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神義論への分かりやすい最終回答 – 全能の神が創った世界になぜ悪があるのか?

神 なぜ悪

神義論の類型

今回のトピック、「全能の神が創った世界になぜ悪があるのか?」というテーマは、長らくキリスト教史でも論じられてきたところでもありますし、

また、一般の方が「神がいるのであれば、なぜ悪とか戦争がある?だから宗教なんて信じられないんだ!」という論拠にもなっていますよね。

このテーマは、キリスト教的には「神義論(しんぎろん)」と呼ばれています。別名、「弁神論(べんしんろん)」とも言います。

*神義論:ライプニッツが最初に用いた哲学・神学用語。〈弁神論〉ともいい,世界における悪の存在が神の全能と善と正義に矛盾するものでないことを弁証しようとする議論をいう(世界大百科事典 第2版より)

そして、アウグスティヌスやトマス・アクィナス、近世ではライプニッツなど錚々たる哲学者たちが論じているところでもあります。

ちなみに、私はこの小論で、「神義論の最終回答」を出すつもりでおりますので、興味ある方は最後までお付き合いいただければと思います。

とりあえずは、神義論の代表的な類型を2つ挙げてきます。これは、当サイトでも何度か言及している宗教多元論者、ジョン・ヒックの分類です。

 *参考書籍:『宗教の哲学』(ジョン・ヒック著)

宗教の哲学

 *下記以外にも現代ではいくつかの神義論パターンはありますが、今回は割愛します。

  • アウグスティヌス型神義論:神は世界の創造者であり絶対の善である。悪は人間の原罪と自由意志の乱用によって生じている。いわば、「善の欠如」が悪の正体である。
  • エイレナイオス型神義論:神は悪に対する責任を持つものの悪の存在は人間の発展にとって有益であるために正当化されうる

これらについてコメントする前に、まず私の考えを述べておきますね。

ネオ仏法の神義論

神義論の前提にあるものは、いわば”神の全能性”です。

この前提に立つからこそ、「ではなぜ、”全能”の神が創られた世界に悪があるのか?」という疑問が出てくることになります。これが神義論ですよね。

私はまず、この前提部分をもっと吟味してみたいと思うのです。

「”全能”(あるいは、”全知全能”)とはそもそも何であるか?」

じつはこの点については、過去記事の中ですでに述べております。

 *参考記事:「全知全能」のパラドックスを解決する – 超越と実在

要点をまとめてみます。

従来の”全能”という概念は「これ以上はない」というスタティックな(静的な)状態を想定している。

ところが、これでは”発展性”という明らかに神の属性と思われる性質と矛盾することになる。神の全能性に制限をかけることになってしまいます

つまり、スタティックな(静的な)状態は、そもそも神の全能性に齟齬をきたすことになる。

ゆえに、この矛盾を乗り越えていくためには、神の全能性は”ダイナミック(動的な)もの”として把握されなければならない、ということになります。

ダイナミクス

全体であり一である存在がそこにスタティック(静的)にとどまらずに、全体でありかつ一のままダイナミック(動的)に発展していくイメージです。

”全能”の領域そのものを更新していく存在と言っても良いでしょう。

ところで、全体でありかつ一である存在が発展していく、すなわち”増えていく”にはどうしたら良いのか?

それは、全体でありかつ一である存在の内部に個別的な存在を創り出していくことです。

これが解決策であり、ほんとうの意味での”天地創造”はこのようなものであると思われます。

旧約聖書に描かれている天地創造は文字通りに受け取るのではなく、このような象徴として受け取るべきです。

ここを文字通りに受け取ってしまうと、アウグスティヌスのいう「文字は殺し」という状態に陥ってしまいます。

なにしろ、旧約冒頭の天地創造は1ページ〜3ページめでいきなり矛盾がありますから。

ここでは詳しく書きませんが、男女を創る順序、植物を創る順序に矛盾した記述が見えます。

なのでやはり、「霊は生かす」方向で解釈していかねばなりません。

さて、では、全体かつ一である存在(神=実在)がその内部に個別的な存在、つまり有限である”現象”を創造すると、いかなる事態が起きるのか?

それは、

それぞれの現象の間に”争い””矛盾”が生じてくるということです。

矛盾

なぜそうなるかと申しますと、全体かつ一である存在(神=実在)は”意思”を持っておりますので、その内部に創造された存在もやはり”意思”を持っていることになるからです。

 *”実在(=神)が意思を持つ”ことについてはまた別の記事に書いてみます。今回は、キリスト教における神義論なので、「”人格神として顕現する神”、すなわち、意思を持つ神」は三位一体の教理的に前提条件として話を進めていきます。

イメージ的なたとえ話をすると、

盥(たらい)の中に水がいっぱいに入っている状態を想像してみてください。次に、逆さまにしたガラスコップをいくつか手に持ったまま盥の中に沈めてみます。

すると、それぞれのガラスコップのなかにも水が入ってきますよね。

ガラスコップAには水Aが、ガラスコップBには水Bが入っているように見えます。

この盥全体の水が、いわば、全体でありかつ一である実在の意思です。仮に”全体意思”、”実在意思”とでも呼ぶべきものです。

対して、ガラスコップA、Bに入っている水は、当然、元は同じ水なので”全体意思”としての性質は共用していますよね。

その証拠に、ガラスコップA、ガラスコップBを盥から引き上げると、おのおのの水はもとの”全体”に還元されていきます。

なので、水Aと水Bは別べつのように見えても、実際は一のなかの各部分に過ぎないわけです。

ガラスコップAの意思、ガラスコップBの意思は、いわば”個別意思”、”現象意思”とでも呼びましょう。

さて、これで、おのおのの現象が”意思”を持つことは分かりました。

ここのところでようやく先の問題に戻ります。

つまり、それぞれの”現象意思”相互に矛盾をきたしてくる、ということです。

というのも、各現象は一応は独立していますので、おのおの特有の環境の中にあります。

なので、「幸福を追求する」という実在意思を共有していたとしても、現象意思Aと現象意思Bの個々の具体的な欲求同士がぶつかってしまうことがあります。

むずかしい話をしているようですが、これは私たち一人ひとりに置き換えてみると、実感として分かるはずです。

つまり、私たちはみな、「幸福を追求する」という意思を共有しています。全体意思を共有しているということですね。

共有

ところが、個別の場面においては、

たとえば、AくんとBさんが「お腹が空いたのに林檎が1個しかない」という場合、AくんとBさんで林檎の取り合いが起きることがあります。

”幸福へ”という実在意思は各々の現象意思としても共通しているのに、時間の経過のなかでは、このような争いや矛盾が生じてくるということです。

これが神義論で言うところの、「神は全能であるのに悪が生じている状態」です。

ここまでの流れを振り返ってみますと、ちょっと矛盾した言い方になりますが、

全能性を維持するための必要悪が”悪”

という結論になります。

そういうわけで、トマス・アクィナスの次の言葉、

「もし悪が存在するのであれば、神は存在する」 (トマス・アクィナス『対異教徒大全』第3巻第71章)

という考察も裏書きされることになります。

そもそも”悪”とは何であるのか?

さて、では次に「悪とはそもそも何であるのか?」をテーマにしたいと思います。

究極の実在(神)が全体意思を持ち、個別的な現象である私たちが個別意思を持つ、ということを盥(たらい)とコップの例えでご説明しました。

そうすると、私たち個別意思の起源は、やはり、実在(神)の全体意思に由来しているということで、これは言い換えれば、”全体意思の分有をしている”状態であると言えそうです。

全体意思であれ、個別意思であれ、究極の目指すところは”幸福”であることは間違いないでしょう

ということは、”善い”とはすなわち、”幸福に奉仕する思い・行為ということになります。

反対に、悪い”とはすなわち、”幸福を阻害する思い・行為ということになります。

問題なのが、「善いと思って行為したのに、結果的には、幸福になれなかった、すなわち、悪い行為であった」という場合です。

幸福意思の関係性のなかに悪は生じる

先のたとえ話をもう一度、考えてみます。

ここにリンゴが1個あって、AくんとBくんがふたりともお腹が空いていてリンゴの取り合いになった。

喧嘩というのは、怪我をしたりしますので幸福を阻害します。悪ですね。

もともと、リンゴを食べるという行為は、「生体の維持に役立つ」ことに根拠があるはずなのですが、リンゴの取り合いをしたことにって怪我をしてしまい、「生体の維持がピンチになった」という不幸を招き寄せてしまいました。

リンゴ1個を我慢するよりも、より生体維持をピンチに陥れる怪我です。

この場合、Aくん一人であれば、とりあえず問題は生じなかったはずです。

Aくんの幸福意思とBくんの幸福意思が衝突して、そこに悪が生まれたということになります。

幸福意思相互の矛盾

ここで分かることは、幸福意思同士がぶつかってしまったということ。

AくんとBくんの関係性において不幸が生じたということ。

これらはすなわち、

悪とは、幸福意思相互の関係性において、互いに衝突・矛盾をきたし、結果、幸福を阻害してしまうことである、と言えそうです。

幸福意思を”自由意志”と置き換えても良いと思います。

それでは、世界にAくんだけであったら不幸は起きない=悪はない、と言えるか?

幸福意思にも段階がある

上のたとえとは違って、今度はAくん一人でリンゴを見つけたケースです。

Aくんがふつうに「お腹が空いたのでリンゴを食べる」ということでは、「美味しかった、お腹がふくれた、栄養になった」となります。

Aくんの「リンゴを食べる」という行為は、”幸福に奉仕した”ということになりますので、定義に当てはめれば、とりあえずは「善であった」と言えますね。

ところが、Aくんには、「もっと痩せたい」という幸福願望があった場合どうなるか?

この場合、「死ぬのは困るが、空腹を我慢してでも痩せるほうが幸福である」というふうに、

  空腹<痩せる

という幸福観であった場合、リンゴを食べてしまうと、

 満腹という幸福<痩せられなかった不幸

という図式になり、大小を差し引きすると、「不幸」となってしまいますよね。

もっとも、厳密には、

 満腹という幸福<痩せないという方向性を選んでしまい、プライドが傷ついた不幸

というほうが正確でしょうけどね。

このように考えると、幸福意思にも段階があり、下位の幸福意思が上位の幸福意思を阻害したときには幸福そのものが損なわれ、悪となりうる、ということが分かります。

しかし、このケースであっても、Aくん内部の2つの価値観が衝突して生じている、

つまり、幸福意思相互の関係性において悪が生じている、ということには変わりありません。

最初のたとえ話と本質においては一緒です。

ということで、”悪”とは何か?のまとめは、

  • 真実在(=神)の全体幸福意思は、現象である人間に個別幸福意思というかたちで分有されている
  • 個別幸福意思相互の関係性において矛盾・衝突があると悪が生じる

となります。

「悪がある」の”ある”とは何であるのか?

さて、この”ある”については今まで他の記事においても何度か述べてきました。

現象としてあるのか、実体としてあるのか、の違いです。

神義論の文脈での「悪がある」の”ある”は、明らかに、「現象としての”ある”」でしょう。

実体として”ある”のであれば、それは文字通り、永遠不滅の固定的な悪ということになってしまうからです。

「般若心経」や「空の論理」の解説で書きましたように、「現象として”ある”」ということは、ある時間的・空間的関係性のうちに、ひととき”ある”ということであって、これは実体として”ある”ということではない

 *参考記事:色即是空 空即是色 – 本当の意味とは?『般若心経』の悟りを超える

もっとも、このように論を進めていくと、神義論が立っているところの土台そのものが崩れてしまうことになりますけどね。

相対善/相対悪を乗り越える絶対善がある

ここでまたたとえ話をします。というか、善と悪についてのイメージ図です。

ここに迷路があって、Aくんが出口を目指して迷路のなかに入ってきました。

迷路を脱出するのが究極目標でありますので、迷路脱出にかなう行為・出来事は”善”であり、迷路脱出にかなわない行為・出来事は”悪”、ということになります。

迷路内における”善”は、行き止まりを避けて出口へ近づく行為・出来事です。

一方、迷路内における”悪”は、行き止まりにぶつかってしまうことそのもの、と言えるでしょう。

ところが、この「行き止まりにぶつかってしまう」というのが、「このルートを通ると行き止まりになるのだな」という一つの経験として捉えるとどうなるか?と言いますと、

これは、「次回からこのルートを避ければ良い」「このルートではなく、あちらのルートだ」というふうに、一層出口に近づくということになり、これは善に転化した状態である、と言えそうです。

このように考えてみると、Aくんがひととき正しいルートを通ったり、あるいは、ひととき間違ったルートを通ることは、すべてひとつの”過程”であり、これは、相対善、相対悪とでも呼ぶべきものですね。

つまり、「行き止まりルートを辿ってしまった」という”悪”も、それは正しいルートへ至るための一過程と捉えるのであれば、それは出口へ近づくという”絶対善”の一部に過ぎない、と言えるわけです。

これはたとえ話で今、お話していますが、人生における善・悪も長い目で見ればこのようなものです。

つまり、善悪とひとくちに言っても、まず、相対善と相対悪がある(一般的な意味での善悪)が、時間的・空間的差別を包含していくと、より上位の”絶対善”に回収される、ということです。

究極の真実在(神実在)は、相対善・相対悪の矛盾を克服したところの絶対善であるのです。

絶対善

したがって、タイトルの「全能の神が創った世界になぜ悪があるのか?」の”悪”は、あくまでの”相対悪”のことであり、絶対善から見れば、かりそめの存在に過ぎない、ということです。これが結論です。

「抗議の神義論」を乗り越える

神義論というとやはり、キリスト教的な文脈・前提でどうしても考えてしまいます。

前回の記事の前半ででご紹介した神義論の2つの類型を振り返ってみましょう。

  • アウグスティヌス型神義論:神は世界の創造者であり絶対の善である。悪は人間の原罪と自由意志の乱用によって生じている。いわば、「善の欠如」が悪の正体である
  • エイレナイオス型神義論:神は悪に対する責任を持つものの悪の存在は人間の発展にとって有益であるために正当化されうる

ネオ仏法は、「自由意志の乱用」、自由意志と自由意思のぶつかり・歪みで悪が生じているという意味では、アウグスティヌス型神義論に同意するものです。

善悪というものは、この世の相対性のなか、関係性のなかで生じてくる、という考え方です。

被造物の個々の部分の間では、ある部分が他のある部分に適合しないため、悪とみなされる場合があります。ところが、そのまったく同じ部分が、他のある部分に適合するとすれば、それは善であり、またそれ自体も善です。(アウグスティヌス『告白』第13章:19)

告白

ただし、ネオ仏法では(直接的な意味での)原罪説は採用しません。その理由はまた別のトピックで述べていきます。

また、「悪の存在は人間の発展にとって有益であるために」というところは、さきの相対善・相対悪の両者で絶対善が実現されうる、という意味において、エイレナイオス型神義論に同意するものです。

アウグスティヌス型神義論とエイレナイオス型神義論はそれぞれ、悪を善に回収されうる”消極悪”もしくは”必要悪”と捉えていますので、これに対しては近年、「抗議の神義論」というのが出てきております。

今回は詳しくは述べませんが、要は、この世界にある悪は”消極悪”ないし”必要悪”でくくるにはあまりに悲惨である、これはやはり神の責任を追求すべきでないのか?とプロテスト(抗議)する考え方です。

これはたしかに、キリスト教的な世界観の範疇では説得力のある”抗議”になりうるものでしょう。

しかしやはり、ネオ仏法的に観ると、「抗議の神義論」はあまりに”人間中心の世界観”から発しており、かつ、キリスト教の文脈に縛られすぎている、と感じられます。

キリスト教には、輪廻転生(りんねてんせい)の思想がありませんし、また、来世の理論があまりに不足していますので、どうしても、今私たちが住んでいるところの現象界(この世)の比重を大きく考えすぎてしまいます。

輪廻からは”カルマの法則”も導き出せますので、「この世での悲惨」というものも、一方的に不合理だとは言えず、あくまで縁起ですね、原因結果の法則に基づいているということです。

輪廻の思想を入れると、全ての出来事に”公平さ”を付与することができます

さて、以上、神義論を検討してまいりました。まだ採り上げていない神義論もありますし、アウグスティヌス型神義論・エイレナイオス型神義論・抗議の神義論に対してももう少し詰めたほうが良いとは思いますが、

とりあえずは、ネオ仏法の神義論の骨格は示せたのではないかと思います。

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