考記事:十界と十界互具 ー 仏教における”世界”の階層構造論 – 畜生界

これは要は、人間としての尊厳を失っていくと、霊体そのものが変化してしまうんですね。

それで、その国・地域特有の動物、たとえば、日本であれば、「やっぱ、狐はずる賢い」というイメージがありますので(まあ最近はそうでもないでしょうけど)、

実際に、「ずるいタイプ」に性格が固定化されてくると、霊体レベルで狐の姿になってくる、という構図になっています。

これは、「あの世に行ってから」というのもありますが、ちょっと霊視ができる人であれば、「この世でもそう視えますよ」というふうになっていると思います。

「凶悪な顔をしたバッタ」と言いましたが、たとえば、「○ちゃんねる」とか、ああいう掲示板って独特の言い回しとか顔文字を共有しているじゃないですか。

そして自分でもそうした書き込みをしていると、「人間としての個体差」が霊的に後退して、AさんだかBさんだか…の区別がつかないような昆虫化が始まるんですよね。

またしても、むしろ昆虫に失礼なのですけど。本物の昆虫というより、顔だけ人間みたいなやつです。

イナゴの大群に農地が荒らされた、というパターンがありますが、

そうですね、バッタというよりイナゴに近いかも知れません。個体差を失って凶悪化したイナゴ(くどいようですけど、顔は人間です)。

なので、

「他人を下げて、自分を上げているつもり」であっても、実際は、「書き込んだ瞬間に下がりまくってる」というのが真理スピリチュアルから見た光景です。

落下

「自己価値」の本当の物差しを知りましょう

なので、この「自己価値とはなんぞや?」というところです。

自分の価値は、他人を批判して(下げて)上がるものではなく、「自分がどういう思い・行いであるか」で測られている。それはまさに物理学的法則で、1ミリも過たれることはない。因果の法則は確定している。

ということです。

「神」とか宗教的世界観まで至らなくても、こうした「ストア主義的価値観」ですね。これで自己価値は決定される。

もちろん、「正当な批判」が必要であるケースもありますが、そうした場合であっても、この「ストア主義的価値観」がいつもついてまわることは知っておいたほうがいいです。

自己防衛のために

まあ、こうした記事を書いていると、さぞや私(高田)も数多くの誹謗中傷を受けた経験があるのだろう、と思われる方も多いかも知れませんが、

実際のところどうか?と申しますと、「誹謗中傷の数、ほぼゼロ」が今現在までの有り様です。

これは不思議と言いますか、むしろ恥ずかしいと言いますか、

逆に、「これほどまでに影響力がないのか?」とがっくりくるところでもありますけどね。

最近、計測していませんが、当サイト(ネオ仏法)の月間ユニークアクセスは6,000件くらいです。

なので、もう少しはあってもいいのかな?と思いますけどね。

もっとも、単に鈍いだけでは?という意見もあるかもしれませんが。

しかし、わりと、当サイトで言うところの、「呪術スピリチュアル系」の記事を書いたときに、二度ほど、「これが、誹謗中傷ってやつかな?」と思われる書き込みを頂いたことがあります。

ブログコメントなので、承認しなければオモテに出てこないんですけどね。

やっぱり、たぶん、「反撃してくると、どこまでやるか分からない」という雰囲気がどこかあるのだと思いますし、幼い頃から記憶をたどってみると、たしかにそうなんですよね。

なので、経験不足で、参考になるかどうか分かりませんが、

「ちゃんと反撃しますよ」という雰囲気ですね。

「そんな雰囲気、即席で出せるもんじゃない」ということであれば、それこそ、「謂れのない誹謗中傷は法的措置を講じます」という断り書きをしておくのが良いのかな、と思います。

ここの「戦う」というところはスピリチュアル的に勘違いされやすいのですが、「相手に悪を犯させないこと、抑止すること、はむしろ積極的な善である」というのが、仏法の基本価値観だと思っています。

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