親ガチャはスピリチュアル的に間違えである理由

親ガチャ スピリチュアル

近年、「親ガチャ」という言葉がSNSなどを通じて若者を中心に流行っているようです。

親ガチャとは、「子どもは親や環境を選べず、カプセルトイのガチャのように運任せであり、それによって子ども自らの幸不幸・人生が左右されてしまう」という考え方です。

さて、果たしてこうした「親ガチャ」の発想はスピリチュアル的に正しいのか、検証していきたいと思います。さらにそこから踏み込んで、人生の意味とミッションまで解き明かして参ります。

目次

「親ガチャ」発想は完全に誤りである

人は生前に親を選んで生まれてくる

いきなり結論から申し上げますが、霊的真理から見て、「親ガチャ」はありえません。

項目のタイトル通り、人は生まれてくる前に(天上界から)親を選んで地上に生まれてきます。

両親とあの世で会っていた場合は、「親子となる約束」までしてくる場合もあります。

ですので、20世紀以降流行った実存主義哲学、「人間はこの世に偶然投げ出された存在である」という思想も霊的真理から見て完全に誤りなのです。

生まれる前の人生計画について

親に限らず、人は地上に生まれてくる前に、人生計画を立ててきています。

その人生計画の緻密度は人によって違いがあり、一般的に、霊格が高いほど綿密な計画を立ててくる傾向があります。

それはこの世(現象界)でも一緒ですよね。

やはり、優れた人ほど、たとえば一生の計画、数十年の計画、1年の計画、数週間単位の計画、1日の計画・・・など細やかに計画を立てる人が多いものです。

ただ、一般的な人であっても、ぼんやりとではあっても、「こんな感じで生きてゆきたいな」という大まかな計画は立てるものです。

人生計画

また、実は「生まれ変わり」は完全に自由にできるものではなく、あの世(実在界)にある役所(のようなもの)の審査が必要なのです。

ですので、「あ、地上に生まれたい」と思い立って、「生まれ変わりの池」などに飛び込んで、あっという間に母体に宿る、というわけにはいかないのですね。

このように、人によって差はありますが、「今回、どのような人生を送りたいか」という計画は立てて地上に生まれ変わってくるものなのです。

「親ガチャ」的発想は自己責任の放棄にあたる

結局、「親ガチャ」発想というものは、「今の自分の不遇・不幸感覚を外部に転嫁したい」という<自己責任>の放棄なのです。

もちろん、親や家庭環境によって、自らの状況が左右されるのは事実ではあります。

親の収入が高かったりすれば、それだけ良い教育を受ける機会も大きなりますよね。また、「毒親」にあたってトラウマを背負うこともあるでしょう。

ただ一方で、どのような家庭環境でも、立ち直り、頭角を表してくる人もいくらでもいるわけです。

むしろ、不利な条件だからこそ、それを克服する過程で自らが磨かれている、という側面があるわけです。

頭角をあらわす

また、前述したように、そうした「不利な家庭環境」というのも、地上に生まれてくる前に「それが自らの人生修行である」と知って、覚悟して生まれてくるのです。

ですので、やはり、「親ガチャ」発想というのはどこまでいっても、自らを幸せにする道にはならないのです。損得勘定から言っても、損な発想になっているわけですね。

人はなにゆえにこの世に生まれてくるのか?

親ガチャ的発想というのは根本を辿れば、霊的真理に関する無知からきています。

それでは、霊的真理とは何か?人は根本的にどのような存在なのか、人生の意味とミッションとは何か、という「根本問題」について考えてゆきましょう。

<神的実在>は在る

「神」というと、日本人の多くは宗教に抵抗があるゆえに、考えることを避ける傾向があるでしょう。

それゆえに、狭い意味での特定の宗教的”神”ではなく、大宇宙に普遍的に実在する<神的実在>というふうに想定すると受け入れやすいのではないかと思います。

私たちは、そうした<普遍><神>ということを理性の限界内ではあっても、想定することができますよね。

想定できるということは、じつは<在る>ということなのです。

人はもともと無いものは想定すらできません。

「因果律」というものがあります。簡単に言えば、「原因があって、結果がある」ということです。

あなたがコンビニへ行った(結果)としたら、それは「コンビニへ行きたい」という思いを持った(原因)からです。

それから「質量普遍の法則」があります。

これは「質量保存の法則」とも呼ばれ、化学反応や物理変化の前後で、反応に関わるすべての物質の総質量は変化しないという基本的な法則です。

  • テーゼ1:因果律が働いている
  • テーゼ2:質量普遍の法則が働いている

というこは、私たちが<神的実在>を想定できる(結果)ということは、それと同等の(質量普遍の法則)神的実在がある(原因)ということなのです。

このように考えると、「神がいるのであれば、なにゆえに世界に悲惨なことがあるのか?」と疑問に思う方も多いでしょう。

それについては、下記の記事で詳述していますので、参考になさってください。

*参考記事:神義論への分かりやすい最終回答 – 全能の神が創った世界になぜ悪があるのか?

神的実在の世界創造

普遍的な絶対神という存在は、普遍的であるがゆえに、<全体>なのです。

もし、神的実在が全体でなく、<部分><限られた領域>であるならば、それは絶対神でも普遍神でもない、全知全能でもない、ということになってしまいますよね。

それゆえに、神的実在は私たちの外部にあるのではなく、逆に私たちは神的実在の<内部>に存在しています。

私たち個別的存在というものは、<全体>である神的実在の自己実現・自己表現の一端を担っている<部分><現象>なのです。

それでは、なにゆえに、私たち個別的な存在が(現象としてではあっても)創造されたのか?神的実在は静的に神的実在のままでおらず、その内部にさまざまな個別的存在を創造したのでしょうか?

それは結論的に言えば、<発展>のためなのです。

神的実在はそのまま「おひとり様」で在るのであれば、すでに<完成>しているため、<発展>がないことになります。

ところが<発展>という概念も、それは善きものであり、それゆえに神的実在の属性になっているのです。

  • 完成している
  • 発展を望んでいる

この2つのテーゼを同時に実現するために、じつは<世界創造>が行われたのです。

世界創造

私たち個別的な存在が<現象>として存在することにより、そこに様々な矛盾・葛藤が生じます。それは一時的には<悪>として現れることもあるでしょう。

それでも、悪はあくまである一定の時間の範囲内に現象的にあるものであり、時間の経過とともに解消され、むしろより大きな<善>に昇華されることになります。そこにこそ<発展>があることになります。

私たち個別的な存在が発展していくのであれば、<全体>である神的実在も発展していくことになります。

そのことはお分かりになりますよね?

たとえば、私たちの内部にある細胞が増殖すれば、<全体>である私たち自身も増殖、大きくなっていくわけです。

それと同様に、繰り返しになりますが、神的実在の内部にある(現象としての)私たち個別的存在が発展すれば、それは全体である神的実在も<発展>したことになるのです。

悪はどのように善に昇華されるか、そのメカニズムはどうなっているのか?ということについては下記の記事で詳述していますので、参考になさってください。

*参考記事:神義論への分かりやすい最終回答 – 全能の神が創った世界になぜ悪があるのか?

人間とは”心”そのものである

さて、それでは<現象>としての私たちはいったいどのような存在なのでしょうか?

私たちの本質は現象界(この世)と実在界(あの世)を通じて、「心のみ」であると言えるのです。

一般的に考えても、肉体はこの世の”死”を契機として失われていきますよね?

ところが、心だけは実在界に持ち越していくことができるのです。

心とは、「思い、思考、感情」などをその内容としています。

あなたがどのような存在か、人間性かを判定するには、他の人に判定してもらう必要はありません。あなたが普段、「何を考えているか?」「心の内容は何か?」を点検してみれば、それがすなわちアナタ自身なのです。

心

本稿のテーマに沿って言えば、もしあなたが「親ガチャに失敗して、自分は不幸になった」と考えているのであれば、あなたはまさに「親ガチャに失敗して不幸になったと考える人」であるのです。

一方、「家庭環境には恵まれなかったが、自分はそれを魂の磨きの材料として、限りなく自己を伸ばしていこう」と考えているのであれば、その考えこそがまさにあなた自身であるのです。

このように、心で思っている内容がすなわちあなた自身であるのです。それがあなたの価値を決定しているのです。

心はバイブレーション(波動)を持つ

「心はバイブレーションを持つ」としましたが、より正確に言えば、「心はバイブレーションそのもの」なのです。

それも単なるバイブレーションではなく、あなたの思いの内容・種類・(神的実在から見た)心境の上下・・・などがバイブレーションとなっているのです。

バイブレーション

私たちは肉体の死を契機として、肉体を脱ぎ捨てて、「心そのもの」の存在となります。それはすなわち、バイブレーションそのものの存在となるということです。

霊界では、そのバイブレーションが近いもの同士、共鳴しあう者同士が集まって、一定の霊域を作っているのです。

たとえば、「人のために役立ちたい」という善念を持っている人は、それと同じようなバイブレーションを持っている人たちと同じ霊域を形成しています。

そうすれば、そこがまさしく古来から宗教などで言われている”天国”になるであろうことは想像がつきますよね。

逆に、「憎しみ」の念を抱いているひとは、同じような「憎しみ」を抱いている人同士で集まって、一定の霊域を形成しています。

憎しみを抱く者が同じ霊域に集まっていれば。そこがいわゆる「地獄」になるであろうことも想像がつきますよね。

もちろん、人間は生きている間にさまざまな感情を抱いて生きておりますが、やはり、その人なりの「心境の平均値」というものがあります。

死後の世界というものは、この「心の平均値」によって、行き先が決まってくるのです。

それゆえに、自らの不幸の原因を親ガチャに帰しいているような人は、やはり同じような他責の念を持つ人同士で集まってしまうのです。それが天国的なものか、地獄的なものであるのか、よくよく考えてみましょう。

地上に生まれ変わる時

「同じようなバイブレーションを持つ人同士で惹かれ合い、一定の霊域を作っている」という話をしました。

これは簡単に言えば、「気が合う人同士が集まっている」ということですので、それが天国的領域であれば、まさに天国的に心地が良いものです。

ところが、似たもの同士でずーっと一緒にいると、「飽きてくる」という傾向がありますし、霊的向上も頭打ちになってきます。

そこで、そのように感じ始めた時が、「生まれ変わり」のタイミングになっているのです。

生まれ変わり

地上では肉体をまとっていますし、ご飯を食べなければいけませんので、心のバイブレーションが違い人とも会うことができます。まあ、「会わざるを得ない」とも言えるのですが。

そうすると、自分とは違った価値観・趣味趣向を持つ人と交流することになりますので、そこで新たな学びがあるのですね。

実在界では会えないような霊格の高い人とも会うこと(交流すること)もできます。

また、新しい時代に生まれるだけでも、前世とは環境が違いますので、それだけでも大きな学びがあり、経験値が高まってくるのです。そこに霊的向上の契機があります。

カルマの法則

(以下、執筆中)

 

 

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