『聖☆おにいさん』中村光 (著)というマンガについて、真理スピリチュアルからどう評価すべきか、そこからさらに、日本が世界に貢献できること、日本の使命を考えてみたいと思います。
『聖☆おにいさん』の真理スピリチュアルからの評価
一読して、天界・菩薩界でも賛否両論の本(漫画)かなぁ…とは思いました。
良いところは、ひとことで言えば、
- イエスと仏陀は仲良し。仏界で喧嘩しているわけではない
ということで、日本人からすると、「ふーん」ってところですけど、世界的に見れば、まだけっこうびっくりする価値観なのかなって思います。
良くない(まあ私はふつうに楽しみますけど)ところは、
- 聖人の言動を茶化している
と、これまた一点に尽きますかね。まあ、コミックですしね、ごく普通の感想でしょう。
しかし、後者のほうは、これがキリスト教圏などで発表されたのであれば、けっこう物議をかもしだすところでしょうね。
以前、イエスの生涯を映画化した作品がありましたよね?今、タイトルを思い出せないのですが、
十字架にかかって最期のときを迎えんとしたイエスが、マグダラのマリアとの平凡で幸福な生活に思いを馳せる…みたいな内容だったかと思います。
これは、欧米では上映反対運動がけっこう起きたと記憶しています。
まあ、諸外国、とくに一神教的風土では当然、そうなりますね。
こうした、「聖なるものを引きずり下ろす」という発想は、やはり、天界のものではなく、地獄的なものだな、と思いますし、上記の映画はやはり超えてはいけない一線を超えていると思います。
もちろん、「ナグ・ハマディ文書」が発掘されて、まあ映画では『ダ・ヴィンチ・コード』ですかね、それで有名になりましたが、
実は、イエスには妻が居た。それはマグダラのマリアであった、ということを示唆する福音書(正式には認められていない福音書)もありまして。
では、それが問題か?というと、私はそうは思いませんけどね。
要は、結婚生活をしていたかどうか?妻が居たかどうか?というのは聖性とは関係がないもので(ソクラテスにも妻はいました)、
問題になるのは、
- 仏界(如来界)から降臨してきたような存在が、その使命感よりも、1個の肉体的人生観を選んでしまうのかどうか?
- 人間の側がそのような疑惑を抱き、作品として発表し、そして世間に影響力を発揮して良いのかどうか?
というところですね。
要は、信仰の対象を世俗的な位置に引きずり下ろして、数億人のキリスト教信者の心を傷つけて良いものかどうか?という問題です。
こういう発想はマルクス主義と軌を一にしているもので、ひとことで言えば、「権威あるものを自分の位置まで引きずり下ろして自己満足を得たい」という発想(欲求)から来ているものだと思います。
そして、こうした発想は、まず絶対に幸福論には結びつくことはないです。
したがって、それを作品化し、世間に影響を与える行為は、当然バツである、という結論になります。
ただ、『聖☆おにいさん』についてはですねぇ…まあいろいろ茶化してはいますが、はなからギャグ漫画であるってこともありますし、
まあ、「茶化し」の方向性が「親しみやすさ」のほうへ向いていると思いますのでね。個人的にはアリだと思っていますけどね。
読んでいるうちに、
- 聖書や仏典のエピソードが頭に入ってくる
- 「福音書や仏典を読んでみようか」という真理への誘(いざない)いの役割を果たしている
という側面はプラスに評価されて良いと思います。
そして、冒頭でも申し上げた、
- 仏界(少なくとも地球の霊域としは最高領域)では、イエスや仏陀など、「聖人」と呼ばれる存在は、お互いに一致協力している
という価値観ですね。
これは今後の「地球単位で物事を考える」文明を迎えるにあたり、すごく大事な観点ですからね。この影響力は、大きくプラスに評価できるものではないか、と、個人的には思いますけどね。
「個人的には思いますけどね」と限定付きで申し上げているのは、理由がありまして。
実際は、天界以上の世界、つまり菩薩界であっても、価値観・価値判断は一通りではないんですよ。
これを聞くとがっかりする方もいるかな?と思って、言うべきかどうか?悩むところではあるのですが。
たとえば、ルネサンス期のイタリアに「マキャベリ」という人がいましたね。『君主論』という著作で有名な方です。
「マキャベリズム」ということで、まあ、「権謀術数(けんぼうじゅっすう)」ですね、これを正当化している理論ではあるのですが、
マキャベリおよびマキャベリズムに対しても、「とにかく権謀術数は良くない」っていう意見も(菩薩界であっても)多いと思いますよ。
儒教系の天使たちはだいたいそう判断していると思います。
儒教的には、「君子でなければいけない」「徳でもって治めなければいけない」ということですね。
ただ、理想ばかり言っていると、現実には、理想からかえって遠ざかることもある、ということも歴史がわれわれに教えるところで。
マキャベリとしては、「イタリアの統一こそがイタリアの人民にとって、なにより幸福なことである」という価値観が先にあると思うんです。
なので、理想(綺麗事)よりも「現実に効果があるかどうか?人民の幸福に資するのか?」を優先させるということですね。
実は私なんかはこちらの意見に賛成するタイプです(まあ私のタイプなんかどうでもいいんですが・笑)。
まあしかし、この儒教で言うところの徳治主義ですね。あるいは、プラトンも「哲人王による理想政治」を説きました。
これが実現すればたしかに理想的ではあるのですが、
これがめったに実現しないから、民主主義が要請されるようになった、という歴史的経緯がありますよね。
まあ話がそれましたけど、天界・菩薩界であっても、価値判断は一通りではない、ということですね。
また、だからこそ、現実世界(文字通り、実在世界の現れ、の世界です)では、いろいろな価値観が展開している、という事実があります。
ただ、そうではあっても、
多元的な価値観が互いに争うのではなく、より上位のグローバルな価値観のもとに、「互いの個性・多様性を尊重しながら、かつ一つにまとまる」という方向性ですね。
これが、今後の文明のベースになるべきだと思いますし、そうしたベースを提供するのが、日本および日本人の使命であって、
そういう意味では、『聖☆おにいさん』という作品はじつに日本的なんですよね。
ギャグマンガではあっても、いや、だからこそ、日本以外の国にも、「まあベースとしては、こういうふうに考えたらどうでしょう?」と気楽に感化力を発揮しやすい側面は高く評価されて良いと思います。
「日本に使命がある」は国粋主義ではない
「日本に使命がある」というと、なんだか右翼か国粋主義者か?と思われるかもしれません。
しかし、ネオ仏法ではそもそも輪廻転生を認めていますので、右翼・国粋主義にはなりようがないんです。
なぜというに、これは簡単な理由なんですが、
輪廻転生の立場からは、「たまたま、今回、日本に生まれているだけ」でありますので、とくに日本に固執する理由がなくなるんですね。
*参考記事:リンカーネーション(輪廻転生)とは?その意味と目的を解明する
他の国を批判することもありますが、それはその国が憎いからではなくて、大局的に見て一定の批判を加えておいたほうが、相手国のためでもある、という理由です。
そもそも、その「批評を加えた国」に過去世において生まれているかもしれないじゃないですか。
なので、輪廻転生を認める立場からは国粋主義は発生しようがないのです。
ただし、運動会で「紅組・白組」に分かれて競技をするように、「ま、今回は紅組なので、紅組としてがんばりますか」っていうのはあります。
逆に言えば、その程度の「こだわり」具合であるってことですね。
文明の中心点が移動する理由
過去の歴史を振り返ってみると、いつも一定の期間をおいて、文明の中心点が移動していることに気づきます。
覇権国が入れ替わっている、と言っても良いでしょう。
われわれの歴史時代で「覇権国」ということでまず思い浮かぶのが「ローマ帝国」ですよね。
ローマ以前の都市国家、ギリシャを付け加えておいたほうがいいかな。古代エジプトから始めてもいいですが、キリがないので。
まあ、西洋においては、
古代ギリシャ→古代ローマ→(中世はイスラム系の国をはさみつつ)→ルネッサンスのイタリア→大航海時代のスペイン・ポルトガル→17世紀のオランダ→18世紀のフランス→19世紀の大英帝国→20世紀のアメリカ合衆国
と、こんな感じですかね。ものの見方によっては、「ドイツが入ってないのはけしからん!」などあるかもしれませんが。
ここで言いたいのは、なぜ文明の力点が移動しているか?ということです。
これを地政学的に説明しようとしても不可能です。
たとえば、朝鮮などを語る時に、「半島国家の悲劇は…」などと言う人もいますが、
古代ギリシャなんて半島の、さらにそのなかの都市国家群に過ぎませんよね。
ローマ帝国だって、帝国以前にイタリアを統一しましたが、これは文字通り、半島国家(もっとも、当時は今のような「国民国家」という概念はありません)です。
なので、この世だけの論理で、地政学的に説明しようとしても不可能なんですよ。
やはり、その時代時代に、「今回はこの国を中心に盛り上げていこう!」という計画が実在界においてある、というのが真相です。
そして、その文明の中心点が移動したあとは、もう跡形もないというか。いやいや、ほぼ「跡」だけが残るわけですね。
今のギリシャがまさにそうで。
ソクラテスやプラトンなどの哲学、民主政の始まり、偉大な芸術…みな過去の遺産になっています。
「古代ギリシャの観光地」が最大の資源になっていますよね。
*こうした「神の世界計画」について語っているのが、じつはヘーゲルの『歴史哲学』です。
東西の文明が日本に合流している
西洋の文明の力点はかんたんに上述しましたが、東洋においてはどうでしょうか?
ざっくり言うと、
- インド→中国→日本
という流れになっています。
インドは現代では、発展途上国のくくりに入るでしょうし、今の共産主義中国は問題ありまくりで、覇権国家を目指している、というのは事実ですが、
内実をトータルで見る限りでは、中国には覇権国家の資格はないですし、またそれを止めていかなくてはいけません。
ちなみに、「中国3千年の歴史」とか、まあ4千年とか、いろいろ言われていますが、事実は3千年ではなくて、「中国70年の歴史」が正解です(2019年現在)。
中華人民共和国の建国は1949年ですからね。引き算すると、70年になります。
それ以前にも、「中国大陸」には、いろいろな王朝が勃興しましたが、文字通り、王朝は違っていますし、版図も違う。
決定的なことは、「民族も違う」ということです。
中華人民共和国の前の清(しん)は満州族ですし、元(げん)はモンゴル人、隋・唐(ずい・とう)は鮮卑(せんぴ)系の民族です。
なので、「中国3千年」などの言い方が通用するのであれば、「ヨーロッパ3千年」でも「アフリカ1万年」でも、なんでもOKということになってしまいます(笑)。
まあ、話がそれましたが、中国(大陸)の文明としては、やはり、隋・唐のあたりが最盛期でしょう。
日本が遣唐使を廃止(894年)したあたりからは、文明としてはずっと下り坂です。
さて、上述した西洋文明の力点と東洋文明の力点をトータルで見ると、明治維新以降の日本に東西の両文明が合流していることに気づきます。
明治・大正あたりは、いわばまだ揺籃期とも言えますし、昭和には敗戦も経験していますね。
*ただし、「本当に敗戦であったのか?」というのは、まったく別の角度から検証することも可能ですが、今回は触れません。
やはり、80年代なかば以降から、本格的に21世紀のパクス・ジャポニカに向けての準備が始まった、と言えるのではないかと思います。
1985年の「プラザ合意」あたりが分岐点かな、と。
要は、1ドル=360円の固定相場は勘弁してくれ!というのが、米英仏の本音です。国力相応じゃないじゃないか、ということですね。
これですね…、日本人は自国のことを悪くいうのが大好き、という珍しい民族なので、見落としがちなんですけどね。
「プラザ合意」のついでに、為替の話しでいきましょうか。
よーく、「〇〇の政治不安があり、比較的安全資産とされる円が買われて円高になった」ってニュースが流れますよね。
これ、よく考えたら、すごいことなんですよ。
だって、これ、基軸通貨である米ドルよりも日本円のほうが信頼されているってことですよね?
そう、イデオロギーや思想信条が入り込まない分、経済・金融のほうが「正直に」国力の推移を測ることができるんです。
日本の使命は「総合」にある
さて、東西両文明が日本に合流していることを確認しました。
そして、20世紀後半から「情報革命」が進行して、まずは情報レベルでは(金融も含めてもいいですが)、世界がひとつになろうとしています。
過渡期としては、グローバリズムの弊害もありましたし、その弊害については私も当サイトで、「グローバリズムは経済帝国主義の言い換えに過ぎない」と警告を発したことがあります。
とはいえ、こうして情報レベルで、歴史時代においてはじめて「地球単位」で物事を考えられるようになった。
この機会を、神仏が見過ごすわけがないじゃないですか。
「弥勒菩薩は56億7千万年後に地上に下生する云々…」なんて話もありますが、菩薩が慈悲の存在であるならば、現代の情報社会というチャンスを見逃すわけがないんです。
56億年待っていたら、地球、ないですよ(笑)。
結論的に言えば、
「過去の(歴史時代の)東西両文明の成果・達成を融合しつつ、さらに、その両者を止揚(しよう)し、総合させる」というのが日本と日本人の使命です。
これ、弁証法ですね。矛盾する両者の本質を保存しながら、さらに上位の概念へ統合する、というアレです。
*参考記事:ヘーゲルの弁証法を中学生にもわかるように説明したい
個人の認識(悟り)が弁証法的に発展していくように、文明もまた弁証法的に発展していくということです。
そして、「地球の文明」という単位でみたときに、その総合者としての役割が日本にバトンタッチされているということになります。
日本人の「総合家」気質
こうした「総合家」(格闘家、みたいな・笑)として日本というのは、実際は、周到に準備されているんです。
古くは、聖徳太子の時代ですね。仏教の受容。
これも社会科や歴史の授業で習ったことをちょっと思い出してください。
6世紀に、仏教を受け入れるか否か?で、蘇我氏と物部氏が争い、結果、蘇我氏が勝利して仏教を受け入れることになったと。
そして、くだんの聖徳太子の「十七条憲法」において、
- 篤(あつ)く三宝を敬え 三宝とは仏法僧なり
と述べられていますが、聖徳太子は同時に、「敬神の詔(けいしんのみことのり)」も発しています。
つまり、神道を保ちつつ、仏教を受容しますよ、と。
これは、いわば、「離れ業」であって、現代でもこんなことが可能な国がいくつあるか?ということですね。今から1400年以上も前ですよ。
「宗教とか正義で戦争をしない」という論点から言えば、ヨーロッパがその段階に入ったのはようやく17世紀になってからです。
具体的には、「ドイツ30年戦争」(1618-1648年)以降のことですね。
それまでは、カトリックvsプロテスタントで血みどろの争いをしていたわけで、ドイツ30年戦争がまさにその頂点なんですが、
その30年でほとほと、疲れてしまったと。
そして、1648年の「ウエストファリア条約」で、「信仰の自由は領邦の君主に任せる」ということになった。
これは、「いいかげん」といえば、ずいぶんいい加減な条約であって、いわば、「まあ、もう信仰のことで戦争するのは馬鹿らしいじゃないですか」というのが趣旨ですね。
1648年まで待って、ヨーロッパはようやく、いい加減=良い加減になったわけです。
アメリカに至っては、いまだに「正義」で戦争しますからね。
*ただし、本当に地球的な正義と一致しているケースもたまにあると思えます
この日本と日本人の総合家気質ですね、「和をもって尊しとなす」という精神は、その後、
- 神仏習合
- 本地垂迹説
- 石田梅岩の石門心学(→心の栄養になれば、神道でも仏教でも儒教でも良い、みたいな)
を経て、庶民レベルまで受け継がれていきます。
そして、結果、現代のわれわれの感覚であるところの、「クリスマスの7日後に神社に参拝に行って矛盾を感じない」という精神。そして『聖☆おにいさん』に至るわけです。
ここまで長々と書いて、やっと、『聖☆おにいさん』に戻りましたね(笑)。
ただしかし、
足し算的に、「あれも良い、これも良い」というだけでは、まだ、「弁証法的な発展」にはなりませんので、それが今後の課題になる。
その課題を引き受けるのは、東西両文明の合流地点であり、「和を持って尊しとなす」の精神をもった日本と日本人にある、
ということになります。
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