ペットとは死後、天国で会えるのか?- ペットロスへ陥っているあなたに

ペット 死後 天国 会える

可愛がっていたペットが亡くなると、「ペットロス」などという言葉では言い表せないくらいショックを受けるものです。人によっては肉親との死別と同様に、あるいはそれ以上に悲しみにくれてしまうことでしょう。

そこで、大好きだったペットと死後、あの世で(天国で)また会えるのか?再会できるのか?というトピックで今回は書いていこうと思います。

「結論だけ知りたい!」という方のために言っておきますが、可愛がっていた犬、猫などのペットとは死後、会うことは可能です。

その根拠を以下に記してまいります。

目次

動物の魂は死後、どうなるのか?

動植物の魂は類魂に吸収されてゆく

人間は死後も魂として、生前と同じ個性を存続させてゆきますが、動物や植物、微生物などの魂は「類魂」と呼ばれる魂グループに吸収されてゆきます。

人間にも類魂 ーこれは「グループ・ソウル」などとも言われますが ー があるのですが、人間の場合は類魂の一部となっても、個性は存続しているのですね。

生前に形成した個性を類魂のなかで共有し合い、類魂全体の霊性進化を成し遂げているのです。

一方で、動植物の場合は、死後、類魂のなかに収まってしまうと、文字通り「溶け込んで」しまい、生前の個体としての在り方ではなくなってしまいます。

それでも、人間と同様に、生前の経験が類魂全体の経験値として蓄積され、類魂全体の霊性進化が促されていくわけです。

ペットの魂はどうなるか?

動物の場合は上述した通り、死後、類魂のなかに個性が溶け込んでしまうわけですが、人間に可愛がられていたペットの場合、事情が少し異なります。

というのも、「人間と共に暮らした」という事実が、個性化を進めることになるため、死後も一定の期間、個性は存続するのです。

ただこれは、ほぼ、犬と猫に限定されます。

犬、猫以外の動物では、「人間と暮らした」と言っても、やはりどこまで行っても個性化が十分に育たないため、死後は類魂に吸収されてしまうのです。

なぜ、犬と猫なのか?猿のほうが進化しているのではないか?と思われるかもしれません。

唯物的な進化論的には一見、そう見えますが、やはり犬と猫はペットとしての歴史が長く、「人間のそば近くにいた」という事実が大きいのです。

ペットとの再会

そのため、霊的には、猿より犬・猫の方が進化していると言えるのです。

ポジション的に、人間を間近で観察できるため、人間に次ぐポジションと言いますか、より進化が進んだあかつきにはいつかは人間として生まれる可能性もあるのです。

ちなみに、猫よりかは犬の方が若干、進化していると考えられます。

猫はまだ臆病と言いますか、警戒心が強い傾向がありますよね。その分、「動物的」と言えるのです。

類魂のなかでも本体霊に近い部分は、次の「人間候補」となっていくことが想定されます。つまり、動物(あるいは植物)も輪廻転生があるのです。

死後、ペットとは会うことは可能

一定の期間、ペットと再会することができる

生前、可愛がっていたペットとは愛の絆で結ばれています。愛は宇宙で最大の力ですから、これを遮るものは何もないのです。

ゆえに、(人間が)死後も「ペットと会いたい」という念を持っていれば、あの世の世界で会うことができます。

ただこれは上述したように、ほぼ犬と猫に限定されます。他の動物は個性が類魂に吸収されてしまっているため、会うことはできないと考えられます。

ただし、ペットと再会する期間は限定されていると思われます。

・・・というのも、人間は死後、(霊界生活に慣れるため)元々住んでいた霊界の階層よりは低い世界に留まるがゆえに、犬・猫などと会うことができるのです。

霊界の生活に慣れてくると、徐々に本来住むべき階層へと上がっていきますので、ペットとはバイブレーションにだいぶ差が出てしまい、会うことが難しくなってしまうのです。

そして、その後、そのペットも類魂の中に吸収されていきます。

これは少し残念なことではありますが、しかし、犬あるいは猫として「地上にて人間に可愛がられ、人間を観察して生活した」という経験は類魂全体の霊性進化を促すことになり、やはり貴重な機会となっていたのです。

そして、類魂のなかでも本体霊に近い部分がやがて、人間へと進化していく道が開かれていくのです。

人間の霊格がかなり高い場合は?

以上は、平均的な人間の場合ですが、生前にすでに真理を知り、菩薩の悟りを得ていたような人は死後まもなくであっても、かなり高い階層に還ってゆきますので、ペットと会うことは難しいかもしれません。バイブレーション(波動/波長)の精妙さに差がありすぎるためです。

ただそれであっても、「一時的にあえて、バイブレーションを下げる」ことによって、ペットと一定期間、再開することは可能なのかな、と思います。

バイブレーションは意図的に上げるのはほぼ無理筋ですが、意図的に下げることは可能なのです。一時的に、ですね。

これは、例えて言えば、大人が子どもに合わせて会話したり、振る舞ったりすることが可能であることに似ています。

ペットと再会できないケース

これは当然のことではありますが、人間の方が生前の思い・行いが悪く、地獄へ堕ちてしまった場合、ペットとは会うことはできません。だから、日々の思いと行いが神的実在の御心にかなうよう気をつけて生活してまいりましょう。

じつはペットといいますか、動物にも天国と地獄があります。地獄の場合は俗にいう「畜生道」という世界ですね、あるいはそこまで深い地獄でなくとも、たとえば、生前飼い主に虐待されたとか、ひもじい思い、寒い思いをしてこの世を去った、などというケースの場合、一時的に天国領域でない世界へ還ることがあります。

ただ、この記事を読んでいるような人に飼われたペットはずいぶんと可愛がられて生きたでしょうから、天国領域へ還っていくであろうと思いますので、そこまで心配はいらないであろうかと思います。

「虹の橋」でペットに会える?

亡くなったペットが天国の手前の”虹の橋”というところで私たちを待っている、という説もあるようです。

虹の橋

”説”といいますか、そういう詩があるのですね。

日本語訳を引用してみましょう

天国のすぐ手前に「虹の橋」と呼ばれる場所があります。
この世で深く愛されたペットが亡くなると、そのペットは虹の橋へと向かいます。
そこには私たちの愛するペットたちのための草原や丘が広がっていて、動物たちはみんな一緒に走り回ったり、遊んだりすることができます。
たくさんの食べ物や水があり、太陽の光に包まれて彼らは暖かく、そして快適に過ごしています。

病気や年老いていた動物たちも、活力に満ちた元気な姿に戻り、傷ついたり不自由だった動物たちも、再び元の力強い姿に戻ります。私たちが覚えている、ペットたちのかつての姿のように。
彼らはみんな幸せで、そこでの生活に満足していますが、ただ一つだけ寂しいことがあります。
それは、愛してくれた人と別れなければならなかったことです。

動物たちはみんな走り回って一緒に遊んでいますが、ある日突然、一匹が立ち止まり、遠くを見つめます。その目は輝きだし、体は喜びで震えています。
突然、彼は群れから駆け出し、草原を走り抜け、どんどん速く足を運びます。
あなたを見つけたのです。
そしてついに、あなたと愛するペット(特別な友達)が再会した時、あなたは幸せいっぱいに抱きしめ、もう二度と離れることはありません。
あなたもペットも涙を流しています。
あなたは再びその愛おしい頭を撫で、信頼に満ちたその目を見つめます。長い間離れていたものの、心の中では決して離れることのなかったその目を。

そして、あなたたちは一緒に虹の橋を渡っていくのです…。

この詩は世界中のペット愛好家に感動と希望を与え、セレモニーなどでも使われているようです。

希望に満ちてはいますが、では具体的に「虹の橋」が本当にあって、そこでペットが私たちを待っているか?というと、「そうとも言えるし、そうでないとも言える」というのが本当のところだと思います。

やはり、詩はあくまで詩であって、ある一定の真実 ーこの場合は、「ペットに天国で再会できる」という真実 ーをついてはいますが、具体的にそこが「虹の橋」であるとは限らない、というのが事実だと思われます。

ただ、認識があの世の世界を決定しますので、強い思いで「虹の橋で愛するペットと会えるんだ!」と願っていると、死後、そういった風景に出会い、実際にそこでペットと再会することはあり得ることでしょう。

ただ、事実としては、とくに「虹の橋」である必要はなく、生前可愛がっていたペットとの再会を強く思っていれば、実在界(あの世)のどこかで会えるのは本当のことです。

全生命が進化の過程にある

生きとし生けるものに神性が宿っている

さて、「ペット(犬・猫)とは天国で会える」ということの解説をしてまいりました。

犬・猫が霊性進化を果たし、類魂のなかの中数部分はやがて人間へと進化していく可能性がある、ということには驚かれた方もいらっしゃるかもしれません。

実際は、犬・猫に限らず、すべての生命が霊性進化の過程にあるのです。

たとえば、ライオンとして修行を積んだ魂が、つぎは猫に生まれてくるとか・・・そしてやがては人間に、というふうに霊性進化を遂げてゆくのです。

生きとし生けるものはすべて神的実在が創造したものであり、また、神的実在の分霊であるとも言えます。

そういう意味では、仏教の日本的解釈、「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」ー あらゆる存在に仏性が宿っている ーという思想は正しいのです。

ただ、神性(仏性)の権限の仕方に段階差や個性差があるだけなのですね。

神性の顕現の仕方に差があるのは不公平なのか?

ところで、進化は進化としてあるにせよ、神的存在による創造の時点で、「あるものが人間として創造され、あるものが動植物として創造される」という事実に不公平感を感じたりしませんか?

実際のところ、人間であっても、たとえば「やっと犬から進化した」という人間としてのスタート地点に立ったばかりの魂もいれば、如来から分霊されて(最初から)菩薩として誕生した魂もいるのです。

そうすると、「スタート地点」の設定が不平等ではないか?不公平ではないか?との疑問が出てくるのも当然であるように思われます。

ここらへん、なぜ、そうなのか?本当に不平等なのか?いや、そもそも”平等”とは何か、さらに言えば、「そもそも幸福とは何であるのか?」ということを深掘りしていかなければ分からないところなのです。

結論から申し上げれば、生命というものは霊性進化の「過程」そのものに幸福感を感じるように作られているのです。ここの「幸福論」こそが、ある意味で、神的実在の世界創造のキモである、と言ってもいいくらいです。

ですから、あるものは犬として造られたり、あるものは人間として造られたり・・・とさまざまなパターンがありますが、それは決して不公平なわけではないのです。

「ある進化の時点に達している」という静的な状態が望まれているわけではないのです。

そうではなく、どのような段階にいるにせよ、「霊性進化の”過程”にある」という、まさにその「過程」に重点が置かれているのですね。過程のなかにこそ幸福感を感じるように造られており、その点において「平等である」「公平である」と言えるのです。

なので、「今、自分はこんなに悟りが低い」というふうに悩んだり、誰かと比べて「あの人のほうが悟りが進んでいる」などと劣等感を感じる必要はないのです。

そうではなく、今いる自分の位置から一歩でも霊性進化を果たしていくこと、さらに、その自分の資質で社会のユートピア化に貢献していくこと、そこに幸福ポイントを置くことが大事なのです。

「ペットと死後、天国で会えるか」というテーマからだいぶ逸れたようですが、自分自身も、可愛がっていたペットも、また、生きとし生けるものすべてが神的実在の愛のなかで、懸命に霊性進化を成しつつある、ということに気づくと、より広い視野を得ることができますので、追記してみました。

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