”ありのまま”の本当の意味 – ”あるがまま”との違いをめぐって

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”ありのまま”と”あるがまま”の違いについて、まず辞書的に調べてみました。

実用日本語表現辞典では、”あるがまま”イコール”ありのまま”となっています。

一方、goo辞典では下記の通り、微妙に違う定義となっています。

目次

”ありのまま”と”あるがまま”の違い

結論から申し上げますと、”ありのまま”と”あるがまま”は、同じ意味と捉えてもいいが、慣用的には微妙に使い分けられている、と言っても良いでしょう。

どのように使い分けられているかを整理すると、下記のようになるかと思います。

  • ありのまま:本質的なあり方
  • あるがまま:現象的なあり方

まあ、「辞書的に」整理すればこのようになるのかな、ということですが、実際、”ありのまま”の状態で生きているつもりであっても、それが本当の意味で”ありのまま”になっているかどうか判別が難しいです。

”ありのまま”といえば、『アナと雪の女王』、アナ雪ですね、”Let It Go〜ありのままで〜“の歌を思い浮かべます。

レット・イット・ゴー

ありのままの自分になるの

だってもう自由よ なんでもできる

どこまでやれるか 自分を試したいの

エルサは女王の立場を捨ててこのうたを歌いつつ、いわば”ヒッキー”になってしまうわけですが、ではそれがエルサの本当の「ありのまま」だったのか?というと、映画の内容に即して考えたとしてもそれは「勘違い」「逃避」だったわけです。

映画のラストでは、お城に戻ってハッピーエンドになるのですから、むしろ、女王の立場を全うするほうが、「ありのまま」のエルサであったわけですよね。

このように、エルサに限らず、ですが、自由イコール”ありのまま”と振る舞ってみたとしても、それは単なる逃避だったり、ワガママだったり、自らの本質を勘違いしているパターンに入ってしまいがちなのです。

”自由”とは「自らに由る」と書きます。ところがその「自ら」が一筋縄では行かないんですよね。

宗教的には”真我”、その真逆の”偽我”と言うこともありますが、「自ら」が真我なのか自我なのか、の見極めがそもそも難しいわけです。

実は難しい “ありのまま”

以下、”ありのまま”と”あるがまま”をほぼ同じ意味という前提で、「ありのままに生きるのは易しいことなのか?」というテーマで考えてみます。

「ありのままでいい」「あるがままでいい」という言葉は、自己実現本でもネットのBLOGでもよく見かける言葉です。

間違っているとは思っていません。

が。これ、結構、難易度が高いと思うんですよね。口当たりが良い言葉のわりに。

また、それ以前に、何をもって「ありのまま」「あるがまま」としているのか、よく分からないところがあります。

この、「よく分からない」という時点で、すでに私にとっては難易度が高く思われるのです。

でもまあ、いくつか整理した上で、考えてみましょう。

<自分が>「ありのまま」「あるがまま」の場合

これは下記の3通りあるかなあと思います。順番に見ていきますね。

①肉体感覚に基づいた「ありのまま」「あるがまま」の場合

これは真理スピリチュアル的に言えば、論外、とでもいうべきパターンです。

場合によっては、この世の刑法にすら抵触する方向にも行ってしまいますね。

要は、自我我欲の肯定ということになりますので、流れとしては、どこまでも欲望に忠実でよい、という、超ワガママのススメになってしまいます。

つまり、人を殺しても「ありのまま」「あるがまま」ということになりますのでね。

自由というよりも、単なる、放銃(ほうじゅう)を認めるという態度ということになるでしょう。いわば、無制限な「ワガママのススメ」です。

なので、これはまったくの論外です。

こうした刑法レベルまで行かずに、世の中のルールには抵触しない範囲で「自分軸で生きる」でいいじゃないか、という論点もありそうです。

ただ、「自分というものはそもそも軸にできるくらい確固たるものなのか?」という視点があります。

他人軸であれ、自分軸であれ、「しょせん、人」ですので、いろいろと揺れ動くものです。そうした揺れ動くものを軸にしてもこれまたかんたんな幸福な道ではないでしょう。

*参考記事:自分軸で生きるのが難しい人へ – スピリチュアル的”絶対軸”のススメ

②スピリチュアルで言う「真我」「神性」「仏性」を指す場合

これは①とは真逆で、いわば、「真なる我」に従っていきましょうということになります。

もちろん、全然、間違いじゃないですし、むしろ、どこまでも魂を伸ばしていきましょう!ということで、正解中の正解です。

しかし、「言うは易く行うは難し」で、神性・仏性に従って生きることそのものが実は”修行”であるわけですよね。

そうすると、これを言うなら、あえて、「ありのまま」「あるがまま」との物言いをする意味がなくなって、普通に「修行せい!」と同じ意味になってしまいますね。

つまり、「そもそも論」として、前提が崩れてしまいます。

③上記の①と②の両方を指しつつ、「現状を受け入れましょう」という意味の場合

これが一番、議論の余地があるところです。

つまり、

  • ①の肉体我に基いて出た思いや行い→至らない自分
  • ②の神性が発揮された自分→なかなか良くやっている自分

の両者を認めて、<今ココ>の自分がいる地点を見極めましょう、という内容になるかと思います。

このケースでは、『「ありのまま」「あるがまま」の自分を受け入れましょう』という物言いが多くなると思いますが、これはじつに正解なのではないかと思います。

つまり、現状認識をしっかりと受け入れることによって、背伸びしている自分を捨てて、まんざらでもない自分も発見しいく。

心の安定が得られますし、かつ、現状認識がフラットになるので、人生目標に対する適切な対策が打てるのですね。

この「ありのまま」「あるがまま」は、仏教の中道論にも一致すると思うところがありまして、きわめて重要なので、別記事で書いてみますね。

ただそれにしても、多くの方が<ふわっと自然体>というイメージでいるほど、この認識は簡単ではないです。

というのも、「背伸びしている自分を捨て」「まんざらでもない自分を発見する」というのは、やはり、自己を客観視する理性の力が必要だし、相応の考える時間を確保しなければ、なかなかこの認識には至らないと思うのです。

それが、「自分でやるのは難しい」ということであれば、信頼できる心理学のカウンセラーか、真理スピリチュアルのカウンセラーに相談するのが一番だと思います。

老荘思想的に「ありのまま」「あるがまま」の場合

このパターンもわりと多いんですよね。

老荘思想については、私も真理だと思っています。しかも、ある意味で最高度の真理だと。

でも…、

老荘思想的な「ありのまま」「あるがまま」というのは、「遥か上級のスピリットから見れば、そう見える」という前提が入るような気がします。

たとえば、悪とか苦しみとかは、生きていれば当然、出くわしますね。

しかし、これも、遥かなる神仏の目、遙かなる時間軸から見ると、いま現在、悪や苦しみと見えているものであっても、善なるものやがて転化していくことになります。

「すべては仏の手のひらのうちにある」というのは、実ははこのことを言っているわけです。

そうすると、「じたばたあくせくしなくても、永遠とも思える時間軸で見れば、やがては全ては善なるものへ転化していくのだから、焦ったり苦しんだりする必要はない」、

ゆえに、「ありのまま」「あるがまま」でいいと。簡単に言えば、これが老荘思想なんです。

でも、

この視点ってやっぱり、遥かはるか上級の神霊だからこそ思える心境なんですよ。普通の人ではまず、ここまでの開き直りはできません。

したがって、やはり難易度が高いんです。いや、高すぎると言っても良いでしょう。

また、老荘思想的を人生論全般に当てはめてしまうと、ミクロ的に悩んだり苦しんだりしている人に対して、「放っておけばよい、なぜなら、いつかは彼らの経験も善に転化していくんだから」ということになり、天使の仕事がなくなってしまう。

天使の失業です。

まあ半分冗談ですが、「ありのまま」「あるがまま」でいいのなら、人間の側と天使の側、双方の努力論の余地がなくなり、それは結果として、大宇宙の根本のエネルギーが意図をもって、階層世界を創造したそもそもの意味を無化してしまうことになります。

*参考記事:霊格の段階(魂のレベル)一覧と霊格向上の原理

そういうわけで、老荘思想的な「ありのまま」「あるがまま」というのは、「永遠の視点から見ると、こういう見方があるんだな」という、自分自身の認識レベルでの<余裕>として使う分には良いのですが、やはりトータル論では使えないな、というのが私の感想です。

まとめ

どう転んでも、「ありのまま」「あるがまま」は難しいということです。

また、口当たりが良いコトバであるだけに、言っている方も言われた方も「なんとなく納得してしまう」というやっかいな面もあります。

そして、その「なんとなく」が思考の余地を奪ってしまい、智慧の獲得という機会を逃すことにも繋がってしまう。

さらに、「永遠の、ありのままの自分探し」といった妙な自己啓発漂流民的ループに入り込んでしまったりもします。

少なくとも、一時的な精神的カンフル剤以上のものにはならないような気がします。

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