宗教は怖いと思う理由とは? – 宗教を信じないほうが怖いという真実

宗教 胡散臭い

現代の日本人にとって、「宗教が怖い」「宗教は胡散臭い」という感覚はもはやデフォルトと化した感がありますね。そして、下記の記述に見られるように実際に宗教離れが進んでいます。

2012年の国際調査によれば、日本人の31%が確信的な無神論者で、これは中国に次いで世界二位の割合だという。また2018年のNHK放送文化研究所の調査によると、信仰する宗教がない日本人は62%にのぼり、「お天道様が見ている」「自然に宿る神」といった意識を持つ人も減少している。いずれの調査も、過半の日本人には信仰がないことを明らかにしている。(『宗教と日本人-葬式仏教からスピリチュアル文化まで』岡本亮輔著「まえがき」より抜粋)

宗教と日本人-葬式仏教からスピリチュアル文化まで

日本に限らず、先進国ではとくに若年層を中心に宗教離れが進んでいます。ただ、日本に特有なのは、さきに述べたように、宗教に対する警戒感、嫌悪感が強いということでしょう。

他の先進諸国では、そういった感覚よりもむしろ、「宗教に関心がない」「宗教がもはや心の拠り所にならない」という”無関心”に特徴があるのではないかと思います。

目次

日本人はなぜ宗教嫌いになってしまったのか?

日本人がなぜ宗教嫌いになってしまったのか、さらにそこから、「宗教が怖い」とまで思うようになってしまったのか?その理由については、いくつかの観点があります。思いつくところを挙げてみれば、

  • 天皇崇拝を事実上「一神教」として太平洋戦争を戦ったが敗戦してしまった、という喪失感が尾を引いている
  • とくに戦後、S学会の「折伏大行進」などの強引な勧誘、オウム真理教の事件、他、怪しげな霊感商法を行う新宗教・新々宗教によって、悪いニュースが広まり、宗教に対する信頼度が著しく低下した
  • (日本に限りませんが)科学万能主義、ダーウィンの進化論、マルクス主義的無神論・唯物論の蔓延の影響
  • 宗教を理由にした争いが絶えないから

他にもあるでしょうし、また、以上のことは常識的な例かもしれませんが、事実ではあるでしょう。

ただ、そうした歴史的経緯があったにせよ、本当に「宗教そのものが怪しい、胡散臭い」が真実かどうかはやはり別途、きちんと考えなければいけない問題です。

宗教が教えている「神の存在」「死後の世界の存在」などを信じるかどうか?は、やはり、人生の価値観に決定的な影響があります。

*「日本人特有の無宗教」についてはまた別記事で詳しく論じてみたいと思います。

宗教は倫理の基礎である

世界では「宗教を信じてない人間は胡散臭い、怖い」が多数派

中国などの唯物論国家はさておき、日本と日本以外の国では宗教に対するスタンスがかなり違います。

他の記事でも例に挙げましたが、先進国でもドイツ南部など比較的宗教心が篤い地域では、「無宗教です」というと、部屋を貸してくれないことさえあるそうです。

それは、「宗教を信じていない人間は何をするか分からない」という、それこそ、現代日本人の感覚と真逆な感覚があるからです。

「宗教を信じていないなんて、なんて胡散臭い、怖い人だろう」ということでしょう。イスラム諸国など信仰心が浸透している地域ならなおさらそういう傾向があります。

留学などの際にも、「外国に旅行に行ったら、”無宗教”とは言わないほうがいい」とよくアドバイスされていますよね。

これは結局、「倫理の基礎には宗教がある」という常識があるからです。だから、「宗教を信じていない人間は胡散臭い、何をするか分からない」と思われてしまうわけです。

なぜ、宗教が倫理の基礎になりうるか?仏教の八正道を例に取りつつ考察した別記事がありますので、興味がある方は参照なさってください。

*参考記事:八正道の”正しい”とはそもそも何であるか?- 倫理の基礎づけとしての仏法

正戦論と聖戦論について

上のような論を展開すると、「そうは言っても、世界を見渡してみると宗教戦争が多いではないか、戦争は倫理的だとでも言うのか?」という反論が返ってきそうです。

しかしこの論理はですね、「世界を見渡してみるとナイフを使った殺人事件が多いじゃないか。だからナイフは胡散臭いんだ」という論法と一緒なのです。

ナイフは食べ物を切り分けたりするのが本来の目的ですよね。人殺しにナイフが使われたとしても、それはナイフが悪いわけではなく、ナイフをそのように非本来的な目的に使った人間が悪いのです。

それと同様に、(先に述べましたように)宗教は本来、倫理の基礎を成す大切なものですが、人間や世界の根本原理を示すもっとも大事なものであるからこそ、使い方を誤ると戦争にまで発展することになってしまうのです。

これは宗教が悪いのではなく、宗教を使う側の人間に問題があるということでしょう。

イスラームでもキリスト教でも、戦争をもちろん全否定はしていませんが、教義的にはあくまで「正戦論」の範疇にあります。

正戦論は以下の2つの要件で構成されています。

  • その戦争に正当性はあるか(正当防衛など):目的
  • 戦争の遂行方法・程度に正当性はあるか:手段

ということですね。「目的と手段」ともに妥当性があるかどうか?が正戦論の基準になっています。

もっともこう言うとさらに、「宗教には聖戦論もあるではないか?」という反論が来そうですけどね。

この正戦論と聖戦論のはざまはけっこう難しい問題を含んでいるのですが、本記事ではとりあえず、イスラームとキリスト教の正典では侵略戦争を積極的に勧めているわけではない、ということだけを述べておきます。

キリスト教のイエスの教えでは、

しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(「マタイによる福音書」 5章39節)

ですので、これは正戦論どころか、文字通りに解釈すればこれは「絶対平和主義」ですよね。

新共同訳聖書

実際に、キリスト教がローマの国教になるまではそのように普通に(?)「絶対平和主義」的に解釈されていましたが、ローマの国教になってから、「それでは国防上、うまくないではないか?」ということで、アウグスティヌス、のちにはトマス・アクィナスらが正戦論の論理を整えていった経緯があるのです。

イスラームにおいては、ジハードには本来、「聖戦」という意味はありません。これは勘違いされやすいところですけどね。

あなたがたに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦え。だが侵略的であってはならない。本当にアッラーは、侵略者を愛さない。(『クルアーン』第2章第190節)

聖クルアーン

キリスト教の『旧約聖書』については実は問題があるのですが、これについてはまた別記事で書いてみたいと思います。

一つだけ申し上げておきますと、”聖絶”を命じているような神、ヤハウエですね、これはイエスが信じた普遍神ではなく、民族神だということです。

この点については、キリスト教の初期に登場したグノーシス主義のほうが正しかったのです。

グノーシス主義では、イエスの信じた父なる神と、旧約のヤハウエを明確に区別します。

ただ、歴史的な経緯では、グノーシス主義は異端として葬り去られてしまったということが、キリスト教において一部、”聖絶”の思想が流れている原因となっております。

これが、近代の帝国主義や植民地支配に正当性を与えてしまいました。

また、歴史上は、正戦と聖戦の峻別は難しく、誤って使われることもあった、というのも事実です。十字軍などがその代表例でしょう。

ドイツではプロテスタントとカトリックが血で血を洗うような「ドイツ三十年戦争」もありました。

ただ、ドイツ三十年戦争後はヨーロッパは聖戦論に疲れ果て、「ウエストファリア条約」をきっかけに正戦論に移行していると言えるでしょう。

ちょっと脇道に逸れたかもしれませんが、とりあえずここでは、「宗教は倫理の基礎である」を確認しておきましょう。

「パスカルの賭け」- 神の存在、死後の世界の存在を信じないのはリスク

神の存在、死後の世界の存在を信じるかどうかは人生の賭けになる

「神は存在するか?死後の世界は存在するか?」については、パスカルが主著「パンセ」のなかで興味深い論を展開しています。

パンセ

一般に、「パスカルの賭け」と呼ばれています。

神の存在、死後の世界の存在は証明できないが、人間はいずれかを選ばなければいけない、これはどうしたって一つの大きな賭けになるとパスカルは言います。

ではどういう賭けになるか?

神と死後の世界の存在を否定する方に賭けた場合、実際に死後に何もなかったとしたら、それを感じる主体である自己もないわけだから何も問題はないですね。

が、もし神と死後の世界が存在していたとするならば、大変な問題になってしまう。ここに大きなリスクが生じるわけです。

なんとなれば、神や死後の世界の存在を信じなかった場合、その人生はたやすく享楽主義か虚無主義に流れるからです。それが死後、「責めあり」と判断されてしまうことになります。

これは大きなリスクでしょう。

一方、神と死後の世界の存在を認める方に賭けた場合、実際に死後に何もなかったら、これは先と同じでとくに問題はない。

ところが、神と死後の世界の存在があったとすれば丸儲けになります。

そうすると、「神の存在、死後の世界を信じる」というのは、これは絶対勝てる賭けになるわけです。

逆に言えば、「神と死後の存在を否定する方に賭けるのはリスクが大きすぎる」ということです。

別に投資などに限らず、わざわざリスクの大きい方に賭ける行為は、知性ある人の判断と言えるでしょうか?

ゆえに、あなた自身にまず問いかけてみてください。

「神を、死後の世界の存在を信じるや否や?」あなたはどちらに賭けますか?

「神の存在は証明できない」から信じることが出来ない?

神や死後の存在は科学的に証明できないから信じることはできない、という人も多いでしょう。

近代ではカントが『純粋理性批判』で「神などの形而上の問題は理論理性によっては証明できない」ということで、そうしたことを学問の対象から外してしまいました。

純粋理性批判

ただ、カント自身は神の存在は信じていました。『実践理性批判』においては、「神は証明できないが、我々の実践的理性が神の存在を要請する」としています。

実践理性批判

ところが、カント以降、「新カント派」によって、ひらたく言えば、「神の存在は証明できないから、神は存在しないのだ」という極端な方向へ流れてしまいました。

近代仏教学にもこの潮流は流れ込んでいます。

*参考記事:仏教は霊魂を否定していない – 無我説解釈の誤りを正す

しかし考えてもみて頂きたいのですが、たしかに神の存在は証明できませんが、逆に、「神がいない、死後の世界はない」ということも証明はできないのです。

でも、世界には古今東西、神の奇跡(ルルドの泉など)、幽霊目撃談などは跡を絶ちませんよね。証明はできないが、状況証拠は山のようにあるわけです。

そうすると、少なくとも個人レベルでは、どうしても先の「パスカルの賭け」に直面せざるを得ないのですね。

あるいは、哲学としても、「証明できないものは”ない”」という前提で論理を構築することが果たして、真理を追求することになるのか?

繰り返しますが、「神がいないことも証明できない」わけです。「無神論」というのもひとつの”信仰”に過ぎません。

私個人としては、哲学は神学に回帰すべきだと思っていますし、ネオ仏法の記事ひとつひとつが、「神学に奉仕する哲学がもっとも真理に肉薄できる」証明にしたいという思いでも更新をしています。

すべての偏見を排除せよ – フランシス・ベーコンの「イドラ説」

結局、「宗教は怖い、胡散臭い」というのも、同時代・同地域(現代日本)の先入観・偏見・思い込みに過ぎないと思うのです。

「知識は力なり」を標榜したイギリスの経験論哲学の祖、フランシス・ベーコンはこうした先入観・偏見・思い込みを排除しないと真なる事実の積み重ねはできないとし、「4つのイドラ説」を唱えました。

*参考記事:4つの”イドラ”の意味とは? – フランシス・ベーコンの英知に学ぶ

真に知性的であろうとするならば、私たちも同調圧力に負けず、こうした同時代的な先入観を突き抜けていくべきでしょう。過去の偉人たちはみなそうでありましたよね。

今回の記事をきっかけに宗教の価値について再考いただけると嬉しいです。

最後に仏陀のことばを引用しておきます。

恐れなくてよいことに恐れをいだき、恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪な見解をいただいて、悪いところ(=地獄)におもむく。(『ダンマパダ(真理のことば)』第22章317節)

ブッダの真理のことば・感興のことば

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

【菩薩になる方法】無料プレゼント

関連記事

コメント

コメントする

目次